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媚態  作者: 禅海
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第十四章


 朱里はT駅の行きつけのバーで酔いつぶれてしまった。碧を失って元気を失ってしまった彼女は、ある衝撃的な出来事に巻き込まれて、昨晩から今朝方まで飲み続けてしまったのである。

 その日、朱里は銀座で遊んだ帰りだった。碧と二度と会えない悲しみを紛らすために、洋服を買い漁りに来たのである。

 朱里が黙って笑顔でいる間、それは寧ろ殆ど怒り狂っているように傍目には思われた。それは実に機嫌の良い、冷静な怒りである。

 何かを忘れようとするとき、人間は著しい激情の片鱗を周囲に晒すことに全く抵抗を示さない。それは朱里の恐ろしい笑顔だけでは済まされず、強度な欲求を招き、朱里はほしいまま服や靴を買った。これでその月のクレジットのゴールドカードの上限に達したのである。

 買い込んだ商品は全て後日配達するよう手配し、朱里は身軽に銀座駅に向かった。この不思議な身軽さは、有り金を一気に沢山失った感覚、そして碧のことを全て忘れてしまった心地よさからくるもののように朱里は感じたが、そうして銀座駅のC1出口に近付いたとき、彼女は見てはならないものを見た。碧が菜穂美と初めて会った帰りのあの光景を目にしたのである。

 朱里はその場に膝から崩れ落ちそうになって、気が遠くなるのを感じながら物陰に隠れた。何故碧がここにいるのだろう。あの隣の身なりの良い女は誰だろう。

 そして迷わず朱里はすぐに碧を恨み始めた。何故なら碧は、朱里と別れるとき、彼の夜の稼業ごと全て終わりにするつもりだと彼女に告げていたからである。だが朱里には碧がまだあの稼業を続けていることよりも、彼が知らない女と一緒に銀座にいることよりも、ただ彼が自分に嘘をついたことが許せない。

 それから朱里は、病的に碧を逆恨みし始めた。彼との別離のために落ち込んだ自分すら嘘のように感じ始めた。仕事に集中できず、退勤後に外で深酒して(おそ)くに帰る日々が続き、不眠や便秘が増えた。予定通り生理が来ないかと思えば忘れた頃に急にやってきて、今までにないほどの苦しみを味合せ、朱里を滅茶苦茶に痛めつけた。こんな乱れた生活が、徐々に朱里の常態に取って代わり出した。

 朱里は遂に(たち)の悪い心療内科に通い始めて、藪医者の処方する通り、必要以上に精神安定剤と睡眠薬を常用するようになった。それがあまり良い診断ではなかったために、薬の効果が裏目に出て、おかしな憂鬱さややる気のなさが朱里を苛ました。

『私はなぜこんなに苦しんでいるのだろう。意味が分からない。こうなったら何もかもを巻き添えにして、無茶苦茶にしないと気が済まない』

 朱里は修羅のような執念と情念に燃えていた。炎の勢いが言いようもなく猛々しいあまり、あの裏サイトの管理人に返信の望みなどないと分かっていながら、支離滅裂な感情で連絡を取った。

 奇跡的に、管理人の元へこの恐ろしい密告は届いた。ある男性利用者が規約に違反して、女を強迫して犯した上金を奪い、もしサイトが何の対策も講じないなら、警察に全て話すつもりだと。


 *


 日葵は九月の中頃を過ぎたここのところ、何故か元気がなく、碧の目には間違いないくらい、調子が優れない。これだけで既に、普段の彼女の鈍感さからすれば、かなり異常なことのように思われた。

 日葵は日中特に気分が曇っている。あれだけ日に浴びて嬉々としていた夏の太陽がもう懐かしく感じる。時々貧血のような症状が出て、全身の血が身体のどこかへ吸い取られるように感じられて、脱力感や軽いめまいや立ち眩みがする。それなのに頬は何かを感じたように鮮やかに燃えて、じっとしていられずそわそわして仕方ない。これでは仕事にも集中できず、なぜか気が遠い気がして、昼休みになるとオフィスの窓辺でぼっとしてしまう。

 複雑さも無ければ表裏も無い喜怒哀楽は、日葵のもっとも美しく、穢されようのなく、犯しようのない、聖女のような性質だったが、このような理由のない調子の負の傾き方は、日葵を別人のように思わせ、碧は彼女と逢う毎週の金曜の夜でも、どこか鬱っぽく元気のない彼女を抱きしめて一緒に眠るのが自分の役目のように感じられた。

