あとがき
後書きなどという未練たらしさを完結した小説に残そうというのは、多くの小説家にとって自作を自分自身で解説するくらい恥ずべき行為の一つであると私は常々思っているが、この「媚態」という小説に対して、多くの方から予想だにせぬ多くの愛ある反応を頂いたことに対して、私は後書きという形で、謝辞とほんの少しの感想を述べておかねばならないと思うし、その為なら恥など惜しまない。
何よりこの小説を読んで頂いた全ての方に、いくらかの娯楽を提供できたなら、それは私の本望だ。本当に、感謝の言葉は到底言い尽くせない。
さて「媚態」という小説は、私が精神障害者として生活し、その闇深い底なし沼から浮き上がろうとして書かれた小説である。
人間というのは、常々何かをしていないといられないものだ。たとえ精神や肉体をどれだけ病んで、生活が破綻し、その影響が人生の至る所で尾を引こうとも、少なくとも生きているならば、我々は気付かないうちに何かしらの意志や欲求に必ず縛られている。我々はよく何かに行き詰まると、その時に感じるものを絶望という言葉で表現しようと試みるが、この試みは得てしてその絶望というものに対して大きすぎる挫折という憂き目に遭う定めである。
さてそれでは、著しい絶望の中においても、この挫折を上手く潜り抜けながらその絶望という何かを表現しようと考える人間は、果たしてこの世界にどれほど存在するであろうか? というのが、この小説の構想を考えていた当時の私の小さな疑問だった。
その疑問を自分なりに整理し、解決した結果、私自身に大変都合の良い物語として一つ形を成したのが、「媚態」である。
途中で飽きることなく、根気強く「媚態」を読破された奇特な方は、おそらく私の言葉の意味を何となく理解されるだろう。つまりこの小説は、私が行き詰まった現実という観念的自家中毒を、物語という、万事挫折を回避できるメタ的な力によって異なる次元から嘲笑うことで、絶望という不可能な表現に迷走する私自身を救い出そうとした、なんとも利己的なギャグコメディであり、ギャグコントであるということだ。
実際「媚態」の中では、小説らしいあらゆる都合の良さが用意されている。そしてその都合の良さは、その本質に一度気付かれてしまえば、きっと簡単に笑殺されてしまうものだろう。何故ならこの小説の主人公からして、精神を患っていながら、そもそも稀有な美青年であり、信じがたい巨根であり、女達を容易く誑かし、聖女のような恋人までいる。現実なら本来こんな男は、どんなに頑張っても、精神障害の近くへ辿り着くことはあっても、精神障害そのものになどなり得ないのだ。
だからこの小説は端的に言って辛辣なギャグ小説の範囲を出ない。この小説がギャグ小説であることを理解した上でもう一度読んでみれば、私が文中の至る所に込めた下手くそでお下劣なギャグを見つけた上でそれらを嘲笑できると思う。
しかしこの小説を嘲笑されることは、私が生きる上で不要な絶望を嘲笑されることに等しい。つまりそれは疑いようもなく私にとって救いだ。
ともかく少なくともこのような下手な小説を書くことしか、今私がこの社会で正気を保つ術がないことは確からしい。現実世界で私は今、確実に社会的に抑圧されていると感じるが、それでも確かに自分なりに試行錯誤しながら生きていて、あまつさえ死のうなどとは考えもしない。
奈落の底に落ちて初めて、私は生きようと思った――この説明し難い鋭い感覚が私を私たらしめている。小説によって現実を否定し、またその否定的な視点こそが私の原動力であることは、今後も変わることはないだろう。これからもっと勉強し、面白い物語を書いて、読者の方々を楽しませたいと思っていることを、今私は確信している。
2024年6月 梅雨を控えて