第十三章
行く途中で知り合いに呼び止められないとも限らないので、菜穂美は普段着ないような目立たない地味な服を着て、入念にサングラスをかけ、夏なのに顔の下半分をマスクで隠して、紀子と駅で落ち合った。
時間的に丁度帰宅のラッシュに重なり、東京から帰る人の数より東京へ帰る人の数の方が少ないのは言うまでもなかったが、それでも人が多くて胸が苦しいなどと弱音を吐く紀子を宥めて数少ない空席に座らせて、自分は彼女の目の前の吊革に掴まったまま、整然を保った。
既に三十分弱も、満員近い電車に揺られながら、銀座駅へ向かっている最中である。紫に染まった夕空の下を次々すれ違う満員電車を見ると、菜穂美はその中にまた別の自分が乗っていて、自分がこれから冒そうとしている体たらくな危険をじっと責めるような目で眺められているような気がする。彼女は時間を遡り、自分は時間を進んでゆくという、不可能な隔絶がすれ違っているかのように感じる。
人間がこう感じるためには、単に錯覚か、もしくはなにかしら判然としない期待か資格が要る。少なくとも菜穂美には、限りなく錯覚ではなくそう感じる資格があった。菜穂美は閉経したのである。
予定日を一日過ぎて、二日過ぎて、三日過ぎても、菜穂美の赤い喪はもう訪れなかった。それは菜穂美にとって自分ではない何かの途切れ途切れな死の連続のような、尽くしがたい服従から解放されたように感じた。瞭然とした苦しみの終わり、そして判然としない歓びの始まりのように感じたのである。
ここから暮れなずむ赤い有明の海はまだ見えない。そして重い潮の香りもしない。これから菜穂美は、周期的な船出生活からようやく退役し、人で溢れかえった陸の生活を、これまでよりずっと身近に感じ続けることになるであろう。
二人は銀座駅に着くとすぐ、駅から徒歩五分の、コリドー街沿いのナイトクラブに待ち合わせの時刻が迫っていた。ナイトクラブは二階建ての、一階がバーフロア、二階がレストランフロアになっている複合的な構成で、立席着席合わせて三百名、一階二階合わせて約三百平米にもなる大掛かりなものである。
一階の青や紫のネオンは、天上のシャンデリアを、水族館の深海エリアに展示されている不思議な海月のように見せていたり、酒樽を逆さにして底に丸いテーブルを取り付けた立ち飲み席を、黒縞模様の茄子のように見せていたりする。
いかにも斜に構えた若者が好みがちな、奇の衒い方を勘違いした珍奇な光景だと菜穂美は思ったが、彼女の高潔な貴族意識はこういう民衆的な流行をさも嫌わず、寧ろ知り合いが一人も居なさそうな世俗的な印象をよく気に入った。
にも関わらず、やっぱり紀子は激しいネオンにすぐ目と胸を悪くして、入店したそばからもう帰りたいなどと駄々をこねて、面倒見の良い姉は、硝子細工のような血の繋がらない妹の扱い方に困った。
紀子を支えながら、菜穂美は店の中央の幅の狭い鉄階段を上った。菜穂美はヒールの付いた靴を履いてこなくて良かったと思った。少し気を抜いたら隙間の空いた格子を踏み外しそうだと思ったからである。
二階の階段を上り切った頭上には銀色のミラーボールがぶら下がっている。その北半球を、二階の真赤なネオンが照らしている。天井にはミラーボール以外にも、チベット高原の煌びやかなペンダントやマニ車のような一風変わった天井飾りが、幾つもぶら下がってそれとない雰囲気を醸しているが、四角い業務用エアコンが丸見えで台無しである。
菜穂美は二階のレストランの客席を見渡して、どれが待ち合わせの相手か紀子に尋ねた。弱々しい紀子は店内をまともに見ようともせず、二人組の若い男たちだと曖昧に答えた。
客席には二人組の金髪の青い目をした若い外人の男たちがいる。二人組の会社帰りらしい若いサラリーマンの男たちがいる。テーブルについている二人組の若い男たちなどいくらでもいる。
「紀子ちゃん、相手がどんな格好だとかも分からないの?」
「えっと、えっと、一人は私服で、一人はスーツで来るって連絡を貰ったの」