 この抱擁が、これまで彼女以外の多くの別の女を包んできたことを、日葵は知らないはずであるが、もしかして日葵が自分の悪行の数々を知ったために調子を崩し、にもかかわらず罪を見過ごしたうえで自分の胸に頭を預け、自分の心からの贖罪を求めているのだとしたら、碧にはもうどう謝ることもどう認めることも、全て不可能に思われた。


 日葵は結局その土日も気分が晴れず、月曜に会社を休んでいよいよ市内の病院へ出向いた。目に見えぬ何者かに恐れをなしながら、駅から駅を移動し、ロータリーで病院行のバスに乗り継いだ。バスの乗客は日葵以外老人ばかりである。老人たちはロータリーで乗り込んできた日葵を、睨みつけるような皴だらけの汚く黄ばんだ目で垣間見た。日葵には確かにそう感じられた。彼女は若い自分がここにいることが、とても場違いに感じる。

 大病院の受付まで来て、日葵は今更悩んだ。これまで大きな病気というべき病気のなかった日葵である。受付まで来て初めて、自分がどういう病気でここに来たのか分からない。何科を受診したいかも、今自分の症状がどんなものかも、ただいつもと体の具合が少し違うという雑駁(ざっぱく)な説明以外に出来なくて、高々と頭上の抜けた勝手の知らないホールの天井を見上げるしかなく、日葵はぼっとした。

 日葵はやはりどうしようもなく、受付機械の近くに立っている中年の女の看護師に近寄って、時々軽い目眩がするが、何科を受診すれば良いか分からないと尋ねた。看護師は日葵を心配させぬよう優しく笑って、自信たっぷりに答えた。

「ならまず内科を受診してみてください。当院には腕の確かな名医がおられます。分かる範囲で良いですから、問診票に簡単に症状を書いて、またこちらにお持ちください」

 問診票を看護師に預けてから、日葵は一時間半待合室で待たされた。体調が優れずその不安までが日葵を一度に責めて、この一時間半はゆっくり身体を切断されてゆく凌遅刑(りょうちけい)のようにも思われる。

 碧もいつも、病院でこんなに無駄な時間を取らされ、苦しめられているのだと身をもって経験すると、彼女はその素敵な鈍感さを無知や無神経だと思い始めて碧に謝りたくなった。

 こう日葵が忸怩(じくじ)としていると、鈴のような優しいブザーが鳴り、診療室の入口の上のモニターに日葵の受付番号が大きく表示された。日葵は椅子から立ち上がって、これから自分がどうなるのか分からない不明さが恐ろしい。

 日葵は恐る恐る診療室の扉を開いた。既に内科医は机の前の椅子に座って日葵を迎えていて、その美しい鼻梁に支えられた細い黒縁の賢明な伊達眼鏡は、真面目で優しい顔で、日葵が診察室の椅子に座るときの仕草をじっと観察していた。

「こんにちは。田中日葵さん、ですね? 今日はなんだか調子が優れないと」

「はい。……先生私、実は今まで幼稚園の頃に一回引いたきり、風邪もまともに引いたことがなくて、その、病気という病気になったことがなくて、今の自分がどういう状態なのかも、よく分からないんです」

「まあ、それは。今までずっと健康でいらしたのね」

「はい。だから不安なんです」

 俯いた日葵を見つめて、内科医は辛そうな彼女をこれ以上不安にさせないよう、膝の上で固くなった日葵の手を握って、毅然と彼女を励ました。

「心配なさらないで。これでも私、それなりに目は良い方です。今さっき田中さんがお座りになる様子を見て、こういう言い方はおかしいですが、田中さんのお身体の状態が大体分かりました。けれど念のために、これからまた別の科へお行きになってくださいね」

 日葵は訳も分からず、この内科医の言葉を疑いたくなった。それくらい切実な目を向けて、日葵は尋ねた。

「私はどういう病気なんですか」

 この道二十年以上最前線に身を投じ続けている臨床医は、寧ろ自分の方こそ何度もそう言われたいと願い続けていた。人間は皆、自分が言われたいと願う言葉を知らず知らず他人に口にする。女医は歪みない自信を持った真直ぐな目でもって、日葵にこう伝えた。

「病気なんかじゃございません。おめでたです」

 檜垣菜穂美は、誤診の前例のない名医である。


 日葵は妊娠したのである。しかし日葵の突然の妊娠は、決して菜穂美が『おめでた』と形容すべきほどには、朗報とは言えなかった。

 産婦人科へ回され、精密検査を受け、それが本当の事であると判明したとき、まだなにもかも現実離れしているうち日葵は途轍もない歓びに迎えられ、それから現実の感覚に戻ると崖を滑落するかのように途轍もない不安に襲われた。

