止まった時間と満たされない猫
國分功一郎先生の「暇と退屈の倫理学」を読んだことから、インスピレーションを受けて書きました。
市場で魚を盗んだ黒い猫が街を抜ける。
商人から追い回されて、レンガの家が所狭しと並んでる街をひゅるりひゅるり。
ピエロのおじさんが持って歩いてる風船に飛び乗って、そのまま風船を手で掴んで空に飛んで逃げる。
夕陽が照らすオレンジの屋根、大理石、青い海のコントラスト、見下ろす彼の目に映るのが地中海沿岸のこの街の全貌だった。
街に見惚れているとパンッと大きな破裂音がした。
やんちゃなカラスに風船をつつかれて、破られてしまったのだ。
まっさかさまに落ちてしまう猫。でも猫の身体能力を侮ってはならない。
彼は簡単に塔のさきっちょに飛び移った。この街を象徴する、のっぽな時計塔だ。
塔は大きな振り子時計になってるから、がらん、がらんと常に音を立て続けている。
音が振動となって猫の小さい体に伝わってくる。それが心地よかったのか、彼はニャーーと大きな声で鳴いた。
その瞬間、振り子の音が止まった。シーーンとしていた。
一切振動が伝わってこないのだ。先っちょからおりて時計のとこ路まで降りてきて、見ると時計の針は止まっていた。
おかしいのはそれだけではない、一切音がきこえてこないのだ。
時計塔以外からも。不思議に思ってスルスル猫は降りてくる。時計塔の前を歩いている人が歩いている姿のまま固まっていた。
人だけではない。スズメも宙を羽ばたいたまま固まっていた。
ようやく猫は理解した。時間が止まっているのだと。
突然のことで猫も驚いたが、この猫にとってはこれは都合が良かった。
ご飯が盗み放題だからだ。市場で売っている切り立ての生ハムをごっそり口に咥えて飛んで逃げる。
いつもの癖で逃げたはいいものの誰も追いかけてこない。
何かこれはこれで違う感じはしたが、とりあえず市場の食べ物を端から端までお腹いっぱい食べてみようと思った。
チョコレートを食べて、パンを食べて、ソーセージを食べたおわっところで、限界が来てしまった。
案外自分の腹はすぐ膨れるのだと思った。
食欲が満たされたら次は恋愛だった。
憧れの白猫(あの娘)に会いにいくのだ。あの娘は野良猫の彼と違って飼い猫だから、常に3番通りの奥の、立派なお屋敷にいる。
だから一直線に目指した。
いつもなら恥ずかしくて、顔を合わせることもできないのに、今日はすぐに会えた。
憧れの、毛並みが綺麗な真っ白のあの子だった。
当然白猫も固まって動かなかった。
話しかけても返事をくれないのは少し寂しかったが、こんな間近で彼女を眺めることはできなかったから、本当に嬉しかった。
憧れの相手にこんなに近づけることが嬉しくて、猫は思わず赤面してしまった。恥ずかしくなった猫は、そのままお屋敷から逃げ出して、いつもの路地裏に帰ってきた。
帰ってきたらだんだん、眠くなってきて、そのままお屋敷で寝てしまった。
目を覚ました。
今日はずいぶん遅くまで寝てしまったと思ったが、空は茜色のまんまだった。
このノスタルジックなオレンジ色の空がずっと変わらないと思うと、それはむしろ猫にとっては不気味に感じられた。
むしゃくしゃした猫は、また市場に戻って、今度はブドウとパンを盗み食いした。
いつもなら人間の目を盗む駆け引きをして、やっとの思いでありつけるご馳走なのにあっけなく取れてしまって、なんだかつまらなかった。
そうだ、こんな時こそ憧れの白猫ちゃんに会いに行こう。きっとドキドキできるはずだ。そう思って昨日と同じくお屋敷に向かった。
美しい毛並みの彼女をみても今度は全然ドキドキしなかった。
むしゃくしゃして勝手に彼女にキスをしてしまった。
僕は最低だと思って黒猫はまたお屋敷を逃げ出してしまった。憂鬱な気分を忘れたくて、彼はまた目を閉じた。
目を開けても、まだ夕暮れ空のままだった。
あの時計塔に戻れば時間が取り戻せるのではないかと思って、一目散に時計塔を目指した。
何度も何度も時計の針を動かそうとツメで引っ掻いてみたが、ついに時がもどることはなかった。諦めて塔から降りてきた。
