第十一章
檜垣菜穂美は、男遊びをするには既にかなり年増も踏み超えた、私立病院の副院長とC市医師会理事の二つの肩書を持つ麗人である。
C市内のアパレルの大企業の一族の長男に嫁いで、自身は市内の大病院に内科医として勤めてもう二十年余り経つ。菜穂美は近頃、成金や資産家の好むあの悪趣味な遊興や陰険な交際にあらかた飽きてしまって、もう後は、さながら何の波風の予感もない無起伏な人生を過ごすだけの己の運命を想って憂いていた。
といっても、憂いているだけで何の具体的な反抗の仕方も知らないで毎日を暮らしているあたりが、彼女の生まれた家柄の良さだけをけざやかに物語っている。
彼女の家系図を遡ると、明治維新後に華族となった武家や公家の名門の家名が錚々と連なる。高祖父には日露戦争で多大な武勲を上げた陸軍将校がいる。曽祖父には紫綬褒章を受けた国宝級の文化人がいる。母方の祖父は宮内庁侍従、父方の祖父母は共に国連職員を務めた。
菜穂美の父母は、在フランス大使館職員、在モナコ大使館職員等々欧州各国の上級大使館員を歴任し、邦へ帰って外務省本省に勤めたのち、霞が関の同輩らのつてで房総半島南東に堅い資産を得て、悠々自適な老後生活を送っていたが、菜穂美の母はつい一昨年、良人を残して七十半ばで早々と鬼籍に入った。
そして菜穂美自身は日本生まれモナコ育ちの、外交官夫婦の間に生まれた唯一の子女であるが、彼女が選んだ所謂『庶民的』な医者という職業は、卑しい庶民文化を嫌う根っからの貴族意識の血筋の両親を酷く落胆させた。
フランス留学中に出会った同じ日本人の現在の良人と、医学部を出たのち恋愛結婚した菜穂美は、二人の情事の間だけ、このような因襲的な家系や、世間の目から隔たれて、束の自由を許されたのだろう。
良人の手ほどきは殆ど完璧であった。世間一般の人妻が知るような夫への奉仕を覚えた菜穂美は、それ以外に自由のないために幸福だったが、この幸福は彼女を嘲笑うかのように夫婦の間に不妊の禍を齎し、いつまでも跡継ぎの現れないのにそればかりが求められる責め苦のような夫婦生活は、目まぐるしいしがらみの中で幾つもの蹉跌をきたしながら、もうずっと前に愛の営みとも疎遠になった。
土曜日の医師会の帰りに、菜穂美は行きつけの隣市の高級喫茶店へ向かった。とっくに梅雨は過ぎて、いよいよ夏の午後が、あのむさ苦しい東京湾と太平洋の間に突き出た房総半島の暑熱の慣習を運んでくる。
房総半島には殆ど高い山と呼べる山がない。ゆえにあらゆる太平洋の海洋性気候は、夏の熱波に揮発されると、陸の空気の濾過以外の一つの減退もなされずに、半島の海に近い中心市街の午後を、薄い潮の匂い、あの色んなものが溶けて混ざり合った腐った血のような匂いで侵してしまう。菜穂美はふと、もうそろそろ生理が始まる鋭い予感がする。もはや何の役目も意味もありはしない、ただ予感でしかない予感が。
夕方に差し掛かろうというときに、数キロ離れた湾岸から、低い地鳴りのような音がする。この街にもそれなりに長く、医局の異動命令にも無縁で、少なくとも二十五年は住み着いても未だに慣れないそれに驚いて、もし本当に恐ろしい地鳴りだったらと思い身構えても、それはやっぱり港湾の沖から響く貨物船の警笛か、或いはN空港へ着陸しようと高度を下げて市街上空を跨いでゆく旅客機の粛々とした推進音なのである。菜穂美の人生は、こんな風に危険などとは無縁な、もしくは周囲に起きる何かを危険と間違えるくらい常識的な平凡さだ。
菜穂美は日本人の両親を持つ生粋の日本人であるにも関わらず、上流階級層の夥しいモナコ公国に幼時を置き去りにしてきたためか、心なし誇り高く聳えた東洋人とは思えないほど美しい鼻梁を高々ともたげて、カフェの一番窓際の赤茶色の高級な背もたれの箱席に座り、その心もちたゆげな双眸は何処を見つめているかも分からぬままに、待ち合わせの友人が来るのを待っていた。待ち始めて既に二十分である。しかし菜穂美の気高さは他人に待たされることの辛さを知らなかった。彼女は他人を待たすことより、他人を待つことこそ最も精神的な優越だと思える貞淑で優雅な女だ。