 日葵はあまりに碧に気を許しすぎたのかもしれない。何かの幸運か悲運かしれない本当の偶然が、二人の間に不安の落胤(らくいん)(もたら)した。

 こうなることはいずれ間違いないことであるべきだったが、しかしそれは著しく時期を逸し、少なくとも自分たちの赤子を不安の赤子と捉え、まるで他人の赤子のように思ってしまうことになるならば、日葵はそんな薄情な自分を悔やみ、まだ膨らんでもいない腹を撫でて、泣かねばならない気がする。

 それは限りなく自己憐憫に近い哀れでエゴイズムな嘆きである。つまり日葵はまだ、新しい自分ではない何者かを産むほど、自分と碧以外のことを考えることのできない状態、母親になるには十分な愛も猶予も足りない気がする。

 日葵は数日、職場の同僚・先輩や、信頼できる友人や、母親の誰にも自分の妊娠を相談せずに一人で考えて、まず誰よりも先に碧に打ち明けるべきか迷った。これは一見自然な考えにも思えたが、そもそもこの不安の原因である碧に一番先にそれを伝えるのは、相談というより寧ろ詰問になりかねないと思ってよした。

 まだお腹が目立たないうちは、産婦人科の先生に相談していれば良い。まるで何事もないような顔をして、周囲を欺きながら平然と生きてゆけば良い。だがお腹が目立つようになって、子宮の中からまだ顔も分からない何者かが腹を蹴るようになったら、どうして他人を誤魔化しきれるだろう。ならばそうなる前に手を打ってしまうべきではないか? つまり日葵の子宮に芽生えたばかりの小さな青い芽を、成長する前に摘み取ってしまうべきではないか?

 だが日葵はそれだけは死んでも嫌だった。日葵は自分が責任も保証も持てないくせに、しかも母親になる勇気も覚悟もないエゴイストのくせに、自分の意志ともつかぬ意志に任せて誰かの命を中絶するような独裁者のような真似が出来なかったのである。

 こういう危機に接したとき、人間は不条理に第三者の思いやりを期待してしまう。まるで自分があらゆる合理的配慮を受けて、社会の誰からも助けられて生きていく当然の権利があるように思われる。だが日葵のこの自然な願望は、決して叶うことはない。体調の悪い日葵は、体調の悪くない社会からすればただ体調が良くないだけに過ぎない。ほんの少し勘を働かせ、感情の溢流(いつりゅう)を顧みなければ、誰にでも簡単に出来ることだが、人目を忍ぶあまり誰も自らすすんでしようとしないことを、我々は思いやりという言葉で表現する。

 日葵は自分がこういう立場になってようやく、碧の立たされている状態の本質を理解した気がする。彼は何故こんなに辛いのに、私に何の苦情も苦言も言ってこないのだろう。何故あんなに美しい微笑を自分に向け続けてくれるのだろう。こんな窮屈な無力さは、殆ど死のようなものだ。

 生は人間に生きる以外の何かを必ず要求し、それと同じくらい何かを施すが、死は人間にただ死ぬこと以外に何も要求しないかわりに、何も施さない。人は他者のいずれかの死を直視すると、嘆き悲しむ感情の猶予を与えられ、まるで死に施しを受けたと思ってしまうが、それは実は他者の死にではなく、自分の生の無念さにこそ施しを受けた結果であるといずれ気付く。

 我々は、或いは殆ど全ての生物は、その瞬間になってようやく、自分自身の死を直視できない救いのなさに気付くのである。碧はどうしてこんな無慈悲な身の引き裂かれるような不平を許し、受け入れ、耐えることが出来るのだろう。だが少なくとも、まだ生に救いを求めるならば、我々は自分が直視できぬものを深く思い詰め過ぎてはならない。

 日葵は碧の顔を思い出し、そしてあの冷たい手が自分たちの生活に与える揺るぎない意味を思い出すと、日葵は自分が懐胎する前と後では、碧に対する忠義のような感情が、欺瞞と誠実に明らかに区別された気がした。

