第五章
一月の土曜日の朝方、日葵のもとに手紙が一通届いた。白無地の四隅にトリコロールを縁取った封筒には、桃色のゼラニウムの切手が貼られ、見慣れぬアルファベットの消印が押されている。
三枚折のシルバーホワイトの便箋は、煌々たるスカンディナヴィア山脈の麓から、幾重の潮路、永い空路を飛び超えてきて、ようやくここまで辿り着いたはずなのに、ムスキーの香水の微香がまだ薄っすら染みついている。
開いてみると、少々読みにくい癖のある、‘Dear Himari’から始まる筆記体の英文が、丹念な手によって綴られている。これはスウェーデンイェムトランド県、ブレッケに在住する、日葵の中学時代のアシスタントティーチャーのカミラからの便りである。英語学習から弁論大会まで、日葵は随分彼女の世話になった。
以来毎年欠かすことなく、日付はまばらだが、年が明けると同様の手紙が送られて来るので、日葵もまた几帳面に毎年必ず返信している。
『いつかスウェーデンに来てください。その時は私が案内します。私の町にも、ようやく観光客と、忙しい生活が帰ってきました』と締めくくられた手紙を読み終えると、日葵は早々に碧に電話をかけ、まだ寝起きの彼を半ば強引に、近所のファミリーレストランに誘い出した。
碧の障害者医療自己負担上限額は年明けに更新され、月額が昨年の四分の一になった。未だ無職で収入がないこと、また病状の継続的深刻さが原因である。碧も日葵も、そろそろ動き出す必要がある。
支払いが日葵持ちだったのは、今しがた思い出した相談事を碧に持ち掛けることにしたためである。
碧がいろいろと手間取って、結局二人が会ったのは十一時を少し過ぎた頃である。広めの店内は、中途半端な時間帯なのもあり、ぽつぽつと数少なな客が散見されるだけの静観さである。入店した二人はいつも来るときと同じ、店の奥の方の、人目の付かないテーブル席に相席した。
日葵はサンドイッチとコーヒーを注文した。碧も同じものを頼んだ。碧は食事を待つあいだ、ずっとそわそわしているのを隠さない。これはずっと昔からである。碧は二人で外食するとき必ず日葵と対面して相席する。そうしていないと落ち着かなくて、自分が何をしでかすか分からなくなるから、カウンター席しかない店には入れない。
日葵は自分の顔を見つめて安心する碧のために、いつも誇らしくいることが許されたのは不幸中の幸いだが、少なくとも彼女か誰かに誘われない限り、碧は一人で外食すらしないのだった。それだから、毎日一食で済まされる近所のスーパーの値引き品の総菜の買い出しが、碧の数少ない一人外出の理由である。
……テーブルに食事が運ばれてくると、日葵はコーヒーを一口飲んで、口を切った。
「ねえ碧。就労移行支援、利用してみない?」
「就労移行支援?」
碧はコーヒーカップに唇を触れかけて、ぴくりと固まった。日葵はそれを見て直ちに気まずくなった。碧が何かを断るときと同じ反応だったのである。
ただ、意外にも碧はすぐに平静な顔をして、
「よく知らないけど、日葵が言うならそうしようかな」
とすんなり承諾した。
「僕も就職について色々考えたんだけど、もういっそよく分からないなら、誰かに任せて、強制された方がいいのかもしれない。やる気が湧いてこないなんて言い続けても、このままだと僕は一生、今の状態から変わらない気がするんだ」
日葵は穏やかに微笑んだ。
「それなら、来週の金曜日、ちょっと見学しに行ってみる? 簡単に言うと、名前の通り障害者の就職の支援をしてるところで……仕事の関係でよく知っててさ。大手じゃなくて個人経営の施設なんだけど、碧にはそっちの方が合ってるんじゃなかなって思ってる。勝手だけど碧がそれでいいなら」
「ありがとう」
とっくに運ばれてきてもまだ、碧のサンドイッチには手が付けられていない。ぼろ雑巾のような碧は、テーブルの上に拳を石のようにしていた。日葵が固く握られた拳を両手で抱擁すると、本当に岸辺に流れ着いたような冷たさである。
碧は拳に被さった日葵の手を握り返しながら、意図せず急にそれを思い出して、何となく口にした。
「そういえば昨日、僕夢を見たんだ。いつか話したよね。二人で北に行こうって。……随分現実的な夢で驚いたんだ。僕たち、夢の中で、知らない場所に旅行してたんだ」
日葵は驚いて目を見開き、すぐに答えた。
「覚えてる。大学三年の秋。私本当は二人で卒業旅行に行きたかったんだよ。切り立ったフィヨルド、絶海の孤島、それから森に囲まれた湖沼。きっとスウェーデンが良いって」
