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ある事務所の記録

レンの記録

作者: りんごまん


深夜2時の中目黒。

深夜であるが、まばらな人影と飲食店の明かり、乗客を待つタクシーの明かりが点滅している。

遠くでは酔っ払いの笑い声が聞こえる。残念ながら、ひっそり静まり返っているとは言えない。


今回の対象は、中目黒の雑居ビルの地下一階にいる。倒産か自主廃業かはわからないが、潰れたバーが対象の住処らしい。対象の処分と、対象のタブレットの回収が今回の依頼である。


トモヤ、レン、ライは、地下一階へ、足音を立てずに階段をおりていく。ガラスドアの向こうに対象はまだ生きており、バーのスツールに腰掛け、タブレットを操作している。

バーの鍵をトモヤが静かにピッキングし、革手袋をしたレンが男に近づく。男はレンに気づくが、時はすでに遅い。

レンは男の腰にナイフを刺し、手首をひねる。一段深くナイフが男の体に沈む。男はバーの大理石模様のタイルに倒れ込んだ。


トモヤはどれどれとタブレットを持ち上げる。タブレットが示していたのは、アルファベットと、金額、国名だった。

「イニシャルと、お値段、売り先ってことかぁ。人身売買ってことね~」とトモヤは人差し指でスクロールした。「随分と長いリストだ。中国、ロシア、ウクライナ‥‥」

レンは革手袋を外し、さらにその下に身に着けていたビニール手袋を自身のポケットに入れる。

革手袋は男の死体の上に放り投げた。ヤクザの下っ端の指紋がついている。

「準備できたよ」ライが声をかける。

三人は店をあとにし、バーの近くに停車していたバンに乗り込む。タシロが素早くアクセルを入れる。

ドンッとくぐもった爆発音が、地下一階から聞こえた。


■レンと姉妹


冬の厳しい寒さが和らぎを見せ、暖かい日差しが、四階のダイニングを照らしている。

猫足のチェストには白いチューリップが飾られ、春の訪れを告げていた。


今日のランチは、唐揚げバーガー・唐揚げ定食・人参サラダ・チョコレートパフェだ。

「なーオカダ、オーナーってまぁだ帰ってこねえの?」唐揚げを口に頬張りながらレンが尋ねる。この事務所の戦闘担当だ。

派手な柄シャツを着て、黒目の大きい二重をしている。いわゆる濃い顔だ。ファストフードとコーラが主食だが、腹筋は割れており、タシロは世の理不尽を感じている。


「今、アンカラにいるそうです。良質な絨毯が手に入りそうだとおっしゃっていました」応えたのはオカダ。この事務所の食事係兼調査担当。塩顔の青年だ。


「アンカラって…トルコぉ?僕いったことないや。オーナーも元気だねぇ」応えたのは、トモヤ。金髪だが、優等生顔で、あっさり味=サラダが主食だ。黒いパーカーを着ている。パーカーの中からはロゴ入りのTシャツが見える。

いつもにこにこと目をアーチ型にして、穏やかな性格だが、一度、タシロはトモヤがキレた場面に遭遇したことがある。もんのすごく怖かった。


「ねぇ、なんか今日、タシロご機嫌じゃない?」とライが尋ねる。ライは甘いものが主食である。たまにオカダが、人参のケーキやかぼちゃプリンを与えることで野菜を摂取しているらしいが、基本的には胸焼けがしそうな甘いものを食べている。童顔で華奢。大きな目をしている。今日はチェックのシャツにカーディガンを羽織っている。


「あ、わかりました?実は!面白い仕事の依頼があるんスよ〜」と応えたのはタシロだ。青白い顔色をしており、目つきがいいとは言えない。いつもはヨレヨレのシャツを着ているが、最近はオカダがアイロンをかけてくれている。柔軟剤の香りつきだ。タシロは昨年の夏、海外から帰国できないオーナーに代わってこの、手段を問わない何でも屋の事務所に着任した。


タシロは当初殺し屋の事務所と説明されたが、何でも屋の方がしっくりくる。


タシロを任命した人間は既にこの世にはいないが、タシロはまだこの世、そしてこの雑居ビルにいる。

語彙力が低く、頭がきれるとはいえないが、真面目に仕事をこなしている。

主な仕事はノートパソコンに届く殺しの依頼をさばくことだが、なるべく穏やかな依頼を、よりわけるようにしている。

犬や猫を探してほしいという依頼も、多数あり、これなら問題ないかと思ったが、犬や猫にもいろんな意味があるとオカダに言われた。君子危きになんとやら‥‥君子でもなんでもないが、避けられる面倒は避けたい。