市場に並んでるご馳走も全然美味しそうに見えない。
そうだ新鮮なご馳走をとりに行こう。
猫は今度は港に向かった。
猫は港の一番奥に魚を下ろす場所があるのを、いく前からその鋭い嗅覚で知っていた。
いつもは漁師に追い払われて入れないその場所には、とれたてのイワシが飛び跳ねたまま浮かんでいた。
新鮮なそれを口いっぱいに放り込んだ。頬が落ちるほど美味しかった。
でも十匹くらいたべたところで、黒猫の小さな胃はもう満足してしまった。
8匹めくらいからはむしろ脂の乗ってるその白い身が、重たく感じた。
いつもはキラキラした青い水面を眺めては、この中にはどれだけの魚が泳いでるんだろうと胸を輝かせていたが、今はただの水辺にしか見えなかった。
今は白猫ちゃんに会いたくなくて、そのままいつもの裏路地〔ナワバリ〕で寝た。
10回目の起床だった。もう流石にこの夕暮れが変わらないことに諦めはついていて、下手な悩み方をすることはなくなっていたが暇だった。
美味しいものはいっぱい食べたし、することも何にもない。
何かいいものないかにゃあなんて考えながら、空でもみて歩いてると、3番通りに来てしまっていた。キスをした罪悪感から避けていた場所だった。
あれからずっと白猫ちゃんを避けるように生活していたが、今は向き合わなけばならない気がした。そうしてお屋敷の生えそろえられた芝生に、足をふみいれた。
いつもと同じ、お屋敷の庭の、パンジーの花が咲いているあたりに彼女は立っていた。にゃあと話しかけてもやっぱり返事はない。
そもそも近づくのが恥ずかしかったから、返事をもらったことなんて時が止まるまでだって数回ほどしかないのを思い出した。
元々これは一方的な感情なんだ、だからキスだって一方的にしていいんだ。そう言い聞かせると、なぜだか鼓動が止まらなくなってドキドキして顔が熱くなってきた。
彼女の白くて長いまつ毛に夢中になっていた。衝動的にまたキスをしてしまった。今度は舌まで入れてしまった。何度も何度も彼女の舌を舐めた。
甘い香りだった。
10分くらいずっと彼女の唇を求め続けた。
そして確信した。愛なんて一方的な押し付けていいんだって。
こんな甘い香りがするんだから。
あたたかくてふわふわした肌触りと共に目を覚ます。
白い綺麗な毛並みが視界に映る。
あの後静止している彼女に寄り添うようにして寝てしまったんだ。
それでも空はまだ茜色。
11回目の起床だった。初めて恋猫〔コイビト〕ができたような気持ちだった。
一方的だけど。
相手が食べることはないなんてわかっていたけど、港から彼女の大好きなイワシを3匹ほど盗んで持ってきたりもした。
好きな人への贈り物がイワシだけなんてのも味気なかったから、今度は市場から薔薇の花束を盗んできた。
薔薇の棘が口にささって口が裂けたけども、傷口からでる血も流れずにそのまま唇にとどまっていた。
プニプニしている癖に血の味がするのは気持ちが悪かったから、そのまま舐めとった。
でも、痛い思いをして尽くせば尽くすほど彼女を愛しているんだなあと感じることができて、心は温かかった。
ひとしきり動いたので、自分の中で『夜』だと思って、彼女に寄り添って寝ようとした。
でもなんだか今は彼女の温もりがふさふさの白い毛越しに肌に伝わってくるのを感じて、どうにもソワソワしてしまったから、ちょっと離れたところで寝ようとした。
『彼女に抱きついてしまったらどうなるんだろう?』
『きっと、好きな人とするのは気持ちがいいだろうなあ』
『ダメだ、動かない相手にそんなことをするなんて暴力じゃないか』
『でもキスはしたんだろう?』
頭の中を声が巡る。
『恋人なんだからしたって当然だよね?』
そんな頭の中の甘い悪魔の囁きに従うように、白猫ちゃんに歩み寄ってしまう。
今度はいきなり彼女の口の中に舌を入れた。甘い味がして興奮した。
そのまま彼女の白い毛並みをじっくり撫でて、その熱が肉球に伝わって、我慢ができなくなって、止まっていた彼女をむりやり押し倒してしまった。
その日、いやその夕、黒猫は彼女を貪ってしまった。
30回目の夕方が来た。
