第二話 アンジェリカ 誕生
万難を排して正妻の、待望の初産に臨んだ、元ポラド王国王族の血を引く公爵は、
それでも妻の寝室の扉の前で落ち着かない様子だった。
どこまでも続く廊下を満月の月明かりが青白く照らしていた。
全く何の心配もいらないはずなのに、
公爵邸は言い表せない不安に包まれ、使用人たちも皆が皆、冷や汗を流していた。
何かこれから、途方も無く悪いことが起きる、
そんな漠然とした悪い予感が場を支配する。
だが見渡せば、公爵の妻が実家から連れてきた使用人たちだけは、
狂人のような、獲物を狙う野獣のような、
その時を今や遅しと待ちわびているように見えた。
公爵邸内の空気が、世界が、刹那、鮮血のにおいに満たされた
公爵が棒立ちになっていると、
扉の向こうから低音弦を弾くかのような足音が近づいてきた。
扉が静かに開かれると、そこで産声が廊下に漏れてきた。
お入り下さいと公爵夫人付きの侍女長に告げられる、
その眼には明らかな狂気が宿っていた。
足を踏み入れると、産後の淀んだ空気が公爵の体にへばりつく。
歩を進めると、公爵家付きの医師が、入口に背を向けベッドの手前で両膝をついているのが見える。
医師は胸の前で手を組み目を固く閉じ、神よ、とつぶやきながら震えていた。
それは祈祷のようでもあり、また懺悔のようでもあった。
妻にねぎらいの言葉をかけようと近づいた公爵は、小さく悲鳴を上げ、立ち止まる。
産後で殺気立っている妻に怯えたのか、
それともその胸に抱かれ、公爵をにらみつけている赤子に怯えたのか。
すると公爵のその様を見て、赤子は光るような笑顔で笑い始めた。
その笑顔はまるで、エデンから転がり落ちてきた天使のようであった。
ポラド領を統治する公爵家正妻の待ちに待った初めての子供の名前は、
予定通りアンジェリカと名付けられた。
アンジェリカの生誕を境に、公爵家及びその領内では不可解な不幸が続いた。
まず公爵の、死亡した前夫人との息子たちが2人とも、
原因不明の発作を起こした後、死亡した、それも2人同時に。
これによりアンジェリカが公爵家継承権の筆頭になった。
また公爵邸のまわりでは、使用人そして出入りの業者たちが、週に1人、
13週間連続で原因不明の発作を起こし、命を落としていた。
不幸な事故とするにはあまりに不自然であり、黒魔術による呪いが噂された。
しかし人を呪い殺すほどの魔力は現在まで存在が確認されていないことから、
あくまで公爵家に敵対する者が悪評を流布したとして処理された。
この頃、公爵邸の周りには異常なまでにカラスが集まっていた。
そのカラスに睨まれて、カアとひと鳴きされると呪われて死ぬ、
そんな噂がヴァルソヴィーオの街では囁かれていた。
公爵邸の敷地内には教会の出張所が存在した。
アンジェリカと両親は、神にその生誕を報告すべく、教会の出張所を訪れた。
教会本部から長年勤め上げた褒美として、
この出張所に天下った老神父は、対面して狼狽する。
老神父はアンジェリカが、
途方も無い魔力を持っている可能性があると、震える声で公爵夫妻に告げた。
酷く怯えた様子で、見ないようにしながらも凝視していた、
公爵夫人に抱かれているその赤子を。
公爵は、魔力などと言う非現実的な話をする老神父に対し、
咎めるような口調で強く抗議した。
公爵夫人はそんな夫を、
この娘は生まれながらにして人を惹きつける魅力があるのですよ、とたしなめた。
教会の言うところの魔力持ちとは、すなわち聖女候補と言うことだ。
各教会支部は末端に至るまで、聖女候補を発見した際には、
すみやかに本部に報告を上げる義務がある。
しかし、ここは公爵邸内の教会の出張所だ。
アンジェリカが魔力持ちかもしれないということは、
公爵夫妻の強い要望により、ここに隠蔽される。
その後しばらく不可解な事件や事故が、そして謎の自殺が、
ポラド領各地でヴァルソヴィーオを中心に頻発する。
一般の領民たちの目からは、この当時は被害者たちに共通点は全く見られなかった。
そんな折、ある日突然アンジェリカは三日間高熱を出し、
その後怪事件の連鎖は、にわか雨が上がるように唐突に止まった。
時はアンジェリカの祖国、ゲルマニーオ帝国がポラドの東の端まで勢力を伸ばし、
東の宿敵ルシオ帝国はその西に位置するベロルシオに侵攻し制圧、
ポラド領の東部国境付近が最前線となり、膠着状態が続いていた頃。
ゲルマニーオ帝国中央と同様にポラド領も、
長年にわたるルシオ帝国との紛争により疲弊していた。
だがポラド領はそれでも他の北方南方西方の各帝国領地と比べ、
まだ政局も庶民の生活も安定していた。
一部の者たちは、アンジェリカ様の祝福、とそれを呼んでいた。