「面白い仕事…?」とライが尋ねる。

「そうっす。ボディガードの仕事っす」タシロはドヤァという表情をしたが、反応する者はいない。

「ボディガード…?めんどくさい。車にこもりきりの仕事なんてやだよ」と顔をしかめながら、ライが言った。

「俺もだりぃなぁ。怪しいやつを見つけたらすぐ殺っていいならまだしも」とレンが続ける。

「保護対象は誰だろう?」とトモヤが聞いた。

「トモヤさん!よくぞ聞いてくれました!なんとなんと、美女姉妹なんですよ~」とタシロが応える。いつも、武器を持ったスキンヘッドの野郎とか、太った親父とかを相手にしている事を考えればなんとも魅力的な依頼だ。

依頼メールには、「オガワ物産 姉妹 護衛希望」とだけ書いてあった。


オガワ物産とは、恵比寿に本社を構える食品専門の卸売商社らしい。東京に本社を構える商社の中では規模は小さいものの、国内外の個性的な食品を扱っており飲食店経営者を中心にコアなファンが多い。

都内に5店舗程、独自ルートで仕入れた食材やワインなどを売る食材雑貨の専門店を手掛けている他、飲食店へのワインや日本酒の販売等を生業としている。


美しい姉妹というのは、3代目であり、現社長の姉、ミナミ。32歳。もともとは銀座に本社を置く広告代理店で営業をしていたが、父親である2代目の逝去後、オガワ物産の後を継ぎ、父親の良いところは受け継ぎつつ、新しい流行へのアグレッシブな視点も持ち合わせ、業界内の評価は高いらしい。

妹はハルカ、27歳。二年前にマーケティングの会社を興しており、そのキュートな顔立ちと社長という肩書のギャップが話題になるのか、雑誌にもたびたび取り上げられているらしい。


「こちらが、その姉妹です」とオカダが2枚の写真をダイニングテーブルに置く。

ダイニングテーブルは重厚な木製のテーブルとなっており、このビルにいる若者とはミスマッチだといつもタシロは思っている。無論、自分にもミスマッチだ。

写真を見た瞬間、皆、目を輝かせた。2枚の写真には、とてもとてもきれいな女性が笑顔を向けていたからである。


姉妹との面談はタシロとトモヤが向かうこととなった。恵比寿駅ビルのコーヒーショップで待ち合わせをする。二人はなんとなくいつもり見なりが整っているように見えた。


「よろしくお願いします。姉のミナミと申します」

ロングヘアーを後ろで結んでおり、身長は165cmほどだろうか。女性にしては高い。スーツを着ている。きれいなアーモンド型の目とすっと通った鼻筋が印象的だ。

「妹のハルカです。よろしくお願いします」

ウェーブの栗色の髪に、ニットワンピースを着ている。姉よりも身長は低い。ピンク色のチークが印象的だ。姉がきれいというなら、妹はかわいいという表現がぴったりだ。


タシロとトモヤは一礼をした。

「最初は、妹だったんです。後をつけられているようで怖いって、ハルカが私に電話をしてきて…。その後、私の家にこんなものが宅配便で…」とミナミはスマートフォンをタシロとトモヤの前に差し出す。日本人形の首が写っている。