あれから彼女と愛し合うのは毎晩(ずっと夕方だけど)のルーティンになってしまった。毎日違うご飯を食べて、好きな人と愛し合えて、僕は何不自由なく生きていた。
でも何か物足りなかった。
今まではイワシなんて贅沢品、よっぽどのチャンスを掻い潜って、人間からたくさん逃げてやっとこさ手に入るものだった。
それが簡単に手に入ってしまうと、すごく味気ないものに感じた。確かに今までよりも快適に過ごせてるはずだ。
路地裏の冷たいレンガの床で寝ているより心地よい芝生の中でねころがる方がずっと寝心地が良かった。
そして何より好きだった白猫ちゃんを恋人にできたはずなのに、何の苦労もなく手に入れてしまったものだからか、案外こんなもんかと思ってしまった。彼女がいる日常に慣れて、退屈してしまっていたのだ。
そうして、その退屈がどうしても紛らしたくて、いつもの愛し合い方ではどうも満たされない感じがした。
だから今夕は彼女の口を使ってもらった。
いいや、正確に言うと無理やり口を犯した。
普通の猫なら嫌がる行為を彼女は受け入れる。
当然それは時が静止しているからなのだが、黒猫はその時彼女が『僕のことを好きだから受け入れてくれている』と勘違いしてしまった。
100回目の退屈な夕方が来た。
あれから彼女との行為は過激なものになっていった。
それすらも普通に感じられるようになっていった。
だって愛し合ってるのだから。
退屈はいつまでも続く。
こんなに好きなものばっかり食べれる生活をしているのに。
こんなに彼女と愛し合うことができているのに。
こんなに芝生の上で寝るのは気持ちいいのに。
何でも自由にできるはずなのに、ご飯と、恋愛と、寝ること、その3つしかできてないのが、もどかしかった。
時が止まる前、商人の風船に飛び乗って、そのまま飛ばんでいって、そこから空を見ている方が、はるかに自由なく流されているのに、自由だと感じたのだ。
カラスが黒猫をいじめて、塔の上に突き落とすなんて嫌なことはもうないのだ。カラスは時計塔の上空で留まったまま、ずっと固まっているのだから。
そう考えると無性に虚しくなって、また時計塔の上でにゃーーーと叫んだ。当然何の反応もなかった。
今日もまた時計の針を動かそうとして何回も引っ掻いたが、頑なに動いてはくれなかった。無性に寂しくなって、固まった彼女にその寂しさを埋めてもらおうとしてる自分自身が嫌になって、イライラが抑えられなかった。
だからお屋敷に戻ってすぐに彼女の腹をつめで何度も引っ掻いた。
彼女の綺麗な白いおなかが赤く染まる。
血飛沫は飛び出すこともなく彼女を引っ掻いた跡でずっと留まっている。
それがどうしたわけかすごく美しかった。
抱き合って愛し合うより彼女の傷口・血を見ている方が興奮してしまった。
そんな自分が猫をくらう化け物になってしまったみたいで、嫌悪感で頭を抱えたが、でもこれは彼女との合意のもとで行ったプレイなんだと言い聞かせると、割に普通なことに思えてきた。
猫カップルだってそれぞれの愛し方があるのだから。
300回目の夕方が来た。
あの時みたいに彼女を引っ掻くことは何度もはなかった。
彼女やっぱり愛し合っている人を傷つけるのは心が痛く感じる時もあった。
そんな時はお腹の血飛沫を見るのが嫌で、それをなめとったりもした。
今日も、ルーチンワークのようにとりあえずの気持ちで何となく時計の針を引っ掻いて動かそうとした。
そうしたら、なぜか頑なに動かなかった時計の針が、急に動き出した。
針にぶつかったはずの腕がそのままスルッと抜けた時、拍子抜けして猫は転けそうになった。
瞬間突然街がザワザワしだした。
突然の雑音に耐えられなくなって耳を塞いだらそのまま時計塔の下に落ちてしまった。何人もの人が驚いて彼を見つめる。
その視線に慣れてなくてびっくりして彼は飛び出してしまった。
偶然飛び出した路地でバッタリ、時が止まる前に盗んだ魚の店の商人にあった。
黒猫は300回の夕方で美味しいものを食べてどっぷり太っていたから、咄嗟に逃げてもすぐに承認に追いつかれて、何度も棒で叩かれた。
痛くて惨めだった。