「そんなのじゃ分からないでしょう。電話番号とか何か連絡先は?」
「ちょっと、ちょっと待って。ああ、もう帰りたい」
菜穂美は言ってどうにもならないなら、仕方なく紀子の不甲斐ない頬を平手で搏たねばならないかもしれなかった。
もしくは、このまま何もせず帰っても良い。また日を改めて二人で反省会でも開いて、自分たちはこんなちんけな危険を犯す勇気も無かったけど、最初にしてはよくやった方だと笑って済ませば良い。だがそれすらできそうにないから、まるで紀子が理性のない動物のように思えてきてしまう。
二人が二階に上がって、擦った揉んだ立ち往生していたそんなときである。
「どうかなさいましたか」
菜穂美と紀子は、丁度背後から、鉄階段を上がってきた青年の澄んだ低い声を耳にした。
「ああ、すみません。大丈夫ですわ。お邪魔でしたら、今どきますから」
早口で答えながら菜穂美は振り返った。
そして彼女が背後の夏スーツ姿の彼を見たとき、菜穂美は自分が本当はまださっきの階段を踏み外して落下している最中で、あの殆ど無にも近い、呼吸のできない、青春のような衝撃に身を委ねているような気がした。
そしてそのまま、気を失いそうなくらい動顛している紀子のことなど忘れて、寧ろ自分の方こそ気を失うべきなのに、何故そうならないのかと真剣に考えた。
六十年代のアメリカンレトロダイナーを模した赤と白のチェッカーソファーに紀子を座らせて、夫人らと待ち合わせた高橋は、気を利かせて店員にレモネードを頼んで持ってこさせ、紀子に飲ませると、彼女の緊張はすっかり解けてしまい、気分もかなり良くなったと見えて、菜穂美は『現金な子だわ』と思いながらも清々した。
高橋はいかにも気さくそうな若者である。白いシャツの上に黒のサマージャケットを着た落ち着いた格好で、親近感の湧く特に煩わしさのない笑顔は感じが良いが、普段から若い女を誑かしていそうな、首にかけた細い鎖のようなネックレスと、笑った時の垂れ目の目尻の、日焼けをしたきつい皴がいやらしい。
「中村さんの顔が真青で心配しましたよ。こういう付き合いは初めてなんですね。俺も最初は緊張しました。でも気楽に行きましょう。いつも通りの中村さんじゃないと、折角会っても意味がないじゃないですか」
「ええ、そうね。ちょっと気負い過ぎたみたい。高橋さんが話しやすい人で良かったわ」
「いえいえ。それで渡辺さんは中村さんのお知り合いで、渡辺さんに頼まれて来られたんですね」
「ええ。彼女に誘われたの」
「へえ。なんだろう、そういうの珍しくて。実は俺とこっちの伊藤君も、今日初めて会うんですよ。色々ややこしいですね」
「でも私が居なかったら大変だったわ。ね、きいちゃん」
皆偽名を使っているので、菜穂美は会話が少しややこしいと思った。今夜菜穂美は渡辺で、紀子は中村である。菜穂美は紀子のことを時々本名で呼びそうになりながら、きぃちゃんと呼んだ。
やがて四人のテーブルに酒や料理が運ばれ、会話の主導権はすっかり高橋が握っている。高橋はきっと自分より二回りは年下な青年だろう。菜穂美は客観的に見た自分は、こんな若造に上手く手玉に取られているように見えるだろうと思うと、それを恥だと感じたが、それよりもずっと気になっているのは、高橋の隣でほとんど話さずに誰かの話を聞いては相槌を打って、静かに微笑んでいる美青年の方である。高橋の話が退屈に中だるみするときも、この青年を見つめているだけで、菜穂美は時間が光の速さで過ぎていく気がした。
夜が少し更けてきて四人は一通り話し終えると、高橋の提案で、まだ時間は早いが、特に紀子の疲れを慮り、今日は一度解散してまた改めて会おうということになった。高橋の話は存外面白く、紀子は彼の提案を二つ返事で快諾した。
菜穂美はようやく引率の役目が終わって気楽になって、紀子の面倒を見なくて済むと安心したが、しかし実のところこの安心は寧ろ、あの美青年と一度別れることが出来る安心だったかもしれない。