やがて涼しげな軽装に身を包んだ貴婦人が、待ち合わせのカフェの外から窓ガラスの向こうに座っている菜穂美を見つけて目礼した。カフェの金色のドアベルが鳴らされ、黒帯の巻かれた白い日除けのキャペリンハットを脱いだ紀子は、また菜穂美の目前に来て、座席に座る前に簡単にカーテシーをした。こういう礼儀作法が、例え閑暇の折でも菜穂美に生活の油断を与えない。礼儀には抜かりなく鍛え抜かれた菜穂美の美しい背筋は、弦の張り詰めた弓のように反り、衰えなどつゆ知らなそうである。
菜穂美の向いに腰を落ち着けた紀子は、一昨夜菜穂美と地方名士の歴々が一堂に会する晩餐会で顔を合わせたばかりであるが、菜穂美に会って早々、
「菜穂美さんは相変わらずお綺麗ね」
と上品に揶揄った顔をした。菜穂美は彼女の常套句に悦んだ。晩餐会の席でも、一言一句同じことを他人行儀な顔で言われたのである。
「もう、よして。お昼までに同じことをもう四度も言われたのよ。これで五度目。紀子ちゃんは私を困らせるのが好きね」
「あら。困らせるだなんて。綺麗って言われて困るのは、きっと世界で菜穂美さんだけよ。私もそんなふうに困ってみたいわ」
「なら私は紀子ちゃんを困らせる役ね」
二人は顔を見合わせてくすくす笑った。
菜穂美はどこで誰と会おうと、必ずその容姿を褒められるほどには、四十半ばを過ぎても、その身に恐ろしい不老の美を未だに保っていた。それはまるで、成人前の処女のあの潔癖清純な美貌である。彼女と仲の良い紀子などは菜穂美の美貌を揶揄ってみるくらいには、もう嫉妬もわかないほどである。
「それにしても暑いわね。もう真夏みたい」
「ええ、日傘が無いとお外を歩くのも大変だわ」
だが夏に関わらず、菜穂美の美貌は季節を問わず外向きではない。人並み以上に容姿が優れているがために、若い頃から街中でその手の人間に何度と呼び止められて、芸能事務所に勧誘されるのを迷惑に思って、年中サングラスと帽子とマスクが手放せない。特に美魔女ブームなどという浅ましい嫉妬の具現化した流行が旋風のように吹き荒れた時期などは大変だった。
しかし菜穂美は、あんまり自分が老け込みそうにないから、自分は永遠に歳を取らない呪いをかけられて、周りの人間が老いさらばえて死んでいくのを見守らされる、不老不死の苦しみを強いられているかのようにも感じる。
だから菜穂美は自分の美貌を好こうと思ったことがない。さっきのような紀子の揶揄以外に、彼女の美貌を褒める人間には、菜穂美は渋々作り笑いで応じざるを得ない。
或いは彼女の不妊の禍が、本来生まれてくるはずだった彼女の胎児の魂を吸い上げて、まるで魔女のように怪しい美貌を保っているのかもしれないと考えると恐ろしい。
「……菜穂美さん、急に可笑しなことを言うけどお許しになって。私最近、自分がまだ女だと感じることが多くなってきたの。本当に可笑しいでしょう? 下の子が今年小学校に入学したんだけれど、あの子についた担任の体育教師にばかり目が行って、私自分が心配だわ。良人とももうずっとだしね」
「まあ……まさか紀子ちゃんが」
菜穂美はティーカップを受け皿に置いて目を丸くした。
菜穂美の友人の紀子は健康な二児の母である。歳は菜穂美の一回りも下で、三十四歳である。天然な笑顔が、未だに彼女の裡側の気が利かない幼さを感じさせるが一人前に気立てはよく、五年前にとある病院の乳がん検診で発見されたがんが、別病院の菜穂美が再診して実は誤診だと発覚して以来彼女を敬愛し、私用で会うとき以外は菜穂美を先生付けで敬称して、家族に病があればまず必ず菜穂美の助言を仰ぐほどだ。
紀子は市内の大手鉄工所の社長令嬢として産まれ、二十歳のとき東京の私立大学在学中に、親同士の取決めでバブルを乗り越えた大手不動産会社の次期社長と政略結婚した。