「なんとも子どもじみた脅しですね。あと、日本人形の製作者にものすごく失礼だ。製作者へのリスペクトがない。これは不愉快ですね」とトモヤが言った。

「なんだか怖くて、懇意にしている方に相談したら、タシロさんからご連絡いただいた次第です。よろしくお願いします」

ミナミが言うには、恨まれるとすると、ライバル企業の社長息子か、取引を終了した食品の製造元ではないかということだった。

妹の元彼がストーカーになった可能性もあるかもしれないとも添えた。



四階ダイニングでの厳粛かつ厳正なる協議の結果、レンとタシロが、姉ミナミを。ライとトモヤが妹ハルカを護衛することとなった。

レンは黒髪のロングヘアが大好物である。


その晩、タシロは歯を磨きながら、夜のニュースを見ていた。ニュースは、女性の行方不明を伝えている。

あの姉妹も気をつけないとなぁと思いながらタシロは、口を濯ぐべく洗面台へ向かった。

「では、次はトレンドおっかけコーナー、今日はふわとろパンケーキ特集です」とキャスターの声が背後から聞こえた。


◾︎◾︎◾︎


「護衛っていっても、実際のところ、なにしていいかあんまりわからないよねぇ」とトモヤが軽自動車の中でぼやいた。


妹の会社は、オガワ物産の本社からほど近い、恵比寿の雑居ビルの一室にある。設立して2年の、インフルエンサーマーケティングの会社らしい。

軽自動車はこのビルの入口に停めてある。


「ねぇ、インフルエンサーマーケティングって何?」とライが尋ねる。

「うーん、簡単にいうと、フォロワーの多いSNSの投稿者をインフルエンサーっていう。で、インフルエンサーに商品の感想やレビューを投稿してもらって、商品を広めてもらうのがインフルエンサーマーケティングかなぁ。

商品の特性によって、どんなインフルエンサーを選択するのかとか、どうレビューをしてもらうのかとかちゃんと打ち合わせするらしいよ」

ほら、とトモヤはスマートフォンをライに見せる。そこには、20代前後と思われる女性が、化粧品を手にしている写真がズラッと並んでいた。

「感想を言うのに打ち合わせするの。大変だね」とライは全く興味がなさそうに言った。


コンコンと車の窓がノックされる。ハルカが、差し入れだとサンドイッチを持ってきた。

トモヤは眉尻を下げた。車のウインドウも下げた。かわいい女の子からの笑顔付きの差し入れは、素直にうれしい。


「二人ともモテそうですよねぇ」とハルカが窓枠に手をついて言う。

「だって、すっごいイケメン。お姉ちゃんが、ボディガードを依頼したっていうからさ、ごっつい人が来ると思ってたの。だから、びっくりしちゃった。女の子が放っておかないでしょう。そうだ、合コン設定しましょうか?私、女の子の知り合いは、仕事柄たっくさんいるので、好みのタイプを言ってくれれば!」と続けた。大きな目と、よく動く唇がなんともキュートだ。

「ありがとうございます。僕は‥あえていうなら、ショートカットの女の子がタイプかなぁ‥」とトモヤが応える。

「えぇ〜じゃあ私はだめかぁ‥」

「いやいや、すみません、そういう意味では。ハルカさんも素敵ですよ。ハルカさんもきっとモテるでしょう」

「ふふふ‥‥否定はしないですよ〜ライさんも目が大きくて、見つめられたらドキドキしちゃいそう」

「はぁ」とライは無表情で返事をした。


一方、タシロとレンはミナミから、一ヶ月分の予定表を受け取った。朝8時から夜9時までビッシリ予定が詰まっている。社内打ち合わせ、電話会議、試食会、取材‥‥

「お忙しいんですねぇ」とタシロが言う。

どこかに急襲と予定に入っていれば楽なのに。


「そうですね、立場上どうしても。私、思うんです。危ない目に合うとしたら妹なんじゃないかって。私はこの予定の通り、基本的には常に大勢と一緒ですし。妹の会社は妹とアルバイトさんがいるだけで」

「まぁ確かに、そうすねぇ」とタシロは曖昧な返事を返した。

レンは考えていた。確かにあの脅しは子どもじみたいたずらだ。私怨で素人なら、日中どうどうとやらかす可能性は低いだろう。よっぽど追い込まれていたなら別だが、あの脅しには、そこまでの切迫感はない。むしろただのいたずらで片付けるべきだ。タシロのやつめ。だが、依頼をもらった以上はきちんと仕事をしなければ。

「タシロ、俺もそう思うな。ミナミさんは夜の監視メインでいこうか」


ミナミのマンションの階下にバンを停車し、エントランスを見張る。レンとタシロで交代で仮眠をとりながら監視をする予定だ。ミナミの帰宅は22時、出社は7時30半。約9時間半を監視すればよい。

「レンさんは、ミナミさんがタイプすか」タシロがおにぎりにかぶりつきながら尋ねる。

「俺は黒髪のロングヘアが大好物だからな。健全な男子だからそれなりに欲望もある。ただ、さすがに仕事はわきまえるよ‥‥」レンは以前、女性を解体する現場をタシロに目撃されている。

タシロは記憶にないようだが、いつか思い出すのではないかと思っていた。


◾︎◾︎◾︎

結局、その日から5日間、差し入れをいただきながら見張りをしていたが、姉妹に危険が及ぶことも、おかしな荷物が届くこともなかった。

オカダが、ライバル企業の社長息子やハルカの元カレの動向を調べたが怪しい点も見つからなかった。

ハルカの元カレは、ハルカと別れた後に出会った彼女と婚約したそうだ。


金曜日の朝、ミナミは「ごめんなさい、私が騒ぎすぎてしまったのかも‥‥どうにも妹のことになると、心配になりすぎてしまって‥‥」と謝罪した。

「何もないのは結構なことじゃないですか。では、一旦、ちょうど一週間になる日曜の夜に解散にしましょうか。我々がずっといるのもストレスになるでしょうし」とタシロは提案した。

