声にならない声は、慥かに届いた (三人称)
少女の心情描写は難しいですね。
三人称と内野視点が入り混じる時があります。違和感がないようにしたつもりですが、読みにくいなどの意見がございましたら、コメントをお願いいたします。
後悔は、現実を噛みしめてやっと襲ってくる。
鼻で息を吸うと、油っぽい埃を吸い込んだ。噎せ返ろうにも、口がガムテープで塞がれてうまくできない。
泣きたくても、喉を震わせることしかできず、なぜだか涙も出ない。
(どうして)
内野楓は、今まで見たことがない残酷な表情で嗤う恋人を、汚い地面に横たわって見ていた。
「随分大人しいな。もう調教済みかよ」
「これからだったんですよ。まだ処女です」
「んだと、未開通か! 狒々爺にくれてやるのがもったいねえな」
「それは俺のセリフですよ……初賞味は俺の役目だったはずなのに、なぁ楓? 俺意外に処女を売り渡すなんてひどい女だ、傷ついたよ」
「ひっでえ」
童話の挿絵に描かれる悪鬼のような顔で、背筋が凍るほど爽やかに言ってのけた。
放置された重機のリーフに登って見張りをしている漆が、割と本気で引いたように呟く。
楓は、せめて人間らしく泣きたいと思った。
こんなに悲しいのに、泣けもしない。裏切りの感触は、氷の槍で心臓を貫かれたように体温を蝕んで、感情と五感の働きを鈍らせる。
細い通路のようになっているそこは、無機質に積まれたギロチン材の山の合間だ。
スクラップ工場と言っても、この工場自体がスクラップと化している。佐々野の兄が、工場主に不法な金利を押し付けて倒産させたのだ。工場は差し押さえたが、売り先が見つからないために弟と悪友の遊び場にくれてやったのだ。
「おい、来たぜ! いかにも助平な爺が三人!」
「三人?」
漆が上から言う。片桐が三人も呼ぶなんて聞いていないぞ、と佐々野に訴える。
佐々野は何でもない顔で言ってのける。
「そりゃ、三人分の逃走資金が必要だかんな。三人分払ってもらわなきゃならねえのは道理だ。それに、俺たちの事業納めだ、盛大にサービスしてやらねえと」
「はははっ。商売の基本か……恐れ入ったよ」
「ちぇっ。あんな爺にねぇ、あいつもよくよくついてねえな。どうせなら鈴無みてえな女がまわされてるのを見たかったぜ」
「おい漆! いつまでも高いところでブツクサ言ってねえで、お客様を出迎えてやれ」
客三人は、見分けるが面倒なほど、揃いも揃って醜く肥えた老人だった。
年輪を重ねるごとに倫理と知性が剥がれ落ちて、欲望とコンプレックスという名の甲羅を育て上げた、そんな類の老醜だ。
(私、本当に……これから、あの人たちに)
ああ、良い。
やっと、視界が滲んできた。
嗚咽がこみ上げる。
一瞬だけ安らかな気持ちになった。
それも、鶏がらのような手が体に触れると、名状しがたい忌避感に変わる。
(助けて)
叫べない。
「あ、喘ぎ声が聞きたいのう。ガムテープをとってもいいかね?」
「勝手にどうぞ。ここは広いから誰かに聞かれる心配もねえ」
ベリリと乱暴にはがされる。
叫ぼうとした。
声が出ない。喉が締め付けられるようで、急に入ってきた酸素に毒されてしまったみたいだ。
「ぁ……や、たす、かーくん……」
「んあ、なんだい? ウフ、ウフ」
「ああ、気にしないで続けてやってください。そいつ、まともに喋れもしない陰キャですから。よくわからないことを言いますけど、大したことはないですから」
(そんな……私、頑張って、勇気を出して話しかけたん、だよ……)
きっと、報われると思って。
必死の思いで踏み出した一歩が、少しでも幸せにつながったらいいなって。
(そんな、そんなことすら願っちゃいけないの……? 少女漫画の、絵空事だって言うの……?)
だれか、教えて。
だれか、助けて。
だれでもいいから、助けてよ。
声にならない声は、慥かに届いた。
ギロチン材の山が、けたたましい金属音を奏でながら傾いだ。
「おうわああ、なんだ」
「ゲホッゲホッ」
「クソ、山が倒壊しやがった!」
真っ先に原因を察したのは、再び見張りに戻っていた漆だ。
倒壊した鉄の山の向こうに、黄色いフォルムが見える。別の重機がなぜか突撃したのだ。
目を凝らしてみるが、運転席は無人だと確認する。
「んだ、故障かよ」
「ゲホ、ゲホ、一体どうしたことだね!」
「こ、これも趣向だというのか?」
老人が非難する中、佐々野が臍を噛む。
「おい、誰か来るぜ!」
漆が叫ぶ。
崩れたギロチン材が堰となり、退路はない。
鉄の袋小路に追い詰められた野獣共へ、登戸靱負が近づいていく。