第十五章
さて朱里は今、平日の白昼堂々仕事を欠勤し、S駅へ向かう電車に乗っていた。まともに化粧もせず、あまつさえ精神まで崩壊しつつあるために、殆ど醜い化け物とも思えるほど変貌してしまった朱里は、電車の中でもまともに地に足が付かず、さながら柳の下に出た、堀川で溺死した夜鷹の呪縛霊の顔をしていて、それを見かけた他の乗客をぞっとさせた。
朱里はあのサイトの管理人から奇跡的に返事を受けて、向こう見ずにその人物に会うためにそうしていたのだ。つまり朱里は、松風に会いに来たのである。
S駅についた朱里を、松風はもの珍しい満面の笑みで迎えた。その眼鏡と出歯の前歯が見事に共演する笑顔を一目見て、自分のみすぼらしさなどつゆ知らず、なんて気色の悪い醜くて野蛮な笑顔だろうと朱里は思った。
「この度はご連絡頂き誠にありがとうございます。私共としても他意はございませんが、好き放題やられると困るのでね」
S駅南口のパチスロ屋の隣の人気のない場末のカフェで、松風は初秋のきっちり仕立てたスーツ姿で、仰々しくその手の人間らしさを装って、まず朱里に謝辞から述べた。
この謝辞には二倍の謝意が込められていた。サイトの管理者を任せられている松風が、偶然朱里から匿名の連絡を受け取ったとき、これで余計に自分の計画が全て上手くいく確信が生まれ、朱里のことは葱を背負ってきた鴨のように思えたのである。
「便宜上何とお呼びしましょうか」
「山田で」
「分かりました。それで山田さん、相手の男は伊藤と名乗っていたんですね」
「はい。名前を思い出すだけで憎たらしいです。もし偶然彼を見かけでもしたら、街中でも何をするか分かりません」
「心中お察しします。ですがどうでしょう、それほど憎まれているのでしたら、その男に復讐をしてみたら。実は既に男の情報は照会済みでしてね。うちの組織は仕事が早い。男の個人情報や身辺も殆ど全部抑えています。いつでも始末できるわけです。でもそれだけで山田さんは満足できますかね。男は数日後には富士の樹海らへんで行方不明になるでしょうが、それだけであなたは本当に彼を許せますかね? 散々恐ろしい目に遭ってきたわけでしょう?」
「はい。とてもじゃないけど許せない。あいつが死んだだけで許せるはずがない。だってあいつが死んでも、私はこれからまだ生きて行かなきゃならないんだから」
「そうですその通りです。でしたら私に良い考えが有ります。男を始末する前に、脅迫でもしてみたらどうでしょう。私共の調査によると、男には長年交際している女がいるようです。この女をどうにかしたいと思いませんか」
無論これらはすべて、松風お得意の欺騙である。それでも欺騙は活躍し、文字通り身の回りのあらゆる状況が松風の思惑通りに動いている。彼にはもはや、この世の全てを自らがコントロールできる気すらした。
松風の話を聞いた途端、朱里は朱里で明らかな復讐の希望を感じると同時に、彼女の頭には全身の血が女々しい悋気によって逆上してきた。長年交際している女? なんて忌々しい。
朱里の過敏な猜疑心は、最初からあの男はそれを隠して、自分を終始良いようにして、自分を精神生活の些細な好餌にでもして、その女とよろしくやっていたのだと妄想を膨らませると、碧と日葵の両方に、天誅を受けるべき正当性があると朱里に信じ込ませてしまった。
「しかも都合良く、うちは別で風俗もやっててね。今度丁度一人嬢に空きが出来る予定なんです。最近お金欲しさに本番しちゃって客から病気をうつされる女の子が多くてね。この不景気なご時世、うちも参っちゃいますよ。ははは」
朱里は今笑えるほど気分が良いわけがなかったが、しかし醜い松風の高慢な態度に引っ張られるように、顔を引きつらせて無理に笑った。
碧のスマフォの、サイト用の個人用連絡先宛てに、匿名の脅迫文が届いたのは、朱里と松風の共謀が決まったすぐ翌日の事件である。思い立ったが吉日というには、なんという迅速さであろう。