ミナミは少し考えて、「あの、お詫びといってはなんですが…。美味しいシャンパンが入荷したので、みんなでうちで飲みませんか?」と提案した。


土曜日の夕方、ハルカは、美味しいワインを見つけたよぉといいながら、ミナミの家に遊びにきた。

Vネックのニットに、くるぶし丈のスカートを履いている。花モチーフのイヤリングが愛らしく揺れている。

既に、レンとタシロは到着していた。

ライは食事があわないので不参加。トモヤは読みたい本があるからと不参加であった。トモヤは多くは語らなかったが、なんとなくハルカとウマがあわないような気がしているらしい。そういえば、お喋りな女の子は苦手だと言っていた気がする。

結局、無趣味で暇な二人が参加となったわけである。

ミナミはなんとなくいつもより部屋の掃除を入念にし、なんとなく新しいリップをおろした。

けして深い意味はないけど、とミナミは自分にいいきかせた。

レンとタシロは、眼鏡のおじさんがシンボルマークのお店でフライドチキンを買った。オカダがラタトゥイユや、揚げナスと水菜のサラダを持たせてくれた。

テーブルに、フライドチキンや、ミナミが用意したチーズやフルーツを並べた。なんとも華やかな食卓である。

「じゃあ…っていっても乾杯するネタがないなあ。あ、いいや、じゃあ、みんなが無事でいることに…かんぱーい!」とハルカがグラスをかかげる。ハルカとミナミ、タシロはシャンパンを。レンはコーラを頂いた。

タシロは監視当番も兼ねているので、最初の一杯だけ頂いて、あとは烏龍茶に切り替えた。


ミナミが用意したシャンパンのボトルが2本、あっという間に空になると、ミナミは、ハルカの手土産のワインを手に取り、コルクを抜いた。

ワインをグラスに注ごうとして、ミナミは手元が狂ったのか、グラスをシンクに落としてしまった。硝子が割れる音がリビングに響く。

「あちゃぁ‥‥」とミナミがバツの悪そうにつぶやいた。

レンがキッチンカウンターへ向かい、声をかける。

「ミナミ‥‥さんは、ちょっとペースが早かったですかね。はい、チェイサー代わりに。俺片付けますから」とレンがコーラを差し出した。


4人はUNOをし、ボードゲームをし、時刻はすっかり二十二時になろうかとしている。

「レンさんも、タシロさんも、もっと怖い人と思った」とハルカは言った。

怖いか怖くないかはおいておいて、トモヤとライのように、女性の前でも平常時のテンションをキープできず、ついおとなしくなってしまうのがタシロとレンであった。


ハルカはソファで眠ってしまったらしい。タシロは今晩は、このまま護衛だ。こんな幸せな仕事なら永遠にやってもいいとタシロは思っていた。

ミナミは、玄関で靴を履こうとするレンに声をかける。「これ、ハルカが持ってきてくれたワイン、結局飲まなかったから、手土産に持って帰って」とレンに渡した。

レンはお礼をいう。「レンさんも泊まっていけばいいんじゃない?」とミナミは尋ねる。レンはやや間を置いて「あー…いや、まぁ、今日は戻ります。タシロが役にたたなさそうなら電話してください」と言って帰っていった。


エレベーターを待ちながら、レンは「泊まったりしたら余計な事しちゃうからなぁ」と頭をかきながら独り言を言った。

マンションを出ると、生暖かい風がレンを包んだ。

いつものレンなら、燻った欲望を発散させにクラブで女の子を誘うのだが、今日は真っ直ぐ帰ることにした。先程までの賑やかな声が、耳の奥でまだ聞こえる気がして、それをずっと聞いていたいとレンは思ったからだ。



