第二話
三日前、妹《綾》は、なにかに襲われた。
部活の帰り道、一緒に居た友達は、行方不明。
俺《黒崎 隼人》が着いたとき。
綾は一人、道の真ん中でうずくまって震えていた。
俺を見た途端、綾は縋りついて泣いた。
なにがあったのかは、話そうとしない。とても、恐ろしい目に遭ったらしいということしか、分からない。
たぶん、思い出すことすらしたくないんだ。
だから、俺も聞かない。
それ以来、綾は家から出ようとせず、一人になることも嫌う。
トイレと風呂は、なんとか一人で入らせたけど、それ以外は離れようとしない。
最初はうっとおしかった。
つい最近まで、口も聞いてくれないし、目も合わせてくれない……それどころか、睨んできてたってのに。
でもまぁ、『あんなこと』のあとだから、仕方ない……のかな。
そう思って付き合ってるうちに、慣れてきた。
今日も、俺は綾の隣で目を覚ます。
綾はまだ眠ったまま。
しがみつかれていて、離れそうにない。
無理に離そうとすると、グズりだす。もう中学生なのに、まるで赤ん坊だ。
身動きが取れないし、起きてもらいたい。
……けど、今の綾は、うなされずに眠れている。
今は、寝かせてやるか。
ベッドの上で手持ち無沙汰にしていると、部屋の扉が静かに開く。
スーツ姿の母さんが、覗き込んでくる。
綾がまだ寝ていることが分かると、忍び足で近づいてきた。
そして、俺の横で静かに話しかけてくる。
「仕事、行ってくる。隼人、綾のことお願いね。……なにか食べられそうだったら、食べさせてあげて」
俺は、返事代わりに頷く。
そしてそのまま、母さんを見送った。
それから俺は、やることもないので、天井を見上げる。
その時……なにかが、居た。
俺のことを、覗き込んで……?
「はやと……?」
綾が起きて、一瞬だけ目線がそっちに向いた。
それから、もう一回天井を見上げたけど、そこにはなにも居なかった。
たぶん、寝起きで頭がぼけてたんだろう……と自分に言い聞かせた。
ぐぅ、と腹がなる。
丁度綾も起きたことだし、朝飯にするか。
とはいえ、これも少し大変で……
あの日以来。
綾は、『食べる』という行為を拒絶するようになった。
食べ物を口に運ぼうとすると、それだけで過呼吸になって、吐きそうになってる。
それでも、なにも食べさせないわけにはいかない。
なんとか、水を飲むくらいは、出来るようになった。
……おかゆなら、食えるかな?
そう思って、たまごと塩を混ぜただけの簡単なおかゆを、朝食に用意してみる。
「少しでいいから、食べれないか?もう、ずっと水しか飲んでないだろ?」
綾は渋い顔をする。
頭の悪いやつじゃない。俺が言うことは分かってる。
でも、忌避感もぬぐい切れない。そんな顔。
『あんな目』に遭って、仕方ないのは分かるけど……
……あれ? 俺は今、なんのこと考えてた?
「……分かった、食べて……みる」
なにかを思い出しかけた時。
綾の一言で、意識が引き戻される。
綾はスプーンを取り、手を震わせながらおかゆを一口分、掬う。
口元まで運ぶと、息を荒くさせて、目を瞑る。
意を決した様子で口の中に流し込むと、すぐに吐き出しそうになって、口を手で塞ぐ。
綾は、乱れた呼吸を、だんだんと落ち着かせていく。
そしてようやく、飲み込んだ。
苦しそうな綾を見て、俺はすかさず、その背中をさする。
落ち着いてきたころに、俺は皿を下げた。
……なんだか、すごく悪いことをした気がしてくる。
片付けをしながら、そんなことを考える。
よっぽど、怖い目に遭ったんだろう。
こういうのもなんだけど、綾はかなりかわいい顔をしてる。
贔屓目なしに、同じ年頃の子の中でも一番だと思うくらいだ。
──頬は柔らかくて食いやすそうだし、バレーをしているから、健康的に引き締まっていて体の肉も旨そう──
そんな風に考えておきながら、俺の胃袋は空腹を訴えてくる。
まあ、仕方ない。
俺も『ちゃんとした』飯を食えてないし、それに……
……ずっと、美味そうないい匂いがしているんだから。
『いいにおい』の元を探して、振り返る。
そこには、綾がいる。
『ああ、アレだ』。
と、脳が訴えてくる。
自然と足は綾に向かっていた。
食べたい、食べたい……『食え』『食え』『食え』『喰え』『喰え』。
頭の中からの声に言われるがまま、俺は綾に手を伸ばして……
そこで、目の前の光景が一瞬、変わる。
真っ赤な街。
怯えてへたり込む、綾。
そして、綾に向かって伸びる……俺の……? 腕?
そして、現実に意識が戻ったとき。
俺は綾を押し倒し、興奮気味に噛みつこうとしていた。
……やめろ、やめろ。
体が言うことを聞かない。
自分のものじゃなくなったみたいだった。
俺はただ、自分のやっていることを『眺めているだけ』。
……止まれ! 止まれ! 止まれ!