「お前のしてきた悪さを、お前の周囲の人間全員に送りつけてやろう。お前の内定先の企業にも、S駅近くの就労移行支援事業所の奴らにも、職安の担当のKにも、田舎の両親にも、それからあの可愛らしい女にも……」
この文面を見た碧は、その冒頭だけで戦慄した。あまりに動揺したため、数十秒も呼吸を忘れ、小一時間言葉を失った。この文面の内容がもし本当だろうと嘘だろうと、自分の身近に裏切り者がいないと、まずここまで詳細な内容は書けないだろうという脅迫文であったが、そういう考えに至ることすら不可能なくらい、碧は怯えた。
しかもこのとき碧は、恐ろしいと考えることについては尽きないくらい様々な問題を抱えていたのに、不思議なことにその問題の中でも一番程度の低い問題に最も脅かされていると言っても良かった。
碧は自分の命の問題とか、自分の社会的名声とか地位とか、そういうものは今更どうでも良かったのである。何故なら彼は精神障害者であるから。もっと恐ろしい形の有無を問わない差別や偏見を受けてきたから。自分自身すらもその差別や偏見を自分に向けていたから。
だから彼が最も恐ろしいと思えたのは、自分の裏切りが日葵に露見して、彼女がどういう形であれ自分に失望するということだった。もう今更言うまでもないことであるが、碧は日葵を愛していたのである。
碧の明瞭な日葵への愛の疑念は、複雑な経路を辿り、ようやく確信に変わったのだ。しかし真実の愛に至るまでの人間の苦労や労力というものほど、不毛で無価値なものはないのである。何故ならそれこそが、今碧を間違いなく脅かしているのだから。
『全ては僕自身の犯した過ちだ。僕は最後の最後に墓穴を掘った。だけどこういう手段でしか僕は僕自身を信頼することが出来なかった。日葵を愛している自分を信じることが出来なかった。もう今更後悔しても意味なんてない。なら僕は今すぐ何をすれば良いだろう』
この更に翌日、この脅迫文が真実であると告げるような急な連絡があった。碧の内定が人事的措置という文言によって取り消されたのである。碧はどんどん先が見えなくなってゆく気がした。
脅迫文はまた次のような重要な内容を含んでいた。〇月×日に、S駅近くのカフェで会おう。三百万円を用意して来い。それでこの話は無かったことにする、と。この身代金の金額は、碧の夜の収入の分け前から、大体今残っているであろう金額を、松風が予想したものである。
朱里はその日、怨嗟に満ち溢れた恐ろしい気分で、S駅のカフェに向かった。既に秋ではあるが服装はそれにしてもかなり分厚い、慎重なもので身を偽っていた。
碧との約束の時間が来るまで、朱里はカフェに一人きりで、二時間も過ごした。厚く着込んだ服や帽子やマスクはその間に脱いでしまった。
ふと窓硝子に映った自分の姿を見て、朱里は悄然とした。そこに移っているのは誰だろう。まさか今自分はこんなに醜い女の顔をしているというのか。
『それにしても街の人はみんな、どうしてあんなに足が速いんだろう、まるで何かに怯えて逃げ回っているようだ。自分はこれから恐ろしいことをする。自分はこれから一人の男を殺すのだ。だが少し冷静に考えてみると、それで自分はどういう決着を見ることになるだろう? 少なくとも自分が一度愛した男を殺して、それでどういう満足を得られるのだろう?』
朱里は明らかに異常なメランコリックだった。既にそれはここに来るまでに五錠の薬を用いるくらいには彼女の持病であったが、その浮き沈みの激しさは殆ど多重人格的である。自分自身を制御できず、他人の感情が全く理解できず、ある決断が正しいと思えば、またある解決が誤りであるように思える。まるで一日ごとに自分は生まれ変わり続けているかのようである。
こういう朱里の精神障害は、幸か不幸か松風のある盲点をついていた。つまり朱里の病が、途中で彼女を全てどうでも良く思わせ、二人の計画を朝令暮改に投げ出させてしまうという間違いを犯しかねないということを、自分に酔っていた松風は見落としてしまったのである。