翌朝、住処である雑居ビルの入り口にオカダは立っていた。オカダの足元には、一匹の猫が泡を吹いて死んでいた。頭上ではカァカァとカラスが鳴いている。

オカダはしばらく猫を見つめた後、そっと抱き上げ、ビルの裏側にある、雑草が生茂り、鉄くずが雑多につんである、小さな庭へ向かった。


「皆さん、護衛お疲れ様です。護衛というのはあまり皆さんの得意分野ではないでしょう。一週間お疲れ様でした」とランチの後、オカダが切り出した。今日は月曜日だ。

「まぁなぁ、なんつうか、護衛って言っても、うまい飯食って、きれいな女の人と話してるだけの仕事だったな」とレンが言う。

「正直、いつまでも護衛というは、賢い選択とは言えないと思っていました。ですので、一週間できりあげというのは正しい選択だったと思います」

「そうだねぇ、正直、性に合わない気もするし。どう考えてもいたずらだろうし」とトモヤ。

ライがアイスティーに手を伸ばした時、ピリリリと、タシロのスマートフォンがなった。

「もしもし」

「あの‥あの‥タシロさん」

「ミナミさん。どうしました。落ち着いて」

レンらが、タシロの方に顔を向ける。

「妹と連絡がとれなくて、それで、ごめんなさい、私、どうすれば‥‥」


ミナミから連絡をもらい、四人は足速にハルカのオフィスへ向かった。ハルカのオフィスには、ミナミと事務のアルバイトだという女性がいた。

「今日…ハルカさん午後出勤だったんですが、来なくて。何度か電話したんですが、電話も出なくて…私もバタバタしていて、ミナミさんに連絡するのが遅くなってしまって…本当に申し訳有りません!」事務員は、ミナミに向かって頭を下げた。

「大丈夫。きっとね、迷子になってるんだと思う。ハルカはね、方向音痴なんだ。迷子になる天才なの。大丈夫、絶対に大丈夫。だから、気にしないで。

ハルカのこと、連絡してくれてありがとう」と、ミナミは応えた。事務員がホッとした表情に変わる。


トモヤとレンが、オカダに携帯の位置情報の探知を依頼し、ハルカの捜索に向かう。

ミナミは、いったん会社に戻らねばならないが、会議はキャンセルして、ハルカの知り合いに片っ端から連絡してみると言った。


残されたのはライとタシロだ。

ライは、くるりと事務員の方を向いて、聞いた。

「ねぇ、事務員さん。ハルカさんのこと心配だよね。ハルカさんを助けるために、少し、質問をしてもいいかな」とライは尋ねた。

攻撃は最大の防御。もう少し姉妹のことを調べたほうがいい。狙われる理由がはっきりすれば、犯人の目星はつきやすいだろうとライは考えていた。


オカダがGPSを確認すると、妹は渋谷の雑居ビルにいるらしい。

ビルは五階建てだが、一階の看板をみると、五階の店看板に「管理物件」とラミネート紙が貼ってある。


トモヤとレンは静かに階段を上がり、元は飲食店だったのだろう、昼間だが真っ暗な室内を確認した。

人影が動くのが見える。


「ハァッ‥‥ハァッ‥‥私、何も知らない‥‥やめて‥‥」

ハルカの荒い息遣いとかすかな声が聞こえた。彼女は床に仰向けに寝ており、その上にフルフェイスを被った男が乗っかっている。そして、まさしく男はハルカに向かってナイフを振り下ろすところであった。


「くっそ、狙いにくいな」トモヤは構えながら、高速で思考を巡らせた。

フルフェイスを被っているので頭は狙えない。ボディは、動いていて、仕留めにくい。ブレればハルカが怪我を負いかねない。

‥‥いや、何チキってんだよ。ハルカの護衛は僕の仕事だった。ヘマしたらいつまでもレンにからかわれてウザいこと間違い無い。とりあえず、ブレなきゃいんだろが!

トモヤは全ての神経を目と手に集中して、弾を放った。弾は男の首を目指し、男は倒れた。


レンが、ハルカの元にかけよる。トモヤはフルフェイスを取り、スマートフォンで写真を撮った。手早くオカダに送信する。さらに、男のスマートフォンを回収した。「‥‥なんだ‥‥?」ふと、トモヤは違和感を感じたが、その違和感はレンの声にかきけされ、すぐに消えた。

「ハルカさんは気を失ってはいるが、無傷だ。」

レンはスマートフォンを持って、ミナミに妹の無事を知らせようとしたが、トモヤがそれを制した。

トモヤはポケットからカプセルを取り出し、ハルカに飲ませる。

「ごめん、レン。ちょっと時間稼ぎさせて」


■レンと姉とスマートフォン

妹の無事を姉に知らせることをトモヤは制した。理由はレンも頭では理解している。だが、そんな馬鹿なことがあるかと、受け入れることを拒否していた。

「この男は、素人じゃない。いたずら目的でも、金銭目的でもない。ハルカさんの殺害を依頼されて、彼女をここまで連れてきた。殺害を依頼受けて、彼女を処理しにきたんだ。」

トモヤは次の言葉を続けることを躊躇ったが続けた。

「そして、そんなコネクションがあるのは、僕たちにアクセスできた、ミナミさんしかいない‥‥」

信じられないことだとトモヤは思っていた。仮にミナミが黒幕なら、演技がうますぎるだろう。それに、もしそうなら、ボディガードを雇う必要などない。

いや、もしかすると、脅すまでが目的だったのだろうか‥‥?


