30、悲劇の王妃
その夜。サーはアクネの部屋を訪れた。最近は、ロンと会うよりもアクネと会う時間が多い。
「アクネ。どうだ? 調子は」
「ええ……今日はとても良い気分ですわ」
「そうか。そういえば、顔色が良さそうだな。今日は散歩もしたと聞いた。その分だと、どんどん回復するな」
「ええ。今日は新しく、気の合う友が出来ましたわ」
アクネの言葉に、サーは驚いた。
塞ぎがちだったアクネに、突然友達が出来たというのだから、無理もない。
「ほう、誰だい?」
「側室候補生のフローラという娘です」
「フローラ? ああ、確かゼムン将軍の……」
「知ってらして?」
「なんとなくはね……アクネとも気が合うのか。それはとても良い子なんだろうね」
「ええ、とても良い子でしたわ。彼女のおかげで、久しぶりに笑顔になることが出来ました」
「そうか……」
サーは、フローラの事を思い出していた。
ロンともアクネとも気が合うならば、フローラが二人の仲を繋げる、大切な役割を担えるかもしれないと思ったのである。
「あなた。お願いがあるの……」
突然、アクネがそう言った。
「なんだい?」
「私が死んだら、フローラを妃にしてくださいな」
アクネの申し出に、サーは困惑した。
「な、何を言っている? おまえが死ぬなどと……」
「隠さなくてもわかっていますわ。私は悪魔に魂を売ったのです。その呪いは、簡単には解けません。それに私もずっと塞ぎ込んでいて、弱くなっているのがわかります……」
「馬鹿を言うな。王家の者が、簡単に死んでは困る。変なことを言うな!」
言い聞かせるように、サーがアクネを見つめる。アクネもまた、悲しそうにサーを見つめ返した。
「でもあなた。いずれ時は来ます。その前に、どうか私に約束してください。ロンではなく、フローラを妃に……」
「今決めることではなかろう」
「いいえ。今決めてください」
「アクネ……」
「お願いです。フローラを……どうか……」
その時、酸欠状態になるように、アクネが咳き込んだ。
「アクネ。今、水を……」
「その前に、約束してください。あなた……」
そんなアクネの必死な訴えに、サーは小さな溜め息をついた。
「……わかった。だが、今は約束出来ない。考えておこう……それより、そう切羽詰めるな。また苦しくなるぞ」
サーはアクネを支えながら水を飲ませる。
アクネの切実な瞳に、サーは困惑した。
次の日。アクネはフローラとの待ち合わせにより、花園へと向かった。
しかし、まだフローラの姿はない。アクネはそばにあったベンチに座り、フローラを待つことにした。
あまり人の寄りつかないその場所は、静かな時間が流れている。
しばらくすると、塀の向こうから話し声が聞こえた。通り掛かった使用人の声である。
「ああ、重い。なんでこんなに重い荷物を、女の私たちが運ばなきゃならないのかねえ」
「嫌ねえ。毎日そんなこと言って」
「ロン様みたいに、空を飛べたら楽なのにねえ」
「まあ。ロン様みたいに飛べたって、重いものは重いでしょうに」
「それもそうね」
「ちょっと、ここいらで一休みしましょう。肩が痛くて仕方がない」
女性の使用人が二人で、荷物を運びながら歩いているらしいが、ちょうど近くで一休みを始めた。
塀の向こうなので気付かれないはずだが、アクネは身を縮める。
「でもロン様、ご順調みたいね」
「お世継ぎ? これで国も安泰ね。男の子がいいわね」
「あら、女の子でもいいじゃない。ロン様は健康だから、きっとたくさん産んでくださるわよ」
「じゃあ、いっそ双子ね」
「嫌ねえ。欲張りなんだから」
使用人たちが、豪快に笑う声が聞こえる。
「でも、アクネ様はどうしておられるのかしら? この間お倒れになってから、一時は回復したと聞いたけれど、あまりお見かけしないわね」
「ストレス性だから、あまり心配はいらないようだけれど、まだ塞ぎ込んでおられるみたいよ。そりゃあそうよね……ご自分はお子を産めない体なんだもの」
「じゃあ、ロン様がお子を産んだら、ロン様がお妃様になるのかしら?」
「まさか。一夫多妻じゃないのよ。王家の方は、離婚なんてしたくても出来ないのよ」
塀の向こうの声を聞きながら、アクネは唇を噛んだ。
今すぐにでもここから去りたかったが、会話の続きを聞きたいという気持ちが留める。
「でも塞ぎ込んでるままじゃ、ロン様が事実上のお妃様になるのは時間の問題ね。アクネ様は、最近お体がめっきり弱くなっていると、噂で聞いたわ。でも私は、ロン様派だから大歓迎だけど」
「そりゃあみんな、ロン様のことが好きでしょうよ。あんなに砕けてお優しい方はいないもの。国を救ってくださった恩人だしね」
「そうね。ロン様、バンザイ! そろそろ行きましょう」
「ええ。ロン様、バンザイ!」
そう言って、声は遠のいていった。
アクネが沈んでいると、フローラが走って来た。
「ごめんなさい! お妃様を待たせるなんて……どうかお許しください!」