朱里はなんだか、自分の行動が、実は全て孤独の単純な裏返しのように思えてきた。つまりあの脅迫行為は、別の自分が、自分の野蛮で凶悪な人格が、そのときの自分の愛の欠落を餌に成長し肥大し、あんまり大袈裟な行為に及んだかのように思われてきたのである。
すると実におかしなことだが、朱里の病は、このとき彼女の裡に、全く新しい人格を産んだのである。朱里は急に、怖いくらい誰かを赦したくなった。そして彼女は突然謙虚になり、自分のこれまでの行いが全て過ちのように思われてきた。
朱里は確かに碧を愛していた。けれどその愛のために彼女自身さえここまで貶めた、それこそ朱里本来のあの専制君主的性格を、朱里の新しい人格が、逆に自己批判し始めてしまったのである。
『ああ、ああ。私はなんてことをしてしまったんだろう。こんな方法は間違っている。私は今も彼を愛している。それが今さら心が壊れそうなくらいよく分かる。私が彼を信じ愛し続けることが出来ていれば、私が自分自身を反省し、孤独に負けず、全て彼の責任だなどと思わなければ、こんなことにはならなかったのに』
窓硝子に反射するぐちゃぐちゃに乱れた髪を見ただけで、朱里はもう狂人である。それをさらに掻き乱して頭を抱えている朱里のもとへ、忙しい足音が近づいてくる。足音は二つである。男物の靴の音、そして女物のヒールの地面を突く音。
朱里はテーブルに殆ど倒れているところに声をかけられて、恐る恐るそれを見上げた。
「朱里さんだったんですね」
その美青年は明らかに気落ちしていて不幸な顔をしていた。しかし朱里は今、それはもうどうでも良かったのである。碧がこんなに醜い顔をした自分に気付いてくれたというささやかな幸福が、朱里に、自分の犯した罪や偽証を全て彼に打ち明け、心の底から謝ろうという気にさせた。
朱里は自分の過ちを全て打ち明けた。しかも驚くほどその一連の作業は円滑であった。それは、碧と朱里の間には、これもやはり松風が予期せぬもう一人の重要な存在があったからである。
檜垣菜穂美は、ことの重大さと、それがいかに女々しく汚い情念から生まれたものであるか耳を疑いながら二人の間を持った。
朱里は目前に、なんとあの晩新宿駅で碧と一緒にいた菜穂美を見て、吃驚したのである。この点はよく注意しておかねばならないが、菜穂美はつい先日この事件を碧から相談され、もう既に自分の母親のような責任感を疑わなかった菜穂美は、自分も碧の友人という建前で、そのカフェについていくと英断したのである。しかも碧が良いというのに、身代金の三百万は彼女が肩代わりし持参してきていた。
「てっきり彼が自分以外の女と逢っていると思って、頭に来たんです」
「それはあなたの勘違いよ。伊藤さんと私はね、ただの親戚同士で、あの晩たまたま銀座で出くわしただけなのよ。彼に聞いたら身代金だなんて物騒なことを言うじゃない。それを私が代わりに出すと言ったの。だから今日私は彼についてきたのよ」
朱里はそれを聞いて自分の過ちを猛省して、また安心した。自分の妄想が妄想であったことに安心したのである。
「だけどあなた、こんなことをしてどうするおつもりかしら。まさかまだ彼に未練があるなんて言わないわよね」
この試練は、朱里に重くのしかかりはしたが、しかし今なら何でも赦し受け入れることが出来る朱里は、確かにこう毅然と口にした。
「はい。私は確かに彼を愛していました。でも彼を困らせるほど愛していたとは言えない。彼とはこれで全部終わりにしたいと考えています」
「そう。ありがとう。けれどあなただって辛かったでしょう。でも愛した相手が良くなかったの。ただそれだけよ。私も女だから分かるわ。昔は私も、自分の大切な思い出を捨てるのは、そう一筋縄ではいかない、とても苦しいことだったもの」
朱里は泣き崩れた。菜穂美は彼女を慰め続けた。少なくとも女は男よりも、一度捨ててしまったものをくよくよと引き摺り続けはしない。女は男より遥かにあっさりしている。だから朱里も、きっとすぐ全てを綺麗に忘れてしまえるであろう。
