第五話 アンジェリカ 6歳
アンジェリカは模範的高位貴族令嬢として成長していたが、
しばしばその旺盛な好奇心と行動力は周りの者たちを振り回した。
アンジェリカは6歳にしては、背は比較的小柄で、肌は透き通るような白磁。
そして勝気な性格を思わせる強い印象の眼元に輝く瞳は紫、
流れるような長い髪は、陽が当たると青く輝く黒色だった。
アンジェリカは6歳になると、首都ベリーノの名門校、
帝国学院初等部中央に通うことをせず、領都ヴァルソヴィーオの公爵邸にて家庭教師に学んだ。
この決定はアンジェリカが、母とその友人たちからの情報を元に、下した。
中央校であっても初等部の教育体制は貧弱で、
集う生徒の大半の質も名門校に見合っていない、との情報は信憑性が高かった。
この頃からアンジェリカの父は、娘をしばしば恐れた。
アンジェリカを、出来るだけ目の届くところに置いておきたかった父は、この決定に賛成した。
彼は娘を愛おしく感じる一方、何か言い表し様の無い気持ち悪さも、同時に感じていた。
王族の血を引くものとして、その責務を果たすと言う矜持がそれを感じさせていたのだろうか。
この頃の彼には、最悪の場合は自分自身がアンジェリカに対する防波堤になる、
その決意が芽生え始めていた。
この年、家庭教師と共に、アンジェリカには専属の侍女がついた。
この美貌の30歳前後と思われる侍女の素性は、表向きは低位貴族の子女。
しかしその実は、アンジェリカの母が所属する秘密結社の元諜報部隊の精鋭だった。
侍女としてよりも、アンジェリカの護衛係と調教係の仕事が重視された。
彼女はまた、アンジェリカの母を信奉する忠実な僕であり、
主人への報告もまた、重要な仕事のひとつであった。
この頃のアンジェリカは、まだ秘密結社の存在を認識していなかった。
しかし母と侍女長、そして自分の侍女たちを観察するにつけ、
その向こうに何らかの巨大な権力機構の存在を感知出来ていた。
アンジェリカの家庭教師たちは、皆母親が手配した。
帝国内でも有数の教師たちが集結した。
大半の者たちは、秘密結社から派遣されている。
各授業は、毎回、真剣勝負の様相を呈していた。
貴婦人向け護身術を担当した教師は、
アンジェリカの持つ魔力についても授業し、経過はやんわりと侍女に伝えた。
そしてこの教師はまた、異端審判回避のための立ち振る舞いについても、
幼い優秀な生徒に丁寧に教えてくれた。
淑女教育を担当した教師は、アンジェリカの器の大きさに莫大な潜在能力を感じ、
3日目にして家庭教師の辞退を申し出た。
最終的にアンジェリカに、
教えて頂くことが無いとは思いませんが、仮にそうであっても構いません、
私のことを助けて頂くことは出来ないのでしょうか、
この弱く小さい私は先生に助けて頂きたいのです、
と懇願され、これを受入れる。
アンジェリカに情熱的に口説き落とされた、この初老の淑女はその際に、
跪きとめどなく感涙を流したという。
それ以降、公爵家令嬢の庇護を受けた彼女と、彼女の門下生達が家庭教師をつとめる、
高位貴族の情報はすべてこの少女が束ねることとなる。
アンジェリカは6歳にして、自らのカリスマを使う術と、
精度の高い情報の重要性を知っていた。
アンジェリカが10歳になる頃には、
その情報網は帝都中央にまで浸食していたという。
アンジェリカは、一見すると完璧なまでに聞き分けの良い、母親の人形のようだった、
母親を盾として利用していたからだ。
しかしその実、この公爵家の暴れ姫は、自我が強烈で、
破天荒なわがままを爆発させることがしばしばあった。
年齢不相応な異常なまでの優秀さが、それを助長させていた。
その自分勝手な行動で、味方が死ぬ自分が死ぬ、
と説教されてもどこ吹く風の、大アンジェリカであった。
専属の侍女がそんなアンジェリカを押さえつける役割を担っていた。
アンジェリカの生意気に唯一、公爵邸内で、心技体において対抗出来るのは彼女だけだった。
その攻防戦はしばしば、美少女と美女のじゃれ合いの様にも見ることが出来、
観客である公爵夫人を大いに楽しませた。
12歳の誕生日に、アンジェリカはこの凄腕の侍女に、真剣勝負を仕掛け、完敗する。
初めての心からの無念は、母親と侍女からの、何よりの贈り物だったといえるのではないか。
賭けに負けたアンジェリカは、態度を改め、実際はふりだけだが、
常に如何なる時も淑女の仮面を着け、その様に振舞うと約束させられた。
家庭教師たちは全員、この少し乱暴な卒業式に感涙を流し、
誕生会ではお互いの大業を労い合ったという。
そんなアンジェリカの仕上がりに、母親は勿論、
母親方の親戚、特に秘密結社の関係者たちは、大満足であった。
一方、父親は偏執狂的恐怖心を、更に深めていた。
愛娘を中心とした彼女を取り巻く人々の、
異常なまでの結束の硬さに、本能的危機感を覚えていた。
アンジェリカの父親は、秘密結社の存在は知っていたが、
正式な構成員として認められていなかった。
ポラド王族の血を引くものとして、貴族として、何をなすべきか、改めて自問する。
公爵邸内の教会の出張所、老神父の言葉を思い出す。
あの悪魔が覚醒する前に、
人類に悲劇が訪れる前に、
息の根を止めてください、
あなたにしか、
それは出来ない。
公爵が単身で最後に彼に面会した時のことである。
手紙で知らせを受け、老神父の出張所の私室に足を踏み入れた公爵を見て、
まず彼は挨拶よりも先に、
神よ、間に合いました、感謝します、
と独り言をつぶやき涙を流した。
窓がすべて潰されているので、明かりは蝋燭のものだけだった。
壁一面に、大小様々な十字架が貼り付けられていた。
簡易便所からの悪臭が、老神父の体臭を上書きしていた。
顔半分が、なぜか酷く焼けただれていて片目は潰れていた。
老神父は公爵に遺言を伝えると、その翌日に焼身自殺した。
公爵は教会関係者と、その現場検証に立ち会った。
壁一面の十字架は、すべて逆十字になっており、扉には墨汁で大きく、
神よ=貴様の勝利は=無い、と殴り書かれていた。
公爵の独断で老神父は老衰死として処理され、
教会の公爵邸敷地内の出張所は永久封鎖となった。
またこの年、アンジェリカに弟が生まれる、公爵家待望の嫡男である。
アンジェリカは、この新しい家族を、この光を、護ると決心した。
その一方で、使える駒がまたひとつ増えた、と喜んでいる誰かの声を、
アンジェリカは確かに聞いたのだった。