表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
媚態  作者: 禅海
16/17

第十六章


「これでご契約は全てです。本日はお時間いただきありがとうございました」

「ありがとうございます」

「僭越ながら、お二人の新しい門出の日をお祝いたします」

 冬が来た。碧と日葵は不動産賃貸会社にいた。契約を済ませた二人は、晴れやかな気持ちで不動産屋を出た。関東の冬は寒いが、今日の空は雲一つなく晴れている。

 この冬から二人は晴れて同棲する。その入居の契約が今済んだところである。賃貸はC市内のマンションである。周囲に商業施設やレジャー施設が近いわりに、閑静な住宅街である。マンションは駅からも近くて便が良く、二人の職場からも近い。

 この同棲を日葵はどれだけ待ち望んでいただろう。待った月日が長いだけ、この日葵の喜びは計り知れない。


 ようやく始まった二人の新婚生活のような瑞々しい同棲生活は、毎日楽しい話題が尽きない。愛する者がいつも近くに居さえすれば、自然と責任の力が芽生えだして、何事も乗り越えてゆくことが出来る気がする。

 話題が尽きないと言えば、碧はこの同棲生活の始まる少し前から、臨時の障害雇用で、正規ではないが、期限契約の事務員として働き始めた。あの夏に碧が一度内定した会社は、近い倒産が決定していたために碧の採用を反故にしただけらしい。松風の脅迫文はただの勘違いで終わった。

 碧の現在の職場は、あの菜穂美の勤める大病院である。事務職の経験が無い碧であったが、無論この就職は菜穂美の気の利かせたつてによるものだった。

 碧は事務や雑務で毎日病院内の色んな部署を巡り、資料整理から補助作業から、面倒で単純な作業を何から何まで、毎日必死に健康な汗を流していたが、そんな働き者の新入社員の美青年は、毎日病院の未婚の看護師たちの話題の的である。


 碧は先日眼科に行って、その帰りに眼鏡を買った。黒縁の、地味な、なんの趣向も変哲もない安物の近視用眼鏡を。近視は精神障害者には都合がいい。何故なら近視は我々に、外部の物質的な都合の悪い障害を取り除いてくれる。が、都合の悪い事実にも、我々は時には向き合わねばならない。

 碧は眼鏡で取り戻した視力が、確かにそれを失う前と同じものを取り戻したかに見えて、全く違うものを得たような気がする。彼は世界の遠近法を失う代わりに得かけた芸術性を、まさに得ようとした寸前で踏み止まり、人間性を呼び戻したのであろう。美青年は確かに一歩ずつではあるが、生活のために現実に向き合い始めた。

「随分分かるようになってきましたね」

「ええ。いつお腹を蹴るようになるか楽しみです」

 日葵は見知った看護師に病院の廊下で呼び止められて、満面の笑みで答えた。日葵は休日の楽しみが増えた。自分の中で胎動する赤の他人を育む楽しみが。

 そのとき廊下の向こうから、また日葵の方へ近付いてくる者がある。

「日葵ちゃん元気? 赤ちゃん早く生まれるといいね」

「ありがとうございます。朱里さんもお身体を大事にしてくださいね」

 日葵と朱里は顔を見合わせて笑った。朱里も今はこの病院の心療内科に通っている。菜穂美に勧められたのである。今では以前よりずいぶん精神が安定してきた。不要な薬は選別され要らなくなったし、彼女は日葵という気の置けない友人を得た。

 朱里は日葵の伴侶が碧であることを知っている。だがそれは日葵の前では絶対に口にしないという、菜穂美との女同士の約束である。碧がそういう仕事をしていたことも、全て日葵には内緒である。こういう些細な内緒は、少しだけ女の人生を豊かにする。