 すると日葵はやっぱり、誰にもこの懐胎を打ち明けず、この、まるで自分の鈍感さの怠惰が招いたような必然の不安と苦しみから、自分はまだ解放されてはならない気がする。


 朱里の発狂も、日葵の妊娠も、それらの何一つをも知らない碧にとって、この夏の終わりの到来は、一つの悲しみも、一つの恥も、一つの躊躇いも謎に現れない、これからあらゆる生命が死へ向かっていく季節の始まりにしては疑いたくなるぐらい、いささか無味乾燥とし過ぎているような気がした。

 この夏の終わりの数日を、碧は房総半島東方の、九十九里浜南端の、菜穂美の実家の吉田家が所有するビーチサイド・コテージで迎えた。この二週間前、碧は遂にC市内のとある企業の障害枠の事務職に内定が決まったのである。

 勿論碧は誰よりも先に日葵とこの朗報を祝ったが、菜穂美もまたそれを祝うため自分の別荘に彼を招待した。こうして二人は全く不自由のない水入らずの逸楽な数日を得たのである。

 こうしていると、結局紀子の火遊びよりも、自分自身の火遊びがずっと長続きしたことを思い出して、菜穂美は何らかの驚きを隠せない。以前本人からそれとなく聞いた話では、紀子は結局、高橋とは二度会って何事もなく別れたらしい。紀子はそうして婦人に戻った。女遊びの激しい良人を持つ無口な妻に戻り、健やかな二児を見守る優しい母親に戻った。

 だがもし菜穂美もまた紀子のように、元の生活に戻らねばならないとするなら、今のような楽しみを知ってしまった後で、一体どんな自分に戻ればいいのだろう?


 休日の最後の昼下がりに、二人は名残惜しく海に出た。その一帯は吉田家の私有地である。二人のほかに人は見られない。澎湃(ほうはい)とする黒い波と白い飛沫の連弾する音楽が、壮麗な卵色の(みぎわ)に迫ってくる。

 海は彼方の水平線で突然冴え冴えしい青になる。その黒と青の境界へ、不動の積乱雲がのしかかっている。その判然とした葉脈のような灰色の皴を数えているだけで、時間は忽ち過ぎ去ってしまうように思われる。そう思えるくらい、やはり二人のこの数日は、その最後の時まで、悠々自適とし過ぎている気がする。

 この数日の最後の一日を彩るために、菜穂美はこっそり東京港区まで出かけて、年甲斐もなくかなり際どい水着を買ってきた。その白色の、布地の狭い、彼女の小さな茶色の乳暈(にゅううん)を辛うじて隠している黒のビキニは、店で見たときは買う前に試着するのも躊躇われたのに、いざそれを見た碧が興味津々に「大胆ですね」と言うと、菜穂美は自分の勇気を褒めたくなり、彼以外の目に付かないことで余計に、早々に老嬢の羞恥心を割り切ってしまった。

 彼女のあの美しい背筋は、双肩の筋肉の不老の若さを保ち、それは軽くいかって、乳房の形をまだ崩させなかった。背筋は腰のくびれまで弓のようにしなり、その立派な臀部を後屈させ、Tバックの鮮明な割れ目を気高く上向かせているが、少なくとも海に脚まで浸かって碧と遊んでいる間、菜穂美はまだ半透明な花柄のレースのパレオを腰に巻いたままであった。

「水着で海に入るなんて何年ぶりかしら。こんなに気持ちが良いのね」

「ええ。僕も殆ど忘れてました。自分の身体が水の掻き方を覚えていたのすら、驚きました」

「たまには外に出るのも悪くないわね」

「ええ……」

 海水浴を終え海から上がると、菜穂美は急に、海に浸かっている楽しさを失ったあまり、その楽しさの代わりの何かを見つけねばならない気がしてきた。

 菜穂美は碧に先んじて砂浜を歩きながら、自然に腰紐を解いた。パレオが太腿を擦りながら落ちかかり、菜穂美の美しい豊かな臀部は碧の目には殆ど露わになった。その日焼けを知らない白い肌の奥には、未知の何かが隠されており、あの黒曜石のような海の深い輝きをまだ瑞々しく宿しているようにさえ思われる。

 二人はあてもなく砂浜を歩き、最後に硬い枝と針のような葉を殆ど砂にしなだれた、老いて痩せた松の陰に落ち着いた。その晩夏の日光に敗れた薄い陰は、松の梢のあの雪の結晶のような幾何学的な紋様の揺らめく陰翳を、微小な石英のきらめく砂金のキャンバスに描いている。

 菜穂美はさっき脱いだ長方形のパレオを、この松の根元の落ち葉混じりの硅砂(けいさ)の上に大雑把に敷き、その上に膝をつき四つん這いになって海の方を向いた。彼女の豊かな臀部の肉は、碧を見て膨らんで、腰の付け根から膨らみの先端まで目をなぞってゆくにつれ、口をすぼめて尖っていた。