令嬢によくある世間知らずで、あまり頭の回りの良い女ではなかったが、己の人生というものを殆ど知らないまま生きてきたような紀子のことを、菜穂美は同じ社会階級の同じ不自由から生まれた種違いの妹のように溺愛していたので、二人で遊びに出かけることは多かったし、二人の間に秘密は要らず、気の置けない仲である。
しかしそんな紀子が、今になって男に悩んでいるというのを聞いて、菜穂美は彼女のような箱入りの令嬢にも、そんな淫婦の才能があることに驚いたが、医者である菜穂美はこういう重大な時ほど冷静な顔をして受け入れてしまうのがもう本能のようなものだったし、なんなら自分には今までそういう二度目の春が訪れなかったのを思い出せば、心なしか急に紀子が自分を置いてけぼりにしたように感じ、そうすると菜穂美の裡に現れてくるのは、きっと寂しいというべき不確かな感情である。
しかもつい先月、菜穂美は良人と寝室を別けたばかりである。良人は予告ない妻からの物寂しい突然の提案について、全ては種無しの自分のせいだとして深く考えるのを止め、寧ろよく彼女は今まで自分と寝てくれていたものだと悔恨し、喜んで受けた。受けた以上、良人は二度と妻と共寝しない責任を負う代わりに、妻を夜一人ぼっちにする喜びの幾つかを覚えた。
菜穂美の良人は、寝室と襖を挟んだ彼の狭い書斎に布団を敷いて寝るようになった。その良人が五十目前で急に肥り出した。今年の春から会社役員になって途端に現場でのストレスや運動が減り、逆に重役同士の宴席の付き合いがほぼ毎晩のように増え、糖質や脂質の酷い料理や、かつてないほど酒を嗜むようになったのである。二人が寝室を別けた理由の一つである。
良人が宴席から帰って風呂に入り、夜一時頃に妻に先んじて寝付くと、菜穂美は音を立てないように襖を少し開いて、隙間から良人の寝姿を覗いた。良人は風船のように膨らんだ腹を上下させて他人のようないびきをするようになり、菜穂美が寝入るには煩くなった。
そして閉じた襖の向こうで、良人は急に死んだようにいびきの音をしなくなる。すると五秒ほどでまた不自然に大きないびきをかき始める。それが毎晩繰り返されて、菜穂美は中々眠れない。寝室を別けたことをやはりあの人は怒っていて、私を眠りながら責めているんだわ、もしそうなら、ちゃんと起きているときに私を責めてほしいと菜穂美は考えた。
それでも少しずつ眠気は襲ってきて、菜穂美は夜の二時頃ようやく眠りにつくことが出来る。が、それまでの瞑想の間にも、医者の自分には、夫が恐らく睡眠時無呼吸症候群で、いつともなく死ぬ可能性だってあることが分かる。だが目を閉じて眠っている間は、自分は医者ではない。
菜穂美の目はいつも払暁を待たずに覚める。そしてまた、隣の部屋から、良人の激しいいびき声が聞こえてくる……。
「菜穂美さん、それで私、折り入って頼み事があるの。実は私ね、今度その手の人と会うことにしたの」
「まあ、そんな。大胆すぎない?」
「そう。私も自分でよく分からないから、目を丸くしたわ。朝起きたら携帯に知らないメールが有って、その前の晩の私がネットで勝手に全部決めていたのね。あの夜は随分酔ってたから……最近旦那の女遊びが激しいの」
「でも会うって、誰に会うの」
「さあ。会員制のそういうサイトだから、相手は身分を隠してるどころか当然偽名だろうし、とはいって今更行かないのもね、酔っていたとしても、もう一人の自分がそう決めたのならもう止めはしないわ。日頃の不満ってやつが私なんかにも溜まってたなんて信じられないけれど……。だから菜穂美さん、もし良かったら私の引率でもしてくれない? 無茶なお願いだって分かってるわ。でもやっぱり、一人で行くのは少し怖いの。私ったら自分勝手ね」
紀子は少し暗い顔をした。
菜穂美はそんな紀子を見ても別に気の毒とは思わなかったが、彼女の不遇な夫婦生活の身の上を自分の最近のそれと重ねてしまうと、自分にもそれに応じる当然の義務と権利があるような気がして、彼女の提案に二つ返事で答えた。