だが菜穂美は今夜、危険を冒しに来たのではなかったか。しかし今その危険は、冒す前に過ぎ去りそうである。こういうとき感じるのは本来安心ではなく、目的を果たせなかった無念さではないだろうか? それなら何故菜穂美は、無念さを感じないのであろう。
こんな不明な逆転的な感覚を彼女は知らなかったが、同時に彼女にこういう感覚を与えるほどの美青年に対するときめきを、菜穂美は何と表現すればよいかも分からないのである。
「伊藤君は無口だね。別れる前に何か無い?」
だから高橋がそう彼に話を振ってくれると、菜穂美はほかならず喜んだ。
「そうだな、とても楽しかったな。普段こういうみんなで集まって何かするなんて、そうないから。でも折角だけど、次回は遠慮しないといけない。今日でこういう付き合いは、最後にしようと思って来たんだ」
「駄目よ」
菜穂美は焦って口にした。考え無しに行動に移すような真似はしない自負があった菜穂美は、自分を衝動的にした、この降って湧いた感情を飲み込んで傷付いた。遅れてやってきた無念さは丸のみにするにはかなり大きかった。
「残念だな。でもそれなら、次に会うとき、僕はお二人とお会いすればいいんですか?」と高橋が聞いた。
菜穂美はそんな高橋を責めたくなった。自分でそれが出来ないくせに、会話の主導者である高橋が美青年のつれなさを咎めて、もう一度くらい会うべきだと提案すべきだと思ったのである。
だがここから菜穂美の立ち回りは巧みだった。
「でも元々高橋君と会いに来たのは、きぃちゃんでしょ。私はもう要らないんじゃないかしら」と菜穂美が言った。
「お二人がそれでいいなら、そうしますよ。中村さんはそれでいいですか」と高橋が聞くと、
「ええ、そうしましょうか。高橋さんの話、もっと聞きたいわ」
と紀子は実に乗り気である。こうして菜穂美は最後のチャンスを作ることに成功した。退店間際、菜穂美は自分の連絡先を走り書きしたメモ用紙をこっそり手渡して、美青年にこう耳打ちした。
「また会ってくれないかしら。あなたほど美しい人、私見たことがないわ」
碧はそれを聞いて、この女はまるで松風のようなことを言うなと思った。
碧は今までいろんな痴女に会ってきたが、彼の美貌を褒めた女は菜穂美が初めてである。男を買うような痴女は、何かしらのきっかけで男に媚びるようになっても、自分から男を褒めるようなことをしない。痴女は男に媚びている自分に興奮するくせに、男を褒める自分には打ちひしがれたように幻滅するものだ。
だから碧は、余計にとでもいうべきか、こんな菜穂美に純粋な興味を惹かれたのかもしれない。
菜穂美と碧は、日を改めてC市内の盛大な海浜公園を望むリゾートホテルで再会した。
菜穂美はこの前会った時より、少々華美な服装をしていると碧は思った。笑った薄い紅鮭色の口紅が、白い肌の上に自然で綺麗である。オーダーメイド一着六十万円のイタリア製の水色のシャツドレスは、婦人服というカテゴリでありながら、あの奇妙な格調高さや古臭さを感じさせない刺繍やアルファベットの金字の文字列を象ったベルトがそれほど過剰でなくモダンな印象である。
再会したリゾートの景観は壮大である。人工的な美景が、たしかにそこに、東京湾に打ち寄せる海の音に晒されている。
菜穂美の両親が得た堅い資産とは、このようなリゾート業やレジャー業の関連株式である。これに関する株主優待だけでも、家族だけでは既に有り余るほどであったが、確かに数年前に流行した海外製のウイルス感染症のときは、少々痛手を受けた。それでもこの海浜リゾートは、何事もなかったかのように再び客足を取り戻し始め、今や碧も菜穂美もまたそのうちに取り込まれ、ショーケースの中の夢の最中である。
菜穂美の方も、初めて会った夜に心を奪われてしまった青年と昼に再び見えると、その明らかな美貌にまた比類なく感激し直したが、しかし彼女の貴族的な好奇心は、彼女の夫婦生活の疲弊や、彼女の少し時期尚早な閉経のような、いくつかの出来事と紐帯し、目前の芸術品のような青年に対して、ある不明な欲求をかきたてた。つまり菜穂美の抱いた興味とは次のようなものである。
