第四章
碧が今朝目覚めたときも、うだつの上がらない一日が、朝の日差しの反映とともに、半開きのカーテンの裾のすぐそこまで迫っていた。また何もない自殺的な日常が始まる。
引き戸を挟んだ玄関の金属製の郵便受けに、外からビラがねじ込まれる音がある。暫くしてから引き戸を開ける。冷蔵庫の前に畳まれた通販の段ボール、キッチンのミニコンロに置きっぱなしの鍋と半開きの鍋蓋がある。
郵便受けを見る。去年の夏に外れてしまったままの受け箱が土間の框に寄りかかって倒れており、その周りを覆い尽くすビラが落ち葉の山のように溜まりっぱなしになっていて、か細い受け口についさっきの葬儀屋のビラが挟まっている。
しわくちゃのビラを広げてみると、「葬儀にお金をかける時代ではありません」という太文字の見出しがでかでかと打たれ、そうかと思えば「生きている間だってお金をかける時代じゃない」と思って気が滅入る。同じビラが週に二枚くる。見飽きたビラと足もとに溜まったビラを全部丸めて可燃ごみ袋に投げる。
部屋に戻る。室内に二日干しっ放しの洗濯物を片付けて、思い立ったように二十分ほど掃除をする。掃除機を押し入れに片付けてから、ローテーブルの上に出しておいた錠剤が二錠なくなっていることに気付いて、がっくりする。
大学入学時に入居して五年、築三十年六畳ワンルーム三万円の、部屋の隅のL字机には、学生時代の産物の自作パソコンと、安物のモニターとスピーカーが乗っている。CPUもGPUも旧世代のものを四年間使い続けていて、当時十五万円ほどしたものが今なら半額もしないぐらいである。
高さ調節機能の壊れたデスクチェアに掛けてモニターのスリープを起こす。無料動画サイトでとりとめもなく下らない動画を見て時間を潰す。ときどき笑っては、ときどき真顔になるのを繰り返しているうちに飽きて、読みかけの小説を読みだす。なんとなく読み覚えがある気がする。そういえば昨晩、机から落としたときに、読み終えたページにしおりを誤って挟んだのである。小説を読んでいるうちに、気が遠くなって、椅子に座ったまま死んだように寝落ちてしまう。
肩の辺りにほのかに温かさを感じて目が覚める。気付けば夕焼けである。半開きのカーテンが朱に染まって黄昏れている。
声の届かない洞窟の奥のような毎日が、最近碧の目から光を奪い視力を悪くさせていた。本の頁やモニターばかり見ていて遠くを見る習慣がない。しばしば外出した先で看板の文字が読めなくて困る。それを碧が日葵に口溢したら、眼鏡かコンタクトレンズを作らないといけないかもと言われた。
だが少しくらい離れても、それがまだ日葵の顔だと分かるなら眼鏡は不要な気がするし、眼鏡を手に入れる代わりに、些細な二人の会話の種を失うのは勿体ないという気もする。
夕も更けたころ、碧の六年落ちのスマフォに通知がある。日葵からの呼び出しである。そういえば今日は金曜日だった。碧は椅子から立ち上がって、コートハンガーにかけたベージュのロングコートを着込み、鼻から口までマスクをかけ、スマフォで電車の時間を調べた。
*
就職を機に昨年の春引っ越した日葵は、今は碧の自宅から2キロくらい離れた、月家賃六万二千円、1LDKのアパートの三階に住んでいる。日葵の部屋は、家具業界の宣材写真のように整然としている以外に特徴がないのが特徴であるが、季節ごとに気付かないくらい少しずつ模様替えされ、例えば夏には薄いラグが、冬にはウールのふんわりしたカーペットが床に敷かれる。
今はもうリビングの二人用のダイニングテーブルは既に片付けられて、食事などの跡形もない。二人掛けソファーのクッションがカーペットに音もなく転がっていて、転がった先のテレビはつい先ほどまで日葵の好きなテレビドラマを流していたが、その薄型の筐体のてっぺんに、乱雑に日葵の水色のセーターが投げかけられてしな垂れている。
それは脱がされたばかりでまだほのかに日葵の体温を残している。この温もりは背後の、日葵の寝室の扉の隙間の方へ、ほのかなオーデコロンの香りをたなびかせている……。
日葵の長い太腿は、それを感じるたびにかわるがわるねじれて、夜気を孕んだ甘い微熱を放ちながら唸った。白い肌の強張った紅潮が、日葵の慎ましやかに顔を背け合った二つの乳房に映えている。二粒の野苺はまことに宝石のように紅く熟れていて、少し触れただけで感じやすく、膨らんだ房先からこぼれ落ちそうになる。
碧は幼い子供が涙ながらに母親に駄菓子をねだるように、柔軟なその感動の隅々に何度も接吻した。日葵の柘榴の果皮のような縦裂は、割かれるたびに異なる甘美な喘ぎを伴いながら潤った。
四年に及んでもまだ幼稚で拙い碧の愛撫は、どれだけ回数を重ねて上達の兆しを見せなくとも、日葵の意に適った。その生真面目な性格からか、日葵は世間の女が覚える一連の愛撫に十分以上に長けていたが、正反対に碧のこの床下手にも関わらず幸福だったのは、碧の肉体の衝動と|齟齬《そご〉する精神の呵責ゆえの粗末さを、やはり彼女の鈍感さが、純真な情愛と勘違いしていたためである。