碧はただ、そんな二人を、隣でじっと見つめていた。
碧たちがS駅の反対側でこのような椿事に及んでいる同時刻に、日葵も偶然S駅のあの美和子の中華料理屋にいた。日葵は美和子に呼び出された。
既に二人は互いの連絡先を交換しているくらいの仲だったが、そんな美和子から、「最近お店に来てくれないけど、元気にしてる?」とメッセージを貰い、まさか美和子は、自分が妊娠しているなんて知るはずもないからこんなぶっきらぼうな連絡をしてきたのだと日葵は考えたが、けれど他人の不条理な思いやりを期待していた日葵である。この美和子の連絡を、日葵は快く感じた。
日葵は店に着いて、暖簾をくぐった。いつも通り香ばしい香りが店内を領している。夕方の営業が始まったばかりで、まだ日葵以外に客は無い。
店内で日葵はカウンターを布巾で拭いている美和子を見かけて声をかけた。美和子は明らかにそれを無視した。日葵は聞こえなかったのかなと思いながら、美和子が掃除したばかりの綺麗なカウンターに座った。
「お久しぶりです。美和子さん」
カウンターの向こうで丁度自分と正対している美和子に、日葵は改めて挨拶した。やはり返事がない。美和子は俯いて、無言でキッチンシンクに手をつっこんでいる。洗剤の泡だらけの食器を洗う音、水道の蛇口から滝のように流れ落ちる水の音ばかりが、日葵の方へ返ってくる。
日葵はそんな美和子を不審に感じた。しかもよく見てみると、美和子の頭巾の下に露わな右の頬には、何かにぶつけたような大きな赤茶色い痣が出来ている。
「やあこんばんは。ここ、隣に失礼しますよ」
急に何者かが日葵の隣に馴れ馴れしく腰掛けてきた。そのぎこちない機械のような仕草と醜い微笑は日葵の警戒を招いた。
「あの、すいませんけど、以前どこかでお会いしましたか?」
日葵は疑心暗鬼にそう尋ねた。
「いいや、だがちょっとした用が有ってね。ぜひともこれから仲良くなろうじゃないか」
松風は汚らしい目つきで笑って言った。
日葵は自分の耳を疑い、自分の心を疑い、そしてこの世界を疑いたくなった。まさか碧が自分を裏切って、そんな恐ろしいことをしていたなどと、日葵は気がおかしくなりそうだった。
「彼は女を沢山騙し、利用していたんです。あなたもその一人なんですよ。あなたがあの男をどれだけ愛していたか知りませんが、あいつは女に狂い借金まで作って、その連帯保証人を勝手にあなたにして逃げた。これがその誓約書です。今頃あの男は、フィリピンかタイかカンボジアか、そのあたりにいるに違いない」
松風は偽造した誓約書を日葵に見せた。松風の筋立てでは、碧は歌舞伎町のホステスに死ぬほどうつつを抜かし、消費者金融で三百万の借金とその利子を作り、しかもその責任を全て日葵に擦り付けて自分は国外へ飛んだというのである。
「そんなはずありません。私と彼は田舎から一緒に出てきて、もう七年以上一緒です。彼がそんなことをするはずない」
日葵がそう言って碧に電話を掛けようとしてスマフォを持ち出すと、松風はそれを邪魔しようとする。日葵はつきまとう彼の手を払おうとしてスマフォを手放してしまい、それが床にぶつかって静かな店内に大きな音を立てた。
「おっと、余計なことをしようとするからスマフォが一台お釈迦だ。もう諦めるんだな。俺はこの世界は長いが、そういう女の弱みに男はつけ込むんだ。あんたと同じような女なんていくらでも見てきた。もうそういう台詞は懲り懲りだ。飽き飽きした。とにかくこの三百万を明日にでも用意しろ」
場所が悪いと言い、松風は席を立った。そして呆然と冷静さを欠いた日葵に他の場所で続きをしようと言って、二人は店を出ることになった。
秋の空は寒かった。日葵は近頃勝手に手でお腹をおさえるようになった。お腹の中の子供が、いよいよ心配に感じるようになりだしたのである。もう一人の存在を自分の内側に抱える人間は、それだけで明日の身も知れないと感じることが多くなるが、そんな時期の悪いときに、このような事件は日葵の悪夢だった。