世界中の様々な文明に、北方には神の住む楽園があるという伝承が残っているという話を、碧は以前何かで見聞きした気がする。それならば自分もその神の御利益に預かってみたいと考えているのかもしれないと思うと、碧の顔には本人にも全く不思議な効果が働いて、見違えたように力強く言った。
「二人で必ず行こう。頑張るよ。いつも日葵には迷惑ばかりかけるね」
こう言った碧の太陽のように精悍な笑顔に日葵は感激した。
それからファミリーレストランでの昼食を済ませて、晴れた土曜の昼空の下の、碧との清々しい別れ際ほど、寂しいと思えない瞬間はないように日葵には思われた。
日葵は自分が、塞いだ碧からあんなに晴れやかな笑顔を引き出せたわけを考えてみた。すると、駄目で元々な相談を碧に持ち掛けようと思いついた元凶の、あのお節介な外国からの手紙に、離縁状を突き返すことなく、毎年欠かさず返事を出していた自分を、少しくらい褒めてもいいような気がして、胸が弾んでしまう。
「ファーネス」という名の、主に精神障害者を利用者とする就労移行支援事業所は、JR線S駅から徒歩十分の、ごく月並みな住宅街のなかに、十両余りを収容する駐車場を正面に、低い石塀に囲まれた古風な差し掛け屋根の外観を構えている。事業所は元々二世帯用の二階建て住宅であり、この瓦屋根の日本家屋は十六年前に以前の所有者の手元を離れた。
縁側を改装したサンルームの前は小体な庭で、一本のハナミズキの庭木の根元に茶色のプラスチックのプランターがいくつか無造作に並べられており、これらには新しい苗が植えられ、碧はこの植物の名前を知らないが、その先端の今にも芽吹きそうな装いが、遠からず二月の春を伝えるような揺るぎない日光の暖かさである。
玄関から入ってすぐ右手に、十四畳二間の客間がある。普段はこの二間を分ける襖が開け放たれて、仕切り付きの机と椅子が置かれ、入所者の自由活動場所に充てられている。
この客間に入らず真直ぐ通り過ぎると、廊下の突き当りが右手へ曲がっていて、この曲がり角は丁度建物のほぼ中央に当たり、天上が抜けていて二階へ続く階段がある。
曲がり角の先に洗面室と使われていない風呂場があり、手洗を挟んださらに奥の突き当りに、キッチン兼相談室の狭い六畳の洋室があるが、ここからは大抵利用者と職員の気分のよい朗らかな談笑が漏れてくる。
狭い二階は家屋が事業所に変わるさい、畳を全て引き剥がされてフローリングが施され、洋室に改装された。洋室は二部屋で、一室は相談室、もう一室は事務室である。
碧は日葵と一緒に、この日利用を前提に施設を訪ねたが、まっさきに碧は、そこの利用者たちの様子を見てぞっとした。
小汚い服装の男が数人、午後の個人活動の時間にパソコンを机に並べて、溝鼠のように身を寄せ合って作業している。キーボードを見ながら文字を入力するので、不慣れな作業なだけに余計に進みが遅い。この男たちは、この施設を利用するまでパソコンをまともに触ったことが無かったのである。今までどうやって生きてきたのだろうと碧は思った。
また実に気弱そうで病気っぽい顔つきの女たちが一箇所に集まって、よく分からないボタニカルシャンプーの話で今一つ噛み合わないまま盛り上がっている。それは実に人工的な感じがする。
中でもひと際大声で話している女は、一言一句語気が強すぎるためにずうっと怒っているように聞こえて、彼女らの話を盗み聞きしている自分に激怒しているのではないかと、無性に碧を怯えさせた。
「単刀直入に、佐藤君は、明日からすぐ仕事できると言ったら、出来るかい」
二階の相談室で、事業所の代表者兼相談員の小田は、日葵同席のもと、碧が利用契約書に署名し終えると、実に作業的に切り出した。
小田はその黒縁眼鏡と乾燥肌のどちらにも似合わないぎこちない作り笑いが印象的な、どこにでもいる風貌をした小柄な男である。三十代後半で大手人材派遣企業から独立後、障害者就労支援事業を開始し、この業界では零細ながら現在十名の職員と年平均三十名の利用者を抱え、役所との繋がりや他事業者との提携に巧い手腕家である。
そのうえ小田は偶然碧たちと同じ大学を出たOBで、自分の大学時代を振り返って「卒業式の時にはもう二歳の子供が一緒だった」などと言い二人を驚かせたかと思えば、「そんな人生を送っても案外何とかなるもんだよ」と気軽な笑い話にしてしまい、初対面の場を和ませた。