深々と頭を下げて、フローラが言う。
アクネは、力なく微笑んだ。
「……いいのよ。お仕事?」
「いえ。今日は作法の時間が長引いてしまって……」
「あなたに作法の勉強なんて、必要ないでしょうに」
「いいえ。王様の側室となれば、ある程度の教養は身につけませんと。お妃様のように」
「フローラ!」
突然、アクネがフローラの手を握った。
「お妃様……?」
「フローラ。私が死んだら、あなたが代わりに妃になってちょうだい!」
真剣な面持ちで、アクネが言った。
あまりに突然の申し出に、フローラも目を見開く。
「な、なにをおっしゃいます、お妃様。死ぬだなんて……!」
「……皆が噂しているのを知っているわ。確かに私は前の事件以来、体が弱くなったのよ。悪魔に魂を売ったせいね……自業自得だけれど、私は死んだ後も、あの子の天下にさせるつもりはないわ」
アクネの中に、再び闘志が湧いていた。
「お妃様……」
「あの子は最初から、私にない物をたくさん持っていたわ……私がどうやっても振り向かせることが出来なかった前王を、あの子はいとも簡単に取り入った。私の夫までも……」
独り言のように続けたアクネの背中をさすりながら、フローラは頷く。
アクネは言葉を続けた。
「ロンは悪い魔女によく似ているわ。サーは私を愛してくれていないわけじゃないのはわかっているけれど、最初からロンに気にかけていたわ。それが私は許せなかった……私だけを見て欲しかった……前の一件で懲りたけれど、やはり私は……」
「お妃様。どうか安心してください。私も同感です。でも、どうか死ぬなんて考えないでください。一緒に今後のことを考えましょう」
元気づけるように、フローラはそう言った。だが、それはアクネを宥めるだけの社交辞令ではない。
フローラはロンが好きではあったが、高貴の出である自分より先に、ロンのような何もない少女が王の側室になり、そんなロンに自分が仕えることは嫌だったのだ。
「私には、時間がないわ……」
アクネが言った。
「お妃様……?」
「ねえ、約束して。私が死んだら、絶対にロンを妃にさせないで。あなたがなってちょうだい」
そう言うと、アクネはフローラに指輪を差し出す。
「これは……?」
「サーとの婚約指輪です。もうずいぶん昔に頂いた物です。これをあなたにあげます。時期妃の証に……」
「そんな大切な物、頂けません!」
「遠慮はいらないわ。だけど誓ってちょうだい。あなたがサーに尽くし、妃になると……」
真剣な様子のアクネに断れるはずもないが、フローラにとっても、その申し出は願ってもない話である。
「……お約束します」
そう言ったフローラに、アクネはニッコリと微笑んだ。
「あなたなら安心だわ。じゃあ、お願いね」
「お妃様?」
アクネはそのまま、花園を去っていった。
残されたフローラは、アクネからの指輪をはめ、しばらくそれを眺めていた。
その後、アクネが部屋に戻ろうとすると、庭で本を読んでいるロンに出会った。
ロンはすぐにアクネに気づき、頭を下げる。
「アクネ様。お元気そうでなによりです」
「……あなたもね。どうやら順調のようね」
二人が顔を合わすのは、ずいぶん久しぶりだ。
「はい。おかげさまで……」
周りに人の気配はなく、一瞬、二人に張りつめた空気が流れる。
「おまえは、私が死ぬのを待っているのね」
突然、アクネがそう言った。
ロンは即座に否定する。
「何をおっしゃいますか! とんでもございません!」
「では、もし私が死んだ後、あなたは妃の座を狙っていないの?」
「狙ってなどいません」
即答したロンに、アクネは口を結ぶ。
「ずいぶんな嘘を吐くのね」
「本当です。私は今の暮らしでさえ、合ってはいないような気がしています……けれど、私もサー様が好きです。もし、サー様が選んでくださるなら……」
「サーがあなたを選ぶ? お笑いね」
「アクネ様……」
アクネのロンへの態度は、今までと変わらぬ、冷たいものだった。
「謙遜したフリをしても無駄よ。今の暮らしも合ってないようだと、よく言えたものね」
「それは本当です。私は田舎暮らしのほうが好きですし……」
「あら。初耳ね」
「最初から言ってます。本当です」
「本当に?」
「はい。お城では優雅な生活ですが、掃除も何もかもやってもらう生活は、私には合っていないとは思っています」
ロンが正直に言った。
相変わらずの冷たい目を向け、アクネはロンを見つめる。
「ならば……ならば、望む生活を手に入れるが良い。城も何も知らぬ娘に戻るが良い。サーも子供も、自分の身の上さえ忘れてしまえば良い。私はおまえさえ消えてくれれば、何度だって悪になれるわ」
「アクネ様? 何を……」
その時、一瞬、大きなエネルギーがその場を包んだ。その威力は、城の強力なバリアさえ歪ませたほどだ。
そして次の瞬間、そこにロンの姿はなく、アクネはその場に倒れ込んでいた。