日葵は碧のこんな不手際によって、あの女の醜い疑惑、男の背後に隠れた女物の香水を嗅ぎ取る本能から隔たれていたので、日葵の快楽は、あらゆる女の快楽の持すべき精神的苦痛を知らずにいることが出来たのだ。と言っても、怠慢の苦痛、疑惑の苦痛、倦怠の苦痛……とにかく悩ましい苦痛に縁が無いためにかえって、そういった苦痛に比べれば遥かにどうでも良いような些細な出来事が、時々日葵を苦しめはした。
たとえば、もう四年前、瑞々しい初夜のしとねに、日葵は近く迫った碧の誕生日を高級フレンチ・レストランで祝いたいと懇願したものの、頑なに聞き入れられずに泣き寝入りしたことがある。
日葵はそれ以来、碧の欠点については忘却したように心を閉ざし、考えることも辞めてしまった。幸運なことに、彼女のような賢い人間には、いつも危うい選択を拒絶する選択肢も与えられている。
日葵はこうして「自分のために彼を責める」という危険な考えを止めるのと同時に、およそ常人には計り知れない天啓を得たのである。天の啓示はすみやかに日葵に両眼を潰させた。何故なら日葵は既に後戻りできないくらい碧のことをただひたすら愛していたからである。潰れた優しい両眼からは、たまに透明で冷たい血のような涙が流れた。
事が終わって、枕元に寝返って初めて目が合ったとき、日葵は碧の耳元に口づけするかのように呟いた。このめざましい、汗ばんだ媚態は、さきほどまでの快い疲労をすっかり忘れさせるほどである。
「今日の夜、美味しかった? 腕によりをかけたつもりだったんだけど」
碧は少し間を置いてから答えた。
「うん。美味しかったよ。また作ってほしい」
「ありがとう。でもちゃんと自分でも食べてよ。私心配なんだから」
日葵は碧の顔を見て幸せそうに微笑した。
碧は絶望した。男は生きる以上それに意味や意義を見出さねば済まされない生き物である。だから碧は日葵の、特に意味のない幸せそうな笑顔を見ると、それが意味を持たない理由を探さねばならない気がする。
『少なくとも、少なくとも僕のような人間は、世界の表側から人を愛することはできない。僕は世界の裏側から人を愛するしかないのに、僕はその勇気が無いから、女の裏切り方を知らない。本来僕のような男が女に関して優先して履修すべき科目は、愛情という科目でなくて、寧ろ不倫だとか裏切りだとかいう、もっと不道徳な科目の方じゃないだろうか。女は大抵愛情の単位から疑惑や不倫の単位を導き出すが、男は疑惑や不倫の単位から愛情という単位を導き出すものだ。……僕は本当に日葵を愛しているのだろうか?』
こうして寧ろ理由によって後付けされて現れる碧の感情、おそらくそれを愛情というべき感情は、考え過ぎれば考え過ぎるほど文字通りの愛情らしくなく、無理に愛情だと思い込むなら、もはや劣情とでもいうべきものかもしれない。
碧はその理不尽な感情の迷宮の中で、無為な苦しみから逃れられない。愛とは自然な本能に由来するものではなく、寧ろ人工的な理性の妥協や挫折のようなものなのかもしれない……。
「私、最近よく思うの。自分が碧のことが好きでよかったって。碧が大変なのは分かってるつもりなのに。……いいのかな」
珍しく日葵が後ろ向きなことを言うので、碧は少し驚いた。
「良いも悪いもないよ。僕も日葵のことが好きだよ」
日葵はこういうときの喜び方を未だによく知らなかったので、碧の胸に半ばがむしゃらに抱きついた。碧は、今自分が本当に最低な嘘をついている気がする。まるで恋愛という、あの幼稚な駆け引きのような。
自分はどこでこんな幼稚な駆け引きを学んだのだろう。思い出してみれば、碧は今夜も日葵の家に来る電車の中で、また買ったばかりの恋愛小説を読んでいた。この劣情はそのリフレインのせいだろうか? だがまさか自分が、日葵を愛の実験台にするような真似をしているなどと認めるような真似はしたくない。
暖房の効いたベッド脇のナイトテーブルに置かれたアロマオイルが、足元に散らかった二人の下着を踏みにじりながら、蒸れた香りを枕元に漂わせている。
既に日付を跨いだ夜中の一時頃である。
橙色のナイトランプが日葵を安眠から遠ざけている。未だ治まらない胸の高鳴りを感じつつ、日葵はじっと碧の塑像のような灰橙色の寝顔を見つめていた。
鼻息が嬰児のように穏やかである。行為のあと碧はいつもよく眠ってくれるので、日葵はそれを幸せに感じた。碧は放っておけば、食べることも眠ることも忘れてしまうから、日葵は気が気でいられない。
だが二人が過去に乗り越えてきた小さな事件の数々が、今では日葵の確固たる自信に成り代わり、それはまた彼女の愛でもあり、日葵の真心に不断の決意として硬い根を張っているようにも思われた。自分はこの人と、離れることが出来ない気がする。
碧の誕生日を華やかに祝う計画の失敗、碧に迫った突然の死、美しいイルミネーションに彩られたクリスマスの大通りを歩く予定の破綻、大学卒業前に三度話し合って結局御破談になった、碧との同棲――日葵は安らかな寝息を立てる碧の頭を、自分の胸に抱き寄せ、目を閉じて微笑んだ。
日葵は碧という聖典を信仰していたから、碧の病を知って彼女が就いたのも、大手の障害者就労支援施設の支援員という滅私的な職である。新卒入社してはや八か月になるが、これは他でもない彼女の天職だった。