すべては憶測と仮説に過ぎない。せめて調べる時間を稼ごうと、トモヤはハルカに薬を飲ませた。48時間は目を覚まさないだろう。

トモヤは「申し訳ない」と言ってハルカの頭をその場にあったクリスタルの灰皿で殴った。

そして、「襲われて頭部に怪我を負った。昏睡状態でしばらくは目を覚まさないだろう。ミナミさんも疲れているだろうから、病院に行くのは医師の許可が出てからにしよう」とミナミに説明した。

トモヤが考えたでっちあげだが、ミナミは素直に頷いた。

さて、ミナミは何か動きを見せてくれるだろうか、とトモヤは思った。


◾︎◾︎◾︎

その晩、レンは、社長室に腰掛けていた。ハルカのこともあり、ミナミの監視も兼ねて、車で張り込んでいた所、休憩がてら、社長室にきてはどうかと、ミナミに声をかけられたのだ。

「色々ご迷惑かけて本当にごめんなさい」

ミナミは書類の束を右から左へ処理していたようだ。

デスクの上には書類の束があった。

「謝りすぎですよ。仕事なんで、気にしないでください」

ミナミが入れたコーヒーをレンは飲む。普段はコーラしか飲まないが、このコーヒーはうまいと感じた。

非常に希少な、国内生産の豆からできたコーヒーだとミナミが説明した。

本当にミナミが何かを企んでいるのかと、レンはミナミの顔をじっと見た。


おもむろにミナミのスマートフォンのバイブレーションが鳴る。発信者を告げるディスプレイを確認し、ミナミは表情を変え、慌てて電話に応答する。

「もしもし‥‥はい…ありがとうございます!はい…詳細は追ってということで…本当にありがとうございます!」

と何やら感激している様子だ。電話を終了すると、ガッツポーズをした。

「契約…とれた…!瀬戸内海の幻のレモンジャム!」

興奮気味のミナミが説明した内容によると、瀬戸内で取れる珍しいレモンをつかったジャムがあるらしい。

そのジャムをミナミは自身の食品雑貨店で販売したかったが、なかなか交渉がうまくいかない。

手間暇がかかる栽培方法らしく、大量販売に農家が乗り気ではなかったそうだ。

だが、ミナミの熱意に負け、例年の1.5倍に生産量を増やすと言ってくれた。そして、レモンジャムをミナミの経営する食品雑貨店にも一部展開することを許してくれたらしい。

「よかった…本当によかった…あのジャムをうちのお店に並べることができるなんて…!」

時刻は23時になろうかというのに、ミナミは昼間より元気に見える。ミナミはくるりとレンの方を向いて、「レンさん!私、お腹空いちゃった。ちょっと付き合ってくれません?」と提案した。


ミナミはレンに何が食べたいと聞いたが、レンの答えはフライドチキンだった。「フライドチキン…?ふふふ。じゃあ間をとって焼き鳥にしよっか」と言った。

なんの間かわからないが、鶏肉つながりということらしい。

日付は変わろうとしているが、恵比寿の夜は明るい。二人は、和紙でできたランプが灯る店の暖簾をくぐった。ミナミは生ビール、レンはコーラハイを注文した。


ミナミはハツの串にかぶりつく。

「ん!おいし〜。柔らかくてプリプリしてる。

ね、レンさんは、今のお仕事長いんですか?えぇと‥‥フリーのボディガード?」

「何でも屋、というほうが正しいっすかね。そうすね、長いす。ミナミさんは‥」

「ミナミ、でいいですよ。私もレンって呼ぼうかな。もう解散だしね。

弟がいたらこんな感じなのかなってちょっと思ってたんだ。私はね、今で社長三年目、よ〜やく、ちょっと社長になれたのかなって思えてきたところ。

お父さんと一緒で、美味しいもの、だいっすきだから、いつかオガワを継ぐつもりはあったんだぁ。でも、思ったより早く継ぐ事になっちゃって‥‥でも楽しい。今日みたいな事があると本当にワクワクしちゃう」