「明日からいきなりと言われても分かりません。与えられた仕事が出来るかどうかも分かりません。でもやれと言われたら意地でもやります」
「そうか。今日会ったばかりでなんとなくだけど、まだ佐藤君の心の準備が整ってないのは分かった。まあ利用契約は一年、やろうと思えばもう一年延長できるから、時間はある。うちはこの二年とも使うのが前提で、一年目にまずセミナーを通して自分の障害を理解して、二年目に本格的に就活するって流れ。とはいってもあくまで個人によってそこは変わってくる。まあゆっくり仕事について考えながら就活していこうか」
この就労移行支援制度は、基本的には一年間の就職支援、さらに一年間の就労定着支援からなる。この利用料金の一切は市民の血税によって賄われ、利用者は障害者手帳所有の証明によって無償で支援を受けることになる。ファーネスでは通所費用の半額分も、四半期に一度、まとめて役所に申請できる。
「佐藤君は、僕と、こちらの山本さんが担当します。以後よろしくね」
碧と日葵と机を挟んだ、小田ともう一人の相談員の山本という女が、業務的な愛想笑いで挨拶した。
翌々日からもう碧の通所が始まった。規則正しい生活を習慣付けるとの目的で、まず碧の起床時間と就寝時間については、夜十一時に就寝、朝九時に起床するというふうに、碧のあの無秩序な生活に指導が入った。碧が朝起きれるか分からないと不安を口にすると、小田はそれを聞き流さず、通所も初めのうちは毎朝自分が碧にモーニングコールをかけると約束した。
それまで不眠の時にだけ飲まれていた睡眠薬も、碧が時間通りに眠り起きるために飲まれ出し、しかもこれが習慣付くためだけに八日を要したのだから、充分に荒療治である。
ファーネスまでは電車を乗り継いで片道三十分の通所時間を必要とする。
「通所の電車移動は大丈夫そう?」と小田に聞かれ、
「人のいない時間を狙えば大丈夫です」と碧は答えこそしたが、北陸の寒村から関東の都市に出て七年以上が経っても、碧はあの通勤・通学、帰宅・下校のラッシュに苦痛を隠せない。
そもそも碧の大学時代は徒歩通学で、電車に習慣的に乗るようになったのは、彼が区外の心療内科に通い出してからではあるが、電車移動のたびに要する二三の薬に関わらず、ラッシュ時の人間の津波に圧倒され、それを避けるために乗る電車を一二本ずらすくらいである。
特にあの、駅のホームから改札へ向かう階段の滝のような雑沓に押し流されて来る、めまいと吐き気を我慢するのは殆ど地獄だ。
ファーネスの一日は、午前から障害者の就労知識や自己理解などの日替わりのセミナーに自主参加して、午後からは就労に必要な自主学習、求人要件の資格学習等、各々個別活動に移るという形をとる。こういう規則的で就業的な生活に組み込まれるようになると、碧はまるで自分が学生に戻ったような気がする。
ただ多くの就労移行支援事業所は、ファーネスのような自由参加形式のセミナーを開催しない。大抵は小学校の時間割のような厳格なコマ割りが決められ、授業、実習、学習、休憩などを利用者は強制されるが、ファーネスは障害者の自主性を尊重することを所是とする事業所である。
ともあれ一週間に一度は必ず個人面談の時間が設けられ、これからどのような指針で仕事を探すか相談することになるが、このさいの碧の具体性と主体性と客観性を理知的に織り交ぜた切実な論調は、陰険で感情的な精神障害者を見慣れている相談員の小田と山本の格別の感心を買い、碧はすぐに二人の信用を得た。
こうして二月や三月は飛ぶように過ぎ、気付けば事業所裏手の公園の桜並木には、例年より早々に桜花の前線が咲き出したかと思えば、既に散り始めている。歩道に舞った花びらは万華鏡のように幾何学的な美しい紋様を地面に描いている。
四月になると、今朝も通所中の駅前で、駅中で、駅のホームで、そこかしこに新しい黒スーツが増えだしたのを碧は見てきた。いずれも新大学生や新社会人であることは疑いない。
集団社会性の獣の大移動は、さても桜の散り際も待たず元々存在しなかった幻のように姿が見られなくなる春の椿事であるが、こんな儚い大勢の黒い獣らは、まるで土から生えてきてどこかへ飛び去る薄羽蜻蛉の一種のようである。彼らはその透明な太陽に輝く翅を羽ばたかせて、一体どこへ飛び去ってしまうのだろう? 碧には翅が無いから分からない。それが人生というものだろうか?