「いいわ。それくらいのことなら。任せておいて。もしかしたら私も、行った先で変な間違いをしちゃったりしてね。全然平気。大丈夫よ。学生時代にし忘れたお遊びくらいに思っていれば」
そうして菜穂美と紀子は、改めてお互いの顔を信頼して見つめ合い、今から初めて味の知らぬ煙草を二人で試してみようと企む少女らのように、若々しい好奇心の炎を胸に揺らめかせて微笑み合った。 しかもつい先月、菜穂美は良人と寝室を別けたばかりである。良人は予告ない妻からの物寂しい突然の提案について、全ては種無しの自分のせいだとして深く考えるのを止め、寧ろよく彼女は今まで自分と寝てくれていたものだと悔恨し、喜んで受けた。受けた以上、良人は二度と妻と共寝しない責任を負う代わりに、妻を夜一人ぼっちにする喜びの幾つかを覚えた。
菜穂美の良人は、寝室と襖を挟んだ彼の狭い書斎に布団を敷いて寝るようになった。その良人が五十目前で急に肥り出した。今年の春から会社役員になって途端に現場でのストレスや運動が減り、逆に重役同士の宴席の付き合いがほぼ毎晩のように増え、糖質や脂質の酷い料理や、かつてないほど酒を嗜むようになったのである。二人が寝室を別けた理由の一つである。
良人が宴席から帰って風呂に入り、夜一時頃に妻に先んじて寝付くと、菜穂美は音を立てないように襖を少し開いて、隙間から良人の寝姿を覗いた。良人は風船のように膨らんだ腹を上下させて他人のようないびきをするようになり、菜穂美が寝入るには煩くなった。
そして閉じた襖の向こうで、良人は急に死んだようにいびきの音をしなくなる。すると五秒ほどでまた不自然に大きないびきをかき始める。それが毎晩繰り返されて、菜穂美は中々眠れない。寝室を別けたことをやはりあの人は怒っていて、私を眠りながら責めているんだわ、もしそうなら、ちゃんと起きているときに私を責めてほしいと菜穂美は考えた。
それでも少しずつ眠気は襲ってきて、菜穂美は夜の二時頃ようやく眠りにつくことが出来る。が、それまでの瞑想の間にも、医者の自分には、夫が恐らく睡眠時無呼吸症候群で、いつともなく死ぬ可能性だってあることが分かる。だが目を閉じて眠っている間は、自分は医者ではない。
菜穂美の目はいつも払暁を待たずに覚める。そしてまた、隣の部屋から、良人の激しいいびき声が聞こえてくる……。
「菜穂美さん、それで私、折り入って頼み事があるの。実は私ね、今度その手の人と会うことにしたの」
「まあ、そんな。大胆すぎない?」
「そう。私も自分でよく分からないから、目を丸くしたわ。朝起きたら携帯に知らないメールが有って、その前の晩の私がネットで勝手に全部決めていたのね。あの夜は随分酔ってたから……最近旦那の女遊びが激しいの」
「でも会うって、誰に会うの」
「さあ。会員制のそういうサイトだから、相手は身分を隠してるどころか当然偽名だろうし、とはいって今更行かないのもね、酔っていたとしても、もう一人の自分がそう決めたのならもう止めはしないわ。日頃の不満ってやつが私なんかにも溜まってたなんて信じられないけれど……。だから菜穂美さん、もし良かったら私の引率でもしてくれない? 無茶なお願いだって分かってるわ。でもやっぱり、一人で行くのは少し怖いの。私ったら自分勝手ね」
紀子は少し暗い顔をした。
菜穂美はそんな紀子を見ても別に気の毒とは思わなかったが、彼女の不遇な夫婦生活の身の上を自分の最近のそれと重ねてしまうと、自分にもそれに応じる当然の義務と権利があるような気がして、彼女の提案に二つ返事で答えた。
「いいわ。それくらいのことなら。任せておいて。もしかしたら私も、行った先で変な間違いをしちゃったりしてね。全然平気。大丈夫よ。学生時代にし忘れたお遊びくらいに思っていれば」
そうして菜穂美と紀子は、改めてお互いの顔を信頼して見つめ合い、今から初めて味の知らぬ煙草を二人で試してみようと企む少女らのように、若々しい好奇心の炎を胸に揺らめかせて微笑み合った。