『彼はこれまで何人もの女と会い、そしておそらく買われてきた。紀子の説明では、あのサイトは実はそういう危険なサイトだった。なら逆に、彼は女を買うという行為についてどう考えるのだろう。少なくとも、私が今考えていることは、それは自分でも本当に理解不可能なことだけど、私は今彼のような人に買われてみたいのだ』
自分自身の現実的な視点を疑わない方々には、かくも非現実的なことのように思われるかもしれないが、しかしこういう様々な稀有な条件が揃った状況で、男が女を買うという行為は既に怪奇な現象にも近い。
碧の性格、病、社会的現実、その全てが揃いも揃って自分自身を売りに出さねば存続不可な事態にあったのだ。だから何かを買うというような行為は彼の理外へに置かれていたので、こういう菜穂美の発想は、寧ろ碧には願ってもない青天の霹靂であった。
菜穂美はそして、あらゆることに恵まれてきた人生に一つ二つ蹴りが付いた自分の現在地の、新しい人間的体験の目印としての最初の経験に、自分自身を売ってみようという危険な行為を選び、あまつさえなんらかの未知な享楽の兆しを見出したのかもしれなかったのである。
しかも菜穂美は、単に碧に金銭的に買われるのではなく、非物理的な方法によって、碧に自分を買わせたいと考えた。このためならどんな努力も惜しまない自信が菜穂美にはある。
菜穂美は今確実に不倫に身を置いているのに、こういう自信のためか非常に落ち着き払っている自分が面白かった。
リゾートホテルの四十九階に上がったアジアンビュッフェレストランのオーシャンビュー席は、晴れやかな海浜公園と東京湾を見下ろすには見晴らしがよかった。
この地上五十階180メートルの天へ衝き出た高層ホテルには、客室だけで二千室、レストランだけで十三店、大浴場だけで三場あり、夏季限定の大型プールも一つ有るが、どうして展望台が無いのだろう、もし旅行客が一人でここに泊まりに来ていたら、何の説明もない景色を見るのはつまらないだろう、それにこれだけ施設が沢山付いているんだから、展望台の一つくらい付けてもどうせ困らないだろうに、と碧は思った。
が、それが寧ろ今の碧には好都合に働いた。出不精で興味も無いため、街の景色のことなど一つも知らない碧は、展望台が無いおかげで、菜穂美との会話の隙間にその景色の説明を逐一求め、二人の密会をより豊かにすることが出来たのである。
こうして意想外にも、海浜の風景を肴に二人はかなり諧和し、談笑は弾んだ。普通その世界の住人の誰もが両方とも知っているはずなのに、碧は夜の世界のことを知る前にまず昼の世界を満足に知らなかったが、そんな世間知らずな自分が分かると、碧は急に自分が幼稚な子供に戻った気がした。
それこそ何の輝きも知らなかった幼年時代を取り戻そうという碧の聖地奪還の意志が、菜穂美にはどこか新鮮に感じ、碧の態度や素振りの一通りを興味津々で若々しく美しい活力を持した様子に見せたらしかった。
レストランの開放的な窓際から見える方々の景色を、碧に尋ねられるままつぶさに教えてから、教える側の言い知れない征服感か支配感に気が良くなった菜穂美は、碧に自分の本名を隠さず教えた。碧もどうせもう使うことは無いから、偽名を捨てて本名を教えた。それで二人は、改めて自分の実生活についても簡単に取り上げ始めて、下らない話をいくつかして盛り上がった。
二人の会話は幾つかの壮麗な山脈を越え、遂に重要な地点へ踏み入ったとき、壮大な天空に雷雲の近づく模様があった。
「佐藤君はおいくつ?」
「二十三です」
「若いわね。私はもう五十目前のおばさんよ」
「とても信じられません」
「お世辞は良くてよ。それで碧くんはどうしてこんな、言っちゃえば自分を売るような真似をしてるの? 私最初は知らなかったんだけど、あれはそういうサイトなんでしょう?」