これらの不安が碧にある強迫感を与え、四月も早々ファーネスの山本のすすめで、彼女に伴われて生まれて初めて、世に聞く職安へ出向いたとき、入口自動ドアの開閉があまりに遅く肩をぶつけそうになって、碧は自分の焦燥がそうさせたのだと思った。だがこれがもしドアではなくて、電車の近づいてくる駅のホームだったら、自分はどうなっていただろう?
障害者職業センターは、都市モノレールのみなと駅から徒歩七分の、郊外の住宅マンションの中にひっそり身を潜めている。看板さえ無ければ、それが求職者相手の職安とは気付かない。つい最近付近に移転してきたC銀行本店の威丈高なビルと比べれば、全く目立ちようもないほど地味で、隣の建物の陰に紛れてしまうような建物である。
一階は失業者の給付金手続きの申請所などが入っており、木曜日の午前の申請期限時刻などには、祭りの夜の境内のように失業者で溢れ返る。二階は庶務課である。三階は職業案内、事業者向け説明所、給付金申請などができる。それ以上の階は、少なくとも碧には無縁の部署だ。
それはさておき、どこの階層の廊下の壁にも、夥しい求人票や連絡票の掲示が、賞金首の貼紙のように貼り付けられている職安の一階の隅の狭い休憩所は、求職者たちの憩いの場である。休憩所には二台の自販機が有るが、その自販機の500ミリリットルのペットボトルの値段はきょうび七十円である。
もしも求職者たちの、あの、今から豪邸に盗みに入るか迷っている弱者の恐ろしい視線を一つも気にせずにいられる恥知らずな勇気でも持ち合わせているのなら、健常者であれ有職者であれ、この格安な自販機目当てに職安に立ち寄ってみればよい。生活の地獄へ通じる門は、いつでも誰にでも平等に開かれている。
山本は馴染みの中年職員の北村に、職業案内の予約を入れておいた。案内受付で予約を尋ねようとしたときに、丁度三階フロアの奥から北村が現れたので、山本は愛想笑いで会釈しながら挨拶した。北村も人の良さそうな顔である。碧は相変わらず孤独だったので、二人が馴れ馴れしく楽しそうに会話しているのを見ると、本来の目的も忘れて、二人以外に自分がここにいる必要が感じられない気がしてくる。
重度の躁鬱症と適応障害を発症した一度目の退職を経、復職先にファーネスを選んで五年働き、さらに職安へ転職して今に至る北村は、障害者職業センター三階フロア職業相談窓口の最奥の一番目立たない隅っこの窓際を背にしてデスクを構え、そこではファーネス利用者向けの求人情報提供業務をしている。かつて負った障害のためか、気さくだが飄々としていて、他人の目を顧みず、話せば厭世的で浮世離れな道化をまじえ、容姿は実際より老け込んで感じる。
自分こそが現代社会の縮図そのもので、しかもそれは下らなく、無意味で覆らない悪辣だと不満を隠さない、そんな己の虚無主義を信奉する北村は、彼の職務経験や過去の顧客の求職者の就労実体に基づいた思いつきから、手あたり次第求人票を印刷して寄越した。
北村は別に悪気があるだとか面倒だからそうしているのではないが、夥しい印刷用紙の大半は碧の抜け目ない容喙を許して、ただの紙屑になってしまう。
北村がパソコンから目を離して碧に言った。
「佐藤君は精神だよね。それだったら事務だとか、最近ならSEとかおすすめだね。他人とあんまり関わらない方がいいでしょ?」
「そうですね。自分でもそういった仕事の求人は探しましたけど、ただ当然ですけど仕事自体したことがないので、求人票の事業内容だとか見ても全く分かりません」