「そうっすか。お仕事好きなんですね。あと妹さんもか。」

「好き!仕事も妹もね。どっちも私の生きがいだね。まぁ、お陰で行き遅れたけどね、あはは。まぁ一人でもたくましく生きていけちゃうけどさ。ハルカみたいに可憐な花のようには、どうしたってなれないなぁ」

「確かに、ミナミさんは、大輪のひまわりみたいすもんね」と唐揚げにかぶりつき、口をもぐもぐしながらレンが言う。

ミナミは面食らった様子だ。「あっ、あはは、ありがとう‥‥ございます」


二人はたわいもない会話と焼き鳥をつまみに、一時近くまでお酒を楽しみ、ご機嫌で店を後にした。

「あー、楽しかった。付き合ってくれて、ありがとう」と、ミナミはお礼を言った。「いえいえ、俺の方こそです。おっつ…」と、ミナミは酔っているのかよろめいて、バランスを崩した。女性はなぜヒールなど履くのか。レンはハイヒールは大好きだが、大変だろうなと思っていた。

レンはミナミの体を引き寄せて、ミナミが倒れるのを防ぐ。二人の間に静かな空気が流れる。

ミナミが何かをいいかけたが、先に言葉を発したのはレンだ。「あー‥‥唯一、護衛ぽいことしたかな」

二人は声を上げて笑った。

今夜の風もやはり生暖かかった。


レンに見送られ、ミナミがベッドに入ったのは明け方三時過ぎだった。さすがに体はだるかったが、年齢も年齢だ。メイクを落とさずに寝るわけにはいかない。

重たい体を引きずって、シャワーを浴び、スキンケアのルーチンをどうにかこなしベッドに入った。

そういえば、仕事の付き合いと、妹との食事以外は久々だったとミナミは思った。

あのレンという青年は、派手な顔立ちと、派手な柄シャツを着ているが、話してみると、言葉の選び方はけして乱暴ではなかった。

不思議な青年だ。まるで、派手な柄シャツの奥に、慎重で、優しい顔を隠し持っているような、そんな印象を受けた。


翌日、レンとタシロはミナミのオフィスを再び尋ねた。いい加減しつこいかと思われたが、ミナミは二人を歓迎した。相変わらず忙しない様子だ。

「今日は、雑誌の取材があって、もう出ないとなんです‥‥。働く女性の取材ですって。

最初は妹に来ていたお話だったんだけどね‥‥でも、製品をアピールするチャンスだからって、ハルカが私を紹介してくれたの。

正直、取材なんて気分じゃないんだけど‥‥。ハルカがくれたチャンスだし、頑張らないとね!」と、ミナミは言った。

「今日、仕事が落ち着いたら、ハルカの顔だけでも見に行きたいから、みんなで行きましょうか」とミナミは続けて提案した。レンとタシロは、そうですねと曖昧な相槌を返した。