「ええ。そうです。でも実のところ、あんまりよく考えずに始めたんですよ。ただきっかけは有ります。この前菜穂美さんに言われたように、自分にはそれに見合う美貌があると言われたんです。それが気になって。何でもいいから自分にできることをしてみたかったのかもしれない」
「そんな考えは駄目よ。自分を安売りしちゃ駄目」
「でも菜穂美さんは知っているはずだ。あのサイトは本来菜穂美さんのような普通の人が使うサイトじゃない。僕は精神障害なんです。僕みたいな人間は、社会の中で普通の生き方はできない」
「仮にそうだとしても、私、無責任に言ってるわけじゃなくてよ。精神障害は専門じゃないけど、これでも私医者なの。あなたは自分のことをどう思ってるか分からないけれど、そういう言い方はあなたのために良くないわ」
「じゃあ僕はどうすればいいんです」
「そう機嫌を悪くしないで、お聞きになって。あなたは自分の美しさの価値を理解していないの。けれどそれも自然なことなのよ。他人の才能を見抜くのは造作もないことだけれど、自分自身の才能を見抜くのには難攻不落の城砦を一つ二つ落とすくらいじゃ全く足りないのだから」
菜穂美にはこういう急な話題の逸脱は、同じ歳映え同士なら些細な冗談の一つくらいにはなると思えたが、碧と自分のような母親と息子くらい歳の離れた者同士の間では、切実な哀訴か説得のようにも感じ、自分が悉く美青年の遥か遠くから話をしているような気がして辛かったが、こうすることでどうすれば碧が、彼の知っている方法以外に自分と寝てくれるか、真剣に図っていたのである。
「私にはあなたの今までの経歴や境遇は分からないから、敢えて触れないでおくわ。けれど少なくとも、私もあなたも同じ人間で、違う個人だから、少しぐらいあなたの人生にお節介をしてもよろしいでしょう。まず佐藤君は、私たちの世界では恐ろしい存在なの。それは貴方が美しいからよ。あなたの美しさはただの美しさじゃない。最近の商業主義的な美貌とか、ルッキズムという言葉に代表される程度の、下品で低級な美貌とはかけ離れたもの、つまり恐怖のようなものよ。
鏡をよく御覧なさい。男の人たちは毎朝髭を剃る時くらいしか自分の顔を見ないからよく分からないでしょうけど、私たち女は、あなたの顔を見てしまうと、もう二度と鏡を見たくなくなるわ。あなたは鏡のこちら側の存在でなくて、鏡の向こう側の存在なの。だからこそあなたは、自分の美しさを、向こうの世界に隠してしまっているだけ。でもそれは凄く不幸で恐ろしいことよ。寝ている間に死んでしまう夢を見るくらい、不幸で恐ろしいこと。あなたは夢を見るかしら。私は少なくとも、あなたと出会ったそのときからずっとまだ夢の中にいるみたいよ。この夢がたとえ悪夢だとしても覚めないでほしいと思う。あなたのような美しい人は、それくらい誰かを恐れさせ、悩まし、時に救う、いわば美の化身、美の神の現身なのよ。あなたの不幸は、女神様は本来、美しい女に宿るべきなのに、あなたのような美しい男に宿ってしまったことよ。
ほら、あの海と空を御覧なさい。もうじき夕日が出ると、もっと美しくなるわ。でも海も空も、決して私たちに話しかけはしない。けれどあなたは、あの海や空のように美しいのに、私たちと話すことが出来るからなお恐ろしいし、それだから何か試みたくなるのよ。ただどれだけ海や空が美しくても、それを見る側が分かろうとしなければ、陸の彼方に隠れている美しさは決して自覚されない。あなたの美しさはそういう美しさなの。
あなたのその、深い瞑想の中にいるような、心の暗がりの翳った横顔すら、私にはよそにはない美しさを感じるわ。じっと見つめていたくなるくらい。ああもしかしたら、あなたはいつでも誰かに監視されていると感じることがあるかも知れない。でもそれは決して単なる思い込みなんかじゃないわ。あなたの中のもう一人の美しいあなたが、あなたが誰かに恐れられていることを、そういう遠まわしな方法であなたに伝えようとしているの。じゃああなたが何をすればいいかなんて、簡単なことよ。あなたはこれから女や私を抱くんじゃなくて、自信を持って、あなたともう一人のあなた自身を一度に抱けばいいの。それがあなた自身を唯一許す方法。あなたには間違いなくその資格がある。あなたはこれだけ私が言葉を尽くしても全然言い表せないくらい、美しいわ」