必死に自分を止めようと、心の中で叫び続ける。
綾の顔に、俺の歯が触れそうになる寸前。
そこで、俺は体の自由が利くようになる。
……はやく、離れないと。
そう、頭では分かっているのに。
吐息が肌を撫でる距離。
緊張しているのだろうか、綾の額を伝う汗。
その匂いが、鼻につく。
それが、どうしようもなく食欲を搔き立てる。
そのとき、気づく。
体が言うことを聞かなかったんじゃない。
俺は、俺の意思で、綾を喰おうとしていたんだって。
その事実が恐ろしくなって……
俺は、綾を置いて逃げ出した。
アテもなく走る。
気がつけば、綾が襲われた場所に、俺は居た。
中学までの通学路。
あの夜のことを思い出す。
俺は綾を迎えに行く途中で……
何かを見た……気がする。
何かから逃げる、綾の姿を。
目の前に居るのに、触れられない。
声も届かない。
俺は、綾を助けようと必死になって……そして……
その先が、思い出せない。
思い出そうとすると、頭が痛くなる。
だけど、思い出さなきゃいけない。そんな気がした。
俺は、自分の頭をアスファルトに叩きつけた。
何度も、何度も、強く。
確実に、頭が割れた筈だった。
額から血が流れ、目の前が真っ赤に染まった。
でも、すぐに割れた額が塞がっていくのが、分かった。
触ってみても、傷らしきものはなかった。
「どうなってるんだよ……
俺は……どうしちまったんだよぉ!!」
自分の体が、意識が、まるで自分のものに感じない。
自分が怖くなって、俺は叫んだ。
「オレも知りてぇなァ!
お前ェ、なんなんだ?」
「え……? うわぁぁぁぁぁぁっ!」
俺に声をかけたのは、人間じゃなかった。
そのおぞましい姿に、俺はひっくり返った。
「やっぱり、『視えてる』なオレのこと」
獣の骸骨みたいな頭が、俺を見下ろす。
骨の上に薄っすらと張り付いている皮膚が、笑みを浮かべているようにも見えて、不気味だった。
というか、『視えてる』……?
「驚かせたな。オレはヴァイス。お前らニンゲンが言うところの、『悪魔』ってやつだ」
「悪……魔……?」
その言葉を疑う気はなかった。
むしろ、それを聞いたおかげで少し落ち着いた。
だってそいつは、見るからに人間じゃない。
猫背で背中を丸めていても、身長は三メートルはあるように見える。
手足が細くて、異様に長い。
そして多分、俺以外には『視えてない』。
この辺りを通っている人は、俺のことを気味悪そうに見るだけ。
俺が異常な行動をしたのは確かだけど……
それよりも『異様』な存在がここに居るのに、誰も気にしていない。
だからこそ、こいつが『悪魔』だって納得できる。
もし、この『ヴァイス』って悪魔が、俺の頭がおかしくなって見だした幻覚じゃなければ……聞かなければいけないコトがある。
「お前なら、分かるか?
俺に、何が起きたのか」
こんなタイミングで現れた。それに意味がないはずない。
きっと、俺の求めてる答えを知ってる。
「まあ、知ってるといえば知ってる。
だが、それはお前の求める答えの、半分だ」
「半分……?」
「そう、お前が『なったもの』は分かる。
だが、『何故なったか』は俺が知りたい」
そういわれても、俺の方だって分からない。
「『俺が知りたい』って顔してんな。
けどな、お前が知らないはずがない。
……まあ、こんなところで話すのは気が散る。
場所を変えよう」
そう言って、悪魔は指を鳴らす。
次の瞬間、世界が朱く染まる。
建物も、風景も変わらない。
でも、人の気配が無くて、静か過ぎる。
目に見えるなにもかもが、朱い。
今が、朝か夜かも分からない。
あまりにも、『冷たい』世界だ。
そんな景色に、俺はなぜか見覚えがあった。
「ここは『狭間』だ。お前たちの生きる『現世』と、ほんの少し、ズレた場所にある空間」
その説明のあと、悪魔は鼻先が触れそうになるほどに顔を近づけてくる。
「お前はここで『死神』として戦った。
思い出せ、なにがあったのかを。
なぜ、お前がそんな力を持っているのかを!」
今度は、死神……?
いよいよ何のことかわからない。
「お前は覚えていないかもしれないが……
お前が目で見て、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、口にし、肌で触れたもの……
それらは全て『お前の中』に残る。
頭の奥、隅の方へ追いやっているだけでな。だから……」
悪魔は俺の額に人差し指を当てると、ズブズブと刺し込んでいく。
「思い出してもらうぞ」
深く、深く脳へ突き刺さるその指は、俺の記憶を文字通り『掻き出して』いく。
「三日前、オレが感知できたのはこの時。
なら、力を手にしたのはもっと前……このあたり、か」
悪魔によって、閉じ込めていた俺の記憶が、こじ開けられる。
……ああ、そうだ。
思い出した、あれは十日前……