路地裏の冷たいレンガの床で目を覚ました次の朝、お腹が減って何度も食べ物を盗もうとしたが、身体は鈍っていて、何一つ食べれやしなかった。
ひもじそうにしていると通りかかった、優しそうな貧相な見た目のおじいさんが、傷みかけのパンの耳を分けてくれたが、不味くて食べれやしなかった。
以前なら喜んで貪っていたのに。とぼとぼと路地を歩いていると3番通りに行き着いた。
そうだ、ついに彼女と喋れるようになったんだと思って一目散にお屋敷を目指した。
お腹を引っ掻かれて痛そうにしている彼女がいた。
欲に負けて申し訳ないことをしてしまった。
でもそれは黙ってれば良いことだから、
「おーーーい!」
と猫語で話しかける。
怪訝そうな顔で彼女は黒猫を見つめる。
「どうしてそんな顔するんだい?僕たち恋人じゃないか?」
と言うと余計怪しんだ顔で白猫は黒猫を睨んだ。
「どうして!君は僕を愛してくれていたのに、口で受け止めてさえしてくれたのに!」
黒猫が嘆くと、白猫は気持ち悪さと苛立ちに耐えきれなくなって黒猫を思いっきり引っ掻いた。
黒猫が呆然としていると、お屋敷の主人がやってきて丸々と太った黒猫の、余りに余った皮をひょいとつまんでお屋敷の外につまみ出した。
黒猫はすこぶる惨めな気持ちになって、思わず時計塔の方まで走っていた。
「どうかまた時を止めてくれ!」と猫語で叫びながら。
そうして、塔に爪を立てて、時計のところまで登り詰めて、時計の針を衝動的に引っ掻いてしまった。
瞬間、音が消えた。
自分でやっておきながら、背中から出る冷や汗が止まらなかった。
また、時が止まってしまったのだ。
今度また動き出す保証なんてどこにもないのに。
手前味噌ですが、意見やアドバイスをもらえると嬉しいので、この短編を書いたときに考えていたことを書いていきます。
とりあえず、なんかかけないかな~と文字を適当に書いていると、
クロアチアのドゥブロブニク(魔女の宅急便の舞台)の情景が脳裏に浮かんできて、ジジみたいな黒猫を主人公に冒険描けたら綺麗だなあと思ったので書き出しはそこからでした。
それで時計台が浮かんだ時に、時間停止ものにしたら面白いテーマが書けるんじゃないかと思っていろいろ考えを膨らませました。
それで、テーマは、叶えるのが難しかった三大欲求がみたされたとき、主人公は暇に苦しむ、余計自由を感じなくなる。外的に迫られて行った行動によって見たものノほうが案外生き生きしてて自由を感じるというものにして書いていくことにしました。
國分功一郎先生の「暇と退屈の倫理学」を読んだことからインスピレーションを受けました。
欲求に忠実な存在として、猫が主人公に最適だと思いました。おっさんが主人公ならキスシーンとかちょっとしんどいものがありますし。
また、猫というのは狩猟本能が強い動物だと思っています。
よって、ご馳走を盗むために市場を飛び回るのも、頑張って恋愛をして駆け引きをするのも、三大欲求を満たすうえではただの障壁でしかありませんが、案外猫にとっては狩猟本能のくすぐられる、心地いい行為だったのかと思います。猫が欲しかったのは味のいいイワシではなくて、入手が困難な獲物としてのイワシ、白猫ちゃんだったのだと思います。
正直これはちゃんと構成を考えてから作った小説ではなく、2,3時間で筆が進むままに書いていったものになります。
なので、テーマのスポットライトが途中から主人公の猫の異常な恋愛観になってしまったり(自由に苛まれて加虐的な、破壊するほうにしかアイデアがでてこない様を描こうとした)
最後は、「でも自由を与えられて緩慢になった主人公は、急に不自由にされたらその苦しみに耐えれない」というものになり、また時間を停めてしまうという五億年ボタンのようなオチになりました。
短編としてはおとぎ話感のある感じにまとまったなと思いますが、時間に余裕があるときはもっとテーマが一貫したストーリーを書いてみたいなと思います。
こんなはちゃめちゃなストーリーでしたがここまで読んでいただいて本当にありがとうございます。どんな意見でもいいのでもらえますと幸いです。