日葵はこういうことに慣れていない。というよりこのような事件に慣れているような人間は異常であるが、間違いなく日葵のような純粋な人間が巻き込まれるような事件ではない。
十五分ほど歩いて、「ここだ」と松風は住宅街の細い道路で立ち止まった。日葵は驚愕した。松風が立ち止まったのは、日葵も良く知るファーネスの丁度裏手である。
もうすっかり夜である。ファーネスは、先日代表の小田の実家に不幸があり、その喪に所員が出席するために今日の午後から閉所され、一階の活動場所や面談室も、二階の面談室も事務所も、一つも灯りがついていない。
「ここの社長はうちから借金していてね。この事業所も抵当に入ってるんだ」
松風は一階の面談室になっているキッチンの裏口の扉を開けた。日葵も黙って松風の後から入った。
裏口のドアノブが、何か重い物で殴られ、今にも外れそうにぐらついている。松風が予めドアノブの鍵を鈍器で殴って壊しておいたのである。長い利用期間を経て、ファーネスの裏口は、不運なことに警備システムの唯一の穴であることを松風は知っていた。
「さあ座るんだ」
天上の電気も点けずに、面談室の頼りないテーブルランプだけ点けて、椅子に日葵を座らせると、松風は彼女の首筋を下衆な目で視姦した。碧などには勿体ない女である。この女を今すぐ俺の物にしてやると松風は考えた。
松風は急にいきり立ち、日葵に襲い掛かった。日葵は急なことで反応できなかった。松風は日葵を壁際に押さえつけ、持てる力の限り無理矢理その首を絞め、抵抗してくる日葵の手を噛んだ。
日葵は最初苦しみのあまり、自分の首を絞める松風の手を引き剥がそうと必死でそれを掴もうとした。だがその手を松風に噛まれ邪魔された。松風は日葵に抵抗を止めさせようと頬をぶった。日葵の肩を殴った。そして次に腹を殴ろうとしたとき、日葵は迷うことなく腹を手で庇った。日葵の母性は既に、自分自身など犠牲にすることを厭わなかったのである。
こんな日葵の聖母のような精神が、窮地に立たされた彼女の瞳にある静かな輝きを見出した。壁際に追い詰められ、拘束から抜け出そうと必死に顔を背けている日葵のすぐ目前に、キッチンの食器棚がある。その薄いガラス戸の奥の闇の中で、何かが暗く輝いている。
日葵の長い腕ならば、力いっぱい伸ばすことができれば、それに届きそうである。じたばたしながら日葵はどうにかガラス戸を開けることに成功した。そしてさらに持てる限りの全身全霊で手を伸ばし、その硬い鉱石の塊のようなものを握り、思い切り振りかぶった。それは松風の後頭を貫いた。松風は失神して床に崩れ落ちた。
まだ日葵の手に握られたままの、その側面の円形の模様は、松風の血できらめいていた。黒飴地に金斑点の、闇の中でもきらめく金茶窯変釉は無事である。
*
朱里がとぼとぼ帰ったあと、まだカフェに残されていた碧には、また一つ、彼の与り知らぬ事件が起きた。
朱里と彼女を心配して駅まで送ると言って店を出て行った菜穂美とすれ違いに、カフェにある大柄の男が入ってきた。いかにも堅気ではない。筋肉質な肉体にばっちり誂えられたオーダーメイドの白いスーツは、金の匂いがする。銀色のツーブロックの刈り上げられた部分に龍のタトゥーが彫られている。その左目の上に刃物で切り裂かれた傷跡が生々しく浮き上がっている。
「こんにちは。申し訳ないけれど、君が佐藤君かな」
男は碧に話しかけた。顔も知らぬ男だったが、明らかに自分に用があると思って、碧は男に対面の席を勧めた。
「ああすまんね。さっきのあの子、知り合い?」
「ええ、知り合いです。すいませんがあなたは?」