 そのとき碧は開けた海を眺めながら、菜穂美の中にまた別の海を感じていたのである。二人の真上で老いた松のか弱い枝葉は海風を感じて揺れた。小さな波が浜へ迫って砕け、また大きな波が浜へ迫って砕けるのを繰り返した。この海辺の揺動は、殆ど切り開かれた陸と海の交接のようであった。


「夏ももうおしまいね」

 菜穂美は哀愁を帯びた声でそう言った。

「ええ」

「ねえ佐藤君」

「はい、なんですか」

「これで私たちも、おしまいにしましょう」

 碧は愕然とした。確かに碧は、愕然としたのである。

 碧は突然自分の声を失った気がして、ただ菜穂美の目に、無言で訴えかけるような明らかに悲しい顔をした。菜穂美の横顔は、その彼の顔を見ようとしなかった。その鼻梁の確然と美しい横顔は、まるで獅子のように揺るぎない拒絶の力で(みなぎ)っていた。

「佐藤君、あなたは今まで私と同じように夢を見ていたのよ。殆ど現実のような夢を。あなたは夢の中で自分を売り、そして私を買って、自分自身を買い戻すようになった。それで夢の物語は一周して、終わりを迎えるの」

 菜穂美の歓迎は、はなから別れを切り出す口実である。それにしても菜穂美は、こうして自分から碧に別れを切り出しておいて、それと一緒に碧との思い出を全て断ち切れるほどの気持ちにはなれない。なんでもかんでも全て一からやり直せるほど、菜穂美の人生はもう若くない。だから菜穂美は碧を忘れる必要もないし、寧ろ記憶しておく方が重要な気がする。菜穂美はこれから碧を知らない自分に戻るのではなく、碧を知っているただの隣人になるつもりだ。

 そういう菜穂美の揺るぎない思惑が、彼女の満足げな顔つきからなんとなく伝わると、碧は初めて自分の目に涙を感じた。それは温かくもなく、冷たくもない、殆ど無温な、これまでの感情の怠惰、それはきっと日葵のあの鈍感さとはまた違う怠惰が流させる、心に溜まった濁りのようなものだった。これは単なる失望の(もたら)す悲しみというよりはむしろ、都会で働く息子が、田舎の母親が亡くなったと連絡されたときに感じる過去の記憶の風化と再生のような悲しみだ。

 涙を感じたと同時に、碧はやっとその声を取り戻したが、その取り戻したばかりの声は確実に意志の力を喪っていて、その無気力や無感情では、目前のもはや凛々しい菜穂美の心底に、どれほど訴えかけることが出来ようか分からない。きっとその哀訴は彼女の心どころか、もう彼女の耳にすら届かないかもしれない。

 菜穂美の裸の唇は、もう碧はおろか、遥か彼方の海など見てはいなかった。彼女のその遠い微笑みは、彼女には不可能なはずの、あの母親の責任の力を手に入れ、母親がこれから遠くへ旅立つ息子らを見送るような、どこも見てもいないし、また全てを見ている瞳をしていたのである。

「さあ私も夢から覚めて、陸に帰らなきゃならないわ。佐藤君。あなた、もうこれっきり自分を安売りしないことよ。最後に私と約束して頂戴」

「僕に約束なんてできるでしょうか。僕は最初から最後まで、自分勝手でした」

「そうかもね。けれどあなたにはまだ、守るものがあるわ」

 菜穂美は腰や臀部や太腿に付いた砂粒を払いながら立ち上がった。そして清々しい顔で碧にこう言った。

「これからは日葵ちゃんのことを本当に大事にしてあげなさい。今のあなたになら、その意味くらいわかるでしょ?」

 菜穂美はつい先週あの病院で、『軽い貧血症』の通院帰りの日葵を迎えに来た碧を目撃していたのである。

 そのとき菜穂美は碧との別離を決めた。菜穂美は忘れていた何かの片鱗ばかりを思い出すときのように、あの赤い苦しみから覚悟と責務だけが抽出され、彼女の心の裡に取り戻された。鼻孔に突然、あの生理のような重い潮の香りが呼び起こされてくる。

 彼女は多分自分がこう感じるからには、自分は遊び疲れたのだと思った。すると途端に菜穂美の目には、歳の二回りも若い二人が、本当の息子と娘のように思えてきたのである。

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