「碧君は今日も仕事?」

「うん、でも今はお昼休みじゃないかな」

「ああそっか。大変だろうけど、きっと二人のために働いてるんだよね。日葵ちゃん、お幸せにね」

「はい」

 日葵ははにかんだ。自分が幸せにならねばならないと思うことより幸せな苦悩は無いように思われた。


 松風は、あの日彼の行方を追った美和子によって、最終的に彼の自宅の、実家からの仕送りで暮らしていたアパートの玄関で見つかった。

 美和子が見つけたとき、松風はあの醜い顔をさらに醜く歪ませて、床に仰向けに倒れて、美和子が何と呼びかけて身体を揺り動かそうと動かなかった。死んでいたのである。

 事件の翌朝にファーネスから通報が入り、最終的に真犯人に辿り着いた鑑識によれば、日葵の傷つけた頭は、自宅玄関に倒れた際に付いた傷で、直接の死因ではないと判断され、事件性は疑われなかった。松風の起こした一連の騒動は、表向き被疑者死亡の不慮壮大な不法侵入及び窃盗未遂事件として始末されている。

 この事件に実は被害者がいたという事実は、真実を忘れてしまいたい当事者同士の口裏合わせにより、永遠の闇の中へ封印された。美和子が現場へ駆けつけたとき、彼女の愛する者の血の付いたカップも、機転を利かせた彼女の手によりその真実ごと丁寧に洗われ、何事もなく元通り片付けられてしまった。

 検死の結果、松風は持病の喘息による窒息と心臓発作の事故で死んだことが分かった。彼の生まれつき弱い心臓は、彼の悪行に最後まで耐えきることが叶わなかったのである。

 しかし松風の死について、また別の問題があるとすれば、彼の自宅の箪笥から、あの碧の稼業の収入の一割の取り分が、綺麗に消えていたということである。

 これはどうも、倉田の仕事のようだった。倉田は碧に会った後、改めて事情を知る美和子に接触し、碧が女たちから巻き上げた金のありかを教えるように迫った。美和子は倉田に正直にこう答えた。

「お金なら、全部彼が持っています。以前私に、お金は全て箪笥の一番下に隠してあると言ったんです」

「本当だな」

「本当です。佐藤君も私も彼に脅迫されていました。二人とも彼の言いなりだったんです。あのサイトを悪用して、小遣い稼ぎをするために、私たちを奴隷にしたんです。私たちはお金なんて一つも貰ってない。けれどそれでも私は彼を愛していました」

 倉田は愛がどうだのという女の下らない意見には耳を貸さず、それよりただこの痴女の頭は手の施しようもないくらいいかれていて、付き合うのも無駄だと考えた。

 倉田は手下を引き連れて松風の自宅に侵入した。松風の遺品を漁り、その中から金の入った茶封筒を見つけて、中身を確認した。

「ちっ、なんだ五十万ちょっとじゃねえか。所詮女相手の仕事なんざ金にならんな」


 碧は、病院の昼休みを利用して、そのすぐ裏手の霊園に来ていた。霊園は静かで狭いが、花崗岩や閃緑岩や斑糲岩(はんれいがん)や安山岩の様々な墓石や、数え切れないほどの卒塔婆や、墓石に供せられた花々や、焼け落ちた線香の香炉に満たされて、質素に彩られている。雨上がりの霊園の石畳、墓石、石という石は、どれも隅から隅までまだ濡れて乾かないままで、それらは鱗粉を落としたように輝いていた。

 松風はこの霊園に眠っている。霊園の隅の、松風家代々の、彼に相応しい小さな煤けた墓の土の下に、遺骨が納められている。

 碧は冬であるが、美しく晴れ渡っている空を見上げ、松風の墓前のカップに水を注いだ。松風が本来、ファーネスを出るときに貰い受けるはずだったあの白萩釉(しらはぎゆう)の、底が煙草で汚れたマグカップである。

 碧はこれを見つめると思い出す。碧の仕事が決まったとき、事件の真実など何も知らない、ただ少し空けた家の裏口の鍵が壊れていただけの、笑顔の尽きない小田から、あの金茶釉のマグカップをどぎまぎしながら受け取ったのも、今ではもう懐かしい。

