第一話
──なんで? どうして?
どうしてあたしが、こんな目に?──
少女は逃げる。
なにから?
分からない。ワケが分からない。
それは脳が理解を拒むもの。
それはあまりに大きく、見るもおぞましい……バケモノでさえない、理解できない『恐怖』。
『それ』は突然現れた。
大きなクチバシが、少女の隣に居た友人を丸呑みにした。それから、口の中でゆっくりと咀嚼する。
ギョロっと大きな目で少女を見つめ、その顔が恐怖に歪んでいく様を、ニタニタと嗤うのだ。
気持ち悪く、気味が悪い。
込み上げてくる吐き気を堪えて、少女は逃げた。
『それ』の足は細く、あの巨体だ。そう速くは走れないはず。
生まれ育った街。
毎日通っている通学路。
なのに、ここはまるで別世界。
帰り道に立ち寄るコンビニ。友達の家。木々も、空さえも……
目に映るもの、全てが血のように朱い。
昼か夜かも分からない、不気味な景色。見ているだけで、めまいがする。
そして、どの建物も、見た目が同じだけ。全て、中身のないハリボテ。扉を開けようにも、ビクともしない。
中へ逃げ込むことを諦め、また少女は走る。
人の気配はなく、音もなく。響くのは、自分の足音だけ。
とにかく、隠れられる場所を……
見つからないところへ……
狭い路地に逃げ込む。
そこで、乱れた息を整える。
ここなら、きっと大丈夫。あれの体は大きいから、入ってこれないはずだから。
そう、自分に言い聞かせる。
だが、そんな淡い期待はすぐに打ち砕かれる。
『それ』は空から来た。黒く、大きな翼を羽ばたかせ、巨体を空に浮かべていた。
そして、少女を見下ろし、また嗤う。
少女は体が震え上がった。
アレはなんなんだ。
鳥のようにも、人のようにも見える不気味な顔。
それは生理的な嫌悪と、恐怖を抱かせる。
本能が、足を動かした。
とにかく逃げなければ。
いやだ、いやだ。
『あんなの』に食われて死にたくない!
そして、気づけば袋小路に立っていた。
前も、右も、左も。
気づけばどこを向いても行き止まり。
振り返れば『それ』が居て、自分は『詰んでいた』と気づかされる。
自分は逃げていたんじゃない。
『逃されていたんだ』と。
『それ』はきっと、いつでも少女を喰えた。
だが、あえてそれをしなかった。
あの気味の悪い笑みを見れば分かる。
『それ』は、愉しんでいた。
逃げ切れることなどないのに、自分が逃げる姿を見て、嘲笑っていた。
焦る姿を、もがく様を、絶望に落ちる瞬間を。
どうして、こんなことになった?
そんな思いが頭をよぎる。
普通に生きてきたはずだ。
目立って悪いこともせず、真面目に過ごしてる。
部活を頑張ってて、大会が近いからって、夜ギリギリまで練習して……
それがどうして、こんなことに巻き込まれなきゃいけない?
「練習、疲れたー」
とか。
「期末の勉強もしなきゃいけないとかシンド」
とか。
直前までそんな他愛もない会話をしていた友人が、一瞬にして居なくなった。
それがこんな……人間の死に方じゃない。
恐怖で震え、縮こまる少女に対して『それ』は大きく口を開け、啄もうと迫る。
──……いやだ。死にたくない──
どこにも届かぬ思いを、少女は強く願う。
「たす……けて……」
そう口にした、その瞬間だった。
世界が割れた。
朱い空が、街が、ガラスのように砕け散る。
中から『なにか』が現れ、少女の前に立つ。
──熱い──
『なにか』が全身から放つ蒸気で、前がはっきり見えない。
辛うじて見えたのは、足元のコンクリートが、融解して沈み込んでいることだ。
蒸気が晴れてきて、少しずつその姿がはっきりとしてくる。
二本の足で立ち、左右一対の腕を持つ『人型』。
その体は膨れ上がったように太く、大きい。
だが、その姿がはっきりとするにつれ、少女は恐怖した。
『なにか』は人間ではなかった。
全身の皮膚が無く、剥き出しになった血管、筋肉。
まるで人体模型のようだった。
そして、膨張して破裂しそうな筋肉を、外側から『骨』が抑え込んでいる。
ただ、人のような姿をしているだけの『バケモノ』。
『なにか』は吼える。顎まで裂けた口を大きく開き、獣が威嚇するかのように。
『それ』は明らかに怯えていた。
『なにか』に対して。
『それ』から見れば、ネズミのような大きさの『なにか』に恐怖している。
『なにか』は跳ぶ。
深く膝を曲げて、高く、高く。
遥か上空の『それ』に届くほど、高く。
『なにか』はまず、『それ』の頭を殴りつけた。
気を失って落下していく『それ』に乗り、翼をへし折り、引きちぎる。
落ちていく間も、『なにか』は執拗に『それ』の頭を殴り続ける。
見るも無惨なほどに、ぐちゃぐちゃに変形し、中身が飛び散る。
少女は、悲惨な光景に耐えきれなくなって、目を背ける。
その後、『なにか』の雄叫びを耳にした。勝ち誇ったような、そんな雄叫び。
少女は立ち上がり、恐る恐る、『なにか』の居る方へと向かう。
そこでは、『なにか』が『それ』の頭をもぎ取って……喰っていた。
少女の脳裏によぎる。友達が喰われた光景が。
再び、吐き気が胃の底から這い上がる。
そして、『なにか』は少女に気づき、跳ぶ。
目の前に立ち、少女に迫ってくる……
朱い静寂の世界に、悲鳴が響いた。