「佐藤さんC大の理学部でしょ? 頭いいんだし、それに若いんだからすぐ見つかるよ。ちょっとうちとファーネスさんの紹介でさ、仕事の内容が分からないなら見学とかまず行ってみたら」
「はあ、そうですか。若くて頭がよくてすぐ見つかる、ですか。失礼ですが多分、全て仰る通りではなかったから、僕は今無職で精神障害なんでしょう」
碧の隣で山本が口に手を添えて苦笑し、そしてデスクを挟んだ北村も乾いた声で苦笑した。
「ははは、そう卑下しなくていいから。ただ一応念を押すと、障害求人は面倒だからね。最近は発達とかいろんなよく分からん障害が増えてね、僕はどうせ医者やら政治家やらの金儲けの口実だと思ってるんだけど。それで、精神は特に面倒でさ。身体は割と簡単に決まんの。そこそこ歴史も長いし、身体が不自由なだけだから。でも精神は精神的な問題で人間関係が難しくて殆どの仕事がそもそも不可能、佐藤君みたいに外出すらままならないなら、実質的に身体障害も持ってるようなもんだから、余計簡単にいかないね」
「それはきっとそうでしょうね」
「しかもそれなのに文字通り人の目には見えないからね。精神障害は透明な社会の十字架だよ。特に旧体制的な職場は未だに偏見の塊で、経験がない限りこぞって身体ばかり取るからね。医療系、教育系、行政系なんかは特に。今ちょっと調べた学校事務も、以前取ったのは二人とも身体だね。医療系なんて自分らこそ一番精神障害で金稼いでるくせに、障害者には金払いたくないんだから笑えるよ。この前事業者相談に来たK病院の人事なんか、精神は要らないから身体を寄越って、まるで人を物みたいに言ってさ。インテリ連中はプライドだけ高くて頭が固い癖に、目だけは蟹みたいによく動くから。まあそれは頭の悪い奴らも同じか。どいつもこいつも無自覚な優生主義者で差別主義者さ」
「そんな、北村さんだって今まさに職安で働いてらっしゃるのに、随分口がお軽いですね。大丈夫ですか?」
「いいのいいの。いざとなったらまたファーネスさんに戻らせてもらうから。ねえ山本さん」
「はは……それはまず小田さんに聞いてみてからですね……」
「ああそういえば、昨日も丁度大卒公務員の新卒どもがうちに顔出しに来てたよ。揃いも揃ってすました能面みたいな顔しやがってさ、あのときのうちに来る求職者を見る目、あれは蔑みの目だったね。そういう中途半端な世間知らずの馬鹿や阿保や間抜けが行政なんかやってんだから。ああ、でもそうか、佐藤君は学歴が良いから、そのせいで困るんだな。無経験向けの求人なんか特に、大概知的とか中卒高卒のニートの社会復帰って名目が多くて、……」
北村は、もっとも彼の無遠慮な人となりを、同僚の職安職員は誰しもが知っていたが、周りの耳も考えずに長々と話して、途中ではたりとまたパソコンに向き直った。自分が碧のために仕事をしているのではなくて、愚痴を言っているだけだと気付いたからである。
彼の愚痴は一度発作のように突然始まると、自分でもなかなか制止が効かない。北村は一度仏像のように黙ってから、また真面目に就職相談を始めた。
デスク上のデジタル時計ではもう一時間を超えた北村との相談に、碧はかなり疲れて、椅子の背もたれにくたくたに押しつぶされていた。それからまた、いつもの要らない雑念が彼の頭に霧をかける。
こうやって誰かに頼りきりになるのは、結局自分自身を助けることにはならない気がする。それなのに誰かに頼ることしかできない自分は情けなくて恥ずかしいが、今はそういう自分でも認めなければ、生きていくことすら難しい。