「まあそうだね、俺はね、君も知ってるあの裏サイトを仕切ってるもんで、倉田っていうんだけど、最近あのサイトがちょっと騒がしくてね。この前サイトの方に変な密告があってさ、それがどうだ、ある男性キャストが信じられない悪さをしてるっていうじゃないか。まあ俺としちゃね、自分の島で好き勝手されるのはね、金なんてどうでもいいさ。あのサイトもちょっとした小遣い稼ぎのつもりで気楽に始めたんだ。だがもし俺の面子に泥を塗る奴がいるなら、ほっとくわけにはいかないんだよ。俺らの世界では。分かるよね?」
倉田はコップに継がれた水を一口で飲んだ。
「それで佐藤君は何か知ってる?」
「僕が知ってるのをご存じだから、わざわざこんなところまで来られたんでしょう」
「話が早いね」
このとき丁度カフェに菜穂美が帰ってきた。菜穂美は只ならぬ空気を感じながら碧の元へ急いだ。すると碧と倉田がいる。
「まあ、誰かと思ったら沼田さん。お久しぶりね。お元気? 偶然ね。どうしてこちらにいらっしゃるの」
菜穂美にそう言われると、倉田は席を立った。
「ああ檜垣さんか。まさか申し訳ない。確か梅雨ぐらいのパーティーでお会いしたぶりですね。いやちょっとね、ふらっと店に入ったら随分綺麗な顔した美青年がいるから、うちの事務所に誘いたくなって」
倉田のいた席に入れ違いに菜穂美が座った。
「まあ嬉しい。この子は私の遠い親戚よ。確かに良い顔立ちよね。私も時々うっとりしちゃって敵わないわ。うちの親族の一体誰に似たのかしら」
「ええ。仰る通りだ。俺みたいな強面には羨ましい。女を駄目にしそうな憎い顔だ。だけどもしそういう悪さをしたら、俺がまた説教しに来るって言っておいてくださいよ」
「まさかそんなこと。この子が出来るはずがないでしょう。この子は優しい子だから」
倉田は去った。碧は何かに心臓を握りしめられていたような緊張から解かれた。
「菜穂美さんあの人は?」
「ああ、沼田さんよ。ある芸能事務所の社長さんよ。まあそうね、いやらしい言い方だけど、よく金持ち同士のパーティーでお会いするわ」
知らないうちにもう夜が来ている。そして碧のスマフォに、着信があった。
*
日葵は失神した松風を置き去りにしたまま、住宅街の道路を疾駆した。日葵は今すぐそこから逃げねばならぬ。人は時に信じがたい現実から逃げ出して、何としても生き延びねばならぬ。
日葵は駅に急いだ。とにかく家に帰りたかった。そして誰でも良いからこの事件を話さねばならない。自分一人では何もできない。
日葵のブーツは、この日葵の全力疾走に耐えられなかった。ブーツの底の踵が外れた。日葵は思い切り転んだ。腕や脚が、服の上から傷付き、だんだん血が滲んでくる。日葵は弱々しく身体を起こした。日葵の腕はまた自分のお腹を守っていた。
これだけ自分がこの子の命を守りたいと本能的に考えている以上、日葵はまた本能的に、自分が心から愛している碧を疑うことなどできなかった。日葵は誰でも良いからと思ったが、本当は碧に最初に全てを打ち明けたかった。だが碧はもういない。あの醜男の言葉など信じたくないが、もしそれが本当だとしたら、もう碧は自分の手の届くところにはいない。
日葵は地べたに尻もちをついたまま、動けなかった。それは初めて彼女の味わう絶望かもしれなかった。これから自分はこの子と二人で生きていくことが出来るだろうか?
「日葵!」
だが日葵の絶望はそのとき希望へ変わった。深い闇に光がさした。前方からそれは叫んでくる。かつて日葵が彼と出会った夕焼け空の校庭で、彼がそう駆け抜けていたように、碧は息も忘れて夜空を走っていた。
碧はうずくまった日葵の元へ駆けつけて、地べたに跪いて彼女を抱きしめた。日葵は歓びと悲しみと苦しみで、碧を抱き返しながら大声で泣いた。碧も泣いていた。彼には全て分かっていたのである。
「美和子さんから電話貰ったんだ。もう大丈夫。大丈夫だ。ごめん。本当にごめん」
「怖かった。私怖かった」
「ごめん。ごめん」
美和子の電話が無ければ、碧は日葵を永遠に失っていたかもしれない。日葵もまた碧を永遠に失うことになっていたかもしれない。だが碧は来た。日葵の元へ助けに来た。日葵には、全てがただ悪夢に過ぎなかったのだと思えた。