 そのマグカップを、新居のどこに置けばいいか分からなくて、碧と日葵は困っている。一度松風の血の付いた容器である。二人はそのうち、どこかの神社で一度お祓いを受けてから、そのまま廃品回収にでも出そうと考えている。

「なあ松風。まさかお前が死ぬなんて。正直お前と会った時、僕は同類を見つけて嬉しかったよ。君の教えてくれた『精神的勝利』の味も、僕は今本当によく理解できてるんだ」

 碧は松風の墓にカップの水をかけた。この寒さで凍えなければいいが、と碧は思った。

 あのとき松風の話に乗ろうと思ったときも、迷いはしたが、すべて碧の人生の計画のうちであったのを知っているのは、最初から碧自身だけである。

 どれだけ手荒な方法でもいいから、碧が肯定的になるためには、まず自分を精神的に変身させねばならなかった。碧は勿論あの夜の世界の惨さと、それを知る以前の醜い自分を明確に覚えているが、醜い芋虫が美しい蝶に変身するためには、蛹という感情の融解と凝固の、痛々しい破壊と再生が不可欠である。不細工な種子が可憐な花に変身するためには、一度堆肥や腐葉土に沈む恥辱を避けられない。

 本当に変わらねばならないとき、我々は多少の犠牲を支払うことを躊躇してはならない。こうして碧は期せずして、その良い機会を見つけ、全く別の自分に変身しようとしてそれを叶え、精神的勝利を勝ち得たに過ぎない。

 だからその変身の計画に沿って、碧は朱里や他の女から貰った金だって、文字通りそっくりそのまま全て松風に渡していたのだ。違法で汚れた金のせいで面倒事に巻き込まれるのは御免だったし、碧が変わるために必要だったのは、ほんの少しの自信と日葵への愛の確信だけだったからだ。

 そんな碧には予期せぬアクシデントだっていくつか起きた。まず一つ目のアクシデントは、やはり松風が最初から自分を利用していたこと、二つ目は夜の世界から足を洗おうとしていたときに偶然菜穂美と出会い、松風に謀略を練らせる余計な時間を与えてしまったこと、そして最後に、愛する日葵が松風の陰謀に巻き込まれたこと……このアクシデントの数々に至るまで、結局松風はどこまで把握した上であのような計画を実行に移したのだろう?

 実のところ松風も預かり知らない形で登場した菜穂美というイレギュラーが、あらゆる場面で松風の予想を超えて碧を唯一つの救いへ導いたことを碧自身すら知りようもなかったが、少なくとも全ては終わり、様々な秘密は内々で守られ、碧は自信と希望と愛とを知り、本当の意味で勝利した。


 碧は己の美しい顔を意識して笑った。

 アクシデントは確かに起きた。だが自分は結果的にそのアクシデントも利用して生きているのだ。菜穂美と出会った時に、この明らかに金持ちな女を利用しようと考えて、彼女に従ったのだって間違いじゃなかった――きっと人間が最も美しい顔をするのは、こんな些細な悪事に興じているときだ。

 さて碧は、もうすぐ昼休みも終わるから、真直ぐ病院へ帰ろうと考えた。まだ自分で稼いだ貯蓄は満足なはずもない。ようやく実家からの仕送りを断ることができたが、暫くは今まで使わなかった仕送りの貯金と、うつ病のため支給の決まった障害基礎年金と、県内最低時給の事務職で食い繋いで行かねばならない。

 しかしそれでも碧は充分幸福だった。

「今日もまた、日葵と一緒に過ごすことができる。来月か再来月には指輪を買おう。日葵によく似合う婚約指輪を」

 子供が産まれる前に籍だけは入れよう。それからいつか、産後旅行か新婚旅行か、二人で三人で約束通り北へ行こう。

 生きるために悩むのでなくて、生きるために考えねばならぬことが尽きないことは、実に楽しいことだ。今まで尽きなかった悩みなど、これからやってくる幸福な悩みに比べれば、どれも全くちんけなものだ。

 これからさあまたあと半日、事務に雑務に仕事に精を出して、家に帰って日葵と食事をして……。


          完

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