碧は終始、耽るように菜穂美の言葉を黙って聞いていた。いつからか手の中に隠していたあの精力剤は、固く握られ続けたために湿気って、使い物にならなそうである。そうして、碧の心には、或る確かな、酩酊のような温かい歓びが満ち溢れてくるような気がした。碧は黙ったまま、その実感をずっとまだ掴めずにいて、もう少しで掴めそうだったのである。
それから二人は時間早めに菜穂美の取った客室へ行った。二人の睦まじい幸福な夢のような時間には、煩わしい言葉や道具の一つとて要しなかった。
二人はそれから、自分たちの冒した危険からまだ醒めない興奮から、実に子供のような好奇心で、日没前に海浜公園の砂浜まで出かけようという話をした。
公園の陸側の樹木の叢陰から囁くように聞こえてくる潮騒を辿って、二人は浜辺へ向かった。木々の向こうはもう海に切り出ている浜辺のはずなのに、あの海の潮の匂いがなく、菜穂美は不思議に感じた。
海浜公園はビーチから公園の緑地まで、全てが完全な人口造形である。特にビーチに立った風景は、その海が真黒な東京湾である以外は、風に揺れる髪の少ない椰子の木から、カラフルなビーチパラソルから白い大粒の砂まで、遠い南洋の光景をそのまま切り離してきたようである。
二人はわざわざオーストラリアから取り寄せたという、真白な砂浜に出た。夜が迫っていて、人数は極めて少ない。急に砂浜に現れた二人に驚いて、波打ち際に二十羽ほど群れていたミユビシギたちは、雪のような羽毛と胡麻のような瞳を煌めかせ、二人の前から逃げ去るように隊列を成して飛び去った。
砂浜で碧は足元に転がっていた貝殻を見つけて、拾い上げて菜穂美に見せた。菜穂美は驚いた顔で「私新婚旅行のシドニーのビーチで、同じものを見たわ」と言った。砂浜は遠い太平洋の向こうから、碧が見たことのない南洋の情景と、菜穂美の美しい薄桃色の貝殻の記憶の断片をここまで運んできていた。
勃然と日没前の波打ち際に立ちずさんで、菜穂美は水平線の彼方の空を眺めた。東の空は鬱々と紺を深め、西の空には紫を射した雲底へ夕陽が傾き、その黄金の神々しい光が、海面を割るように這って、こちらに迫って来る。迫ってきた先で輝いているのは、碧の横顔だった。
その光に気を取られたかと思えば、また南の港湾地帯からは、貨物船や大型タンカーがおんおんと進行音を鳴らしながら港から一隻また一隻と進水してゆき、その鋼鉄の船体が向かう日没の沖の行方は果てがない。
静かな波のさざめきが近くまで寄せて返すとき、菜穂美の心にも何とない期待と不安とが、代わる代わる立ち代わりにやってきた。さざめきは寧ろ、自分の心が揺れる音のようにも感じられた。
波はまるで地を這う蛇のように、蛇腹な起伏と細かい鱗を持って緩慢にしなりながら、広大な海原を越えてこちらへやってくる。その砂浜から近いところは透明で、鮮明に真砂の底が見えるが、たった5メートルも先の水底に目を遣ると、そこは朽ちた暗渠のように形も色もくすんでいてよく分からない。
だが菜穂美は考えなしに靴とソックスを脱ぎ捨てて放り出した。菜穂美にとって、もうこのような危険くらい冒すことは歓びに近いものだった。指と爪の間に砂粒を噛みながら、ゆっくり水に浸かる。冷たい。水中に砂煙を立てながら裸足が真砂に埋まってゆく感覚が不思議で、彼女が一歩進むたびに水流が行く手を阻んだ。
菜穂美の無邪気はだんだん楽しくなって、碧にもこちらへ来るよう手招きした。碧は海に入ろうとして、波打ち際で靴下を脱ぐのに手間取っている。
菜穂美は、もしかしたら、自分がこのまま、海のずっと深くて光の届かないところまで潜って行けるような、理由のない感覚がしてくる。この理由のない感情はまるで海のようだ。時々荒々しく心を揺さぶり、時々優しく心を潤す海。