第一話 ミカエラ 誕生
裸の妊婦が呪いの言葉を叫んでいた。
臨月の腹と同じ位に大きい満月に向かって、
血で塗られたかの様に真っ赤な満月に向って、
有らん限りの呪いの言葉を絶叫していた。
見ればその両腿はぴっちりと閉じた状態で荒縄できつく縛り挙げられている。
その名もなき村に、救援要請を受けた騎士領の自警団が到着したときには、
村を襲撃し、ひとしきり略奪を終えた盗賊団が宴を行っており、
この哀れな妊婦はその余興に駆り出されていた最中だった。
老人と病人と赤子はもれなく殺されていた。
成人男女たちは奴隷として売られるために、
きつく縛り上げられ一か所にまとめられていた。
そして年頃の若い娘たちは、盗賊どもの猛る欲望のままに、
人間の尊厳を強奪されていた。
この地方で一番の手練れである盗賊団頭領の予想を遥かに超えて、
早々に駆けつけた自警団は、不意打ちで盗賊どもを一掃した。
一番近くにいた自警団員はその妊婦に駆け寄り、ナイフにて荒縄の捕縛を解く。
すると次の瞬間、その妊婦は聴いたことも無いような奇声を上げて絶命した。
その妊婦の夫と思われる男、
妊婦のそばで余興暴力を受けていたと思われる、もほぼ同時に息絶えた様だった。
そして地獄となってしまったその村を、浄化するかのような優しい産声が上がった。
生まれてきたのは女の子だった。
産声を聞きつけ、持ち場が片付いた者から順に、自警団員たちが集まってきた。
返り血を浴びた頬に涙を流しながら、
なぜ泣いているのか理解出来ないままに集まり、その輪は拡がっていった。
解放された村人たちもまた、憔悴し動かなくなった身体を、
何かに操られているかの如く、その輪に参加していった。
もはや絶望しか残されていなかったこの村の、その村人たちが次々と立ち上がり、
産声に引き寄せられる様はまるで何らかの奇跡のように見えた。
赤子を抱いた自警団員を先頭に、全員で砦の主である騎士家の館を目指した。
動くことが出来ないけが人たちも、動ける者たちによって一人残らず運ばれた、
月明かりは彼らの行く道を煌々と照らし続けたという。
後に判明したことだが、今回自警団が異常なまでの早さで現場に到着出来たのは、
ありえないほどの耀さの月光が、彼らの行く道を照らし導いたからだと言われている。
砦の主にして騎士号を持つ館の主人は、
村人たち全員を館の広間に受け入れ、食事と休息場所を与えた。
また自警団員全員を労い、その場で褒美を与えたが、どうも様子がおかしい。
自警団員たちは喜ぶでもなく広間の奥を見ている、
手元の報奨金よりも広間の奥の、あの赤子を気にしていた。
見れば村人たちも、与えられたスープとパンに手と口を動かしながら、
傷の治療を受けながら、横たわりながら、顔は広間の奥に向けていた。
騎士の妻は産湯を使っていた、幾度となく騎士領のお産に立ち会ってきた彼女だが、
この時はなぜか動きがぎこちないまでに慎重だった。
程なく、彼女の手の中の赤子は、泣き止んだ。
泣き止んだ後、その小さくしわくちゃな顔を輝かせ、光るように笑った。
その瞬間、闇を欺き、この世界に光の祝福が舞い降りた
広間にいた者達は全員、不思議な多幸感に包まれる。
赤子の笑い声と共鳴しているかの様に細かく点滅する輝ける空気は、
傷ついた人々の心をまるで優しく癒しているかのようであった。
広間に集っている誰もが恍惚の表情を浮かべている中で、
ただ一人、この館の主人だけが怪訝な表情をしていた。
彼は以前、領都ヴァルソヴィーオで聖女の祝福を受けた経験があり、
その時のことを思い出していた。
聖女という存在を信じていなかった彼は、
その時に本物の祝福とはどういうものかを知った、
だから解る、この赤子は聖女だと。
それもあの時の高位聖女よりも、桁違いにその何らかの力が強いことを確信出来た。
砦の主として、この生まれたばかりの聖女に如何に対処していくべきか、
その重責に早くも押しつぶされそうであった。
現存している聖女のほぼすべては偽聖女であることは周知されている。
しかしその禁忌を公言することは、教会という権力に抹殺される結果に直結する。
聖女の肩書は多くの場合、権力抗争に都合の良いように利用されていた。
だが本物の聖女も、ごく少数ではあるが、確かに存在していた。
病気を治すような、そんな作り話じみたことは勿論出来ないが、
祈ることで無病息災は高確率で実現出来た。
狙い通りに雨を降らせることは出来ないが、
祈ることで対象地域を豊作にすることが出来た。
聖女という銘柄を死守する為にも、教会関係者は本物の聖女を血眼になって探し、
その聖女の力量にもよるが、報奨金は青天井だった。
聖女は魔力により敬虔な信者に祝福をもたらす、そう教会は詠っていた。
実際は魔力という存在の証明が困難な物を巧みに使い、
教会の神秘性と集金率を高める為の、ある種の詐欺装置に他ならないのだが。
夜が明けた。
どんよりと曇った日が多い、ゲルマニーオ帝国ポラド領東北地方だが、この日は快晴だった。
旭日が砦の主である騎士を、結局一睡も出来なかった生真面目な男を、優しく照らしていた。
明るくなって気が付いた、砦中の猫が、館をまるで護るかのように取り囲んでいたことを。
結局、騎士はその赤子を家族として迎え入れることにした。
その名はミカエラ。
家族及び砦の重鎮と相談した結果、このミカエラが聖女であることは秘匿することにした。
砦にある教会の神父は、幸いなことに地元出身者で、騎士の考えに同意してくれた。
教会本部に聖女を差出せば、多額の報奨金だけでなく、地位や名誉も与えられる。
それ故に聖女をめぐって血が流れることもしばしばあるという。
だが騎士は、教会や帝国の為にではなく、家族そして地元の仲間たちの為に、
そして何よりミカエラ本人の為に一番良いと思われる選択にこだわった。
ミカエラが降誕してから、砦は他に類を見ない発展を始める。
悩みの種である盗賊団の襲撃を大きな損害なく撃退し続けた。
盗賊団と呼ばれているが、その実体はルシオ帝国が派兵した、
ベロルシオ奴隷兵たちの雑兵部隊である。
捕虜に聞けば、砦と相対する前に、
決まって士気を削がれる何か、降雨や食中毒等、があるとか。
また砦と相対する前に、何らかの理由で引き返したこともしばしばあったそうだ。
砦の穀倉地帯では豊作が続いた。
帝国の他の領が苦しんだ疫病とも無縁だった。
人々は東北の砦を、神に愛された砦、と呼んだ。
実際は、聖女に愛された砦であることを、
騎士の家族とごく一部の者達だけが知っていた。
強者による暴力が支配する世界。
民族、国家、宗教そしてその他あらゆる集団が、その覇権を争う世界。
ミカエラの登場は、そういった暗黒の時代に差し込んだ、一筋の光のように思えた。