第一章
佐藤碧という人間は、ぞんざいに言って、人生で一度も誰かに金の無心をしたことが無いことと、そんな無欲恬淡さと反目するくらい稀有な美貌くらいが、数少ない取柄のような男である。
中でもとりわけ、彼の色んな感覚が純黒に塗り染めた双眸は、美男というより寧ろ美女がよく備えるように、優しく冷淡で、人を欺く素質に長け、人の嫉妬を無意識に集め、その優雅さといえば限りが無かったが、彼の並みならぬ口数の少なさや人間関係への疎さもたすけて、この美しい両揃いの睫毛のまばたきの一つ一つは、それを見た人間を無性に怯えさせた。
大学を出てから一度目の冬が来たので、碧は二十三になる。無口な背丈は175センチを上回るくらいで、痩せ気味な身体に、若い樹木の根のように這った柔軟な筋肉が、かつての陸上部の記録をまだ残しているが、もっとも碧はもう五年以上まともにスポーツと縁ないので、この彼の肉体美は、日を重ねるごとますます無口になり、あの運動の齎す息切れの快感や太腿に乳酸の充ちる感動を、もう忘れてしまった。
無言の美貌に宿る、あの畏怖のような近寄りがたさは、彼に取り入る隙さえ与えなかった。美貌とは無言でそれを持たない者を脅かすものである。勿論我々はそれから逃れる術を知っているが、人間は誰しも自分が醜く劣っていると思い知らされることにただならない恐怖を感じるものである。
それはしかし、自傷的に増殖し頽唐する癌細胞のように、碧が眠っているときも、歩いているときも、悩んでいるときも、そしてトイレで瞑想しているときさえも、本人がそれに気付かぬ限りは、彼に付きまとう呪いのように思われてならない。検査をして治療する一連の方法が確立されていない不治の病、それは美貌である。
碧は天鵞絨色の手帳を握り、精緻な鼻筋の根元に乾いた唇をきつく頑なに結んだ。これで用事は終わった。後はもう帰るだけである。外の世界は懲り懲りである。
碧は、今彼がいる待合席の、保健福祉センターの一階全体の、無色透明な空気が好きになれない。碧の前を通り過ぎてゆく人々の背中は、いつもすすけているかもしくは気がたっていて、見ている側も安らがない感じがする。そう感じると自分は神経質すぎる気がして、碧は余計気が悪い。
ここは社会的弱者の集会所である。またの名を健康福祉課という。ここに集う人間は、好き好んで集ったわけではなく、みな何かしらの問題を抱えて、救いを求めて駆け込んだに過ぎない。
碧が障害者手帳を受け取ったのもここである。部署を隔ててその隣には高齢福祉課がある。そこには老人のほかに、就労移行中の若者がいたりする。老人ほど高慢で、若者ほど臆病である。若者はみな何かに怯えていて、恫喝的な口調の老人と対比すると余計惨たらしい。
それなのに窓口を隔てた向こう側は、全く別の世界が広がっているように碧には感じられる。利用者の居るスペースより遥かに広い公務員の仕事場、並び過ぎたデスクの白電話の鳴りやまぬ響めき、窓口公務員たちの無表情なあの激励、利用者たちを同じ人間と思っていない、言葉の通じない硝子の玩具を優しく扱うような態度……。
こちらと彼らを隔てている一列の長机と窓口のプラスチックの透明な仕切りが、刑務所の面会室の透明な壁のように感じられると、碧は打ちのめされた。自分はどうして無罪なのに、こんな机や仕切りの一つや二つで区別されて、『こちら側』にいなければならないのだろう?
信じたくなくても碧の手に握られているものには確かに、しっかり『障害者手帳』と、安物の金字が刻まれているのである。
碧は手帳を開いた。でかでかと大袈裟に捺された、赤い四角の市印の下に記された手帳の正式名称は、『精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第45条の保健福祉手帳』とある。
これを現代の印籠などと揶揄する人間もよくいる。が、印籠というのは全く正しい表現ではない。これは手帳の形をした無実の罪人用の枷である。
これを持っているか否かで、我々は特権的か非特権的かというのではなくて、寧ろ罪人的か非罪人的かに類別されるのである。我々は少なくとも、この枷をいざという時ほど他人に見せつけることができない。しかも老公がこれを持っている確率はかなり低い。何故なら枷を受けた不自由な罪人は、多くの場合老いる前に自発的にこれを外すことができるが、そうでなければ自発的に死を選んでしまうからである。自分がそのどちらになるだろうか考えただけで、碧は恐ろしい。
この行政の枷には碧の顔写真、氏名、住所、生年月日、等級、手帳番号が前科のように刻印されている。碧は眉をひきしめて苦い顔をした。状況もまだいまいちにそこに投げ込まれた人間は多くの場合、こういう何とも言えないむつかしい顔をする以外に術がない。
ついさっきだって、福祉健康課の待合席で、膝の上に読みかけの小説を閉ざして、どこか遠い眼差しで手帳を眺めていたのを、通りすがりの生活保護受給者らしきシングルマザーの幼い金髪の連れ子に笑われて、「死ね、障害者」と慎みない大声で罵られても、碧はもう気にも留めなかったが、そっと手帳を閉じて保健福祉センターの玄関を出て、まだ昨夜の雨で濡れている薄灰色のコンクリートの歩道を踏みしめると、碧はさてこれから僕はどうしようかと考えた。