ミナミの取材はビル最上階のレストランで行われた。

ビルの三階までが商業施設、四階から一八階まではオフィスビルとなっており、十九階・二十階には高価格帯のレストランが出店している。

ミナミの身を案じてタシロとレンはついてきたが、さすがにレストランの中にまで入るわけにはいかない。レンとタシロは、レストラン近くのベンチに腰掛けてミナミを待つ。

タシロはあまり落ち着かないのかそわそわし、レンはスマートフォンを操作して時間を潰していた。


「自分、こんなところ縁がないので落ち着かねぇっすね…こんなところで飯を食える人ってのは貴族っすね」

「俺はよく、客と来たなー。まあ飯はうめぇけど、オカダの飯のほうが好きだな」とレンはスマートフォンを操作したまま応える。

「客…ですか?」

「そそ、俺を買った客だよ」レンはスマートフォンから目を離さずに応える。何かのゲームをプレイしているらしい。

客ってなんすか…とタシロは尋ねたかったが、その声は爆発音にかき消された。


ドォォン‥‥という音が建物に響き渡る。床はカタカタと揺れ、照明が振り子のようにゆっくりと揺れた。

爆発音の先は、ミナミが取材を受けているレストランだ。ビル内に火災を知らせる自動音声が流れる。他店の客がザワザワと顔を出す。

ホコリと煙で視界は曇っていたがそんなことは構わず、レンはあっという間に、レストランへ向かって走り出した。「タシロ!ライに合流するように言ってくれ!」


レストランの中ははげしく損壊していた。

幸いにも店の半分は損壊を免れ、人々は逃げ出していたが、店の奥は激しくダメージを受けている。

特に崩落が激しいのは個室のある位置だった。

個室の中には、崩落した天井の下敷きになっている人間が三名いるが、二名は既に絶命していた。

ミナミは体半分が瓦礫に埋まり、頭部からは出血していた。

レンは、瓦礫を持ち上げ、ミナミを救い出す。よかった息はあるようだ。持ち上げたミナミは、軽かった。


「事故じゃないね」現場に到着したライは、あっさり言った。「ガス爆発にしては威力が強すぎるよ。一晩中、厨房にガスが充満していて、そこで何かが発火したならともかく、普通に料理をしていて、ガス漏れで爆発するレベルなら、ここまでにはならない。それに、厨房で爆発したにしては、火災の規模が小さいよ」

「事故じゃなく、狙って爆破されたってことスか…」

「詳しくは図面を見ないとだけど。衝撃の強い爆発を起こして、建物にダメージを与えたかったじゃないかと思う。このビルの天井が崩落ってさ、結構な威力がいるよ。僕でも、ちょっとめんどくさいもん。

それに、個室で取材を受けていたんでしょう?普通、高級レストランの個室なら厨房から離れた場所に設置するんじゃないの。仮に爆発が厨房なら、あんな風にならないよ」

ライは顎をクイと傾けた。その先にはミナミを抱えたレンがいた。ミナミは頭部から出血しており、全身に怪我を負っていた。救急隊にミナミを渡し、タシロが病院につきそうことになった。


夕方のニュースでは、キャスターが、「本日昼過ぎ、丸の内にて大規模な爆発が発生しました。ガス爆発と見られ、警察が現場検証を進めています。現場から中継です」と説明した。テレビにはでかでかと「丸の内大規模爆発」とテロップが出ていた。


護衛に雇われたはずであったのに、立て続けに姉妹のどちらもが入院することとなってしまった。


四階のダイニングでは、オカダが夕食に、照り焼きチキンピザ、マグロ山掛け丼、わかめサラダ、フルーツポンチ用意した。

やはり今夜の話題は姉妹についてだ。


「なんか変だよ」とライが言う。

「二人を恨む人物は見当たらないのに、結果的に二人は入院してしまった。ミナミさんは黒でもなかった」トモヤが続く。

「ガキみてぇな脅しと、プロの誘拐、プロの爆破ねぇ」レンが呟く。チーズが口の端についている。

「それぞれの出来事が、関係しているわけじゃないのかな」トモヤが言う。

「関係していないならさ、恨む人間が三人いるってこになるよ。なのに怪しいやつが一人も候補があがらないなんてことある?」とライが質問する。


「あの‥‥少し、申し上げにくいのですが‥‥」とオカダが割って言う。「レンさん、先日、ワインを持って帰ってくれたでしょう。オガワさんからのお土産です。私は疑り深い性格なので、人から貰ったものをすんなり頂けないんです。で、ですね、念のためにと野良猫の餌に少しワインを混ぜたんです」

「ど、どうなったんすか」タシロが先を急がせる。

オカダは答えた。「死にました」


なぜすぐ言わなかったのかとトモヤが尋ねる。

「申し訳ありません。単純にバタついていたのと、自分がレンさんにしたことを振り返っていました。自分は消されるような事をしたのだろうかと。ですが、思い当たる節はなく、ご報告した次第です」

「まじかよぉ‥‥あのなぁ、俺がそんなことするわけねぇだろ。俺はオカダを愛してる。オカダの飯もだ。心の底から愛している。

それに殺すなら、正々堂々と殺るね。俺なら、ワインに毒なんていれねぇわ。それくらいわかんだろー!

まぁ、オカダに俺の愛が伝わっていないことはまずは置いておいてだな。ワインはハルカさんが持ってきたんだ。てことはなんだ、妹さんは土曜の時点で狙われていた‥‥?殺り損ねたから、拉致したのか?」レンはホームパーティーのことを思い出していた。

「いや‥あの時まずワインを飲もうとしたのはミナミだった‥‥」

「つまり、姉妹二人を狙ったということ?それとも無作為?そもそもさ、未開封のワインに毒を仕込むなんて可能なわけ?」とライが疑問を投げる。


◾︎レンとワイン

「ハルカのワイン?」とミナミは言葉を発した。

レンとトモヤは広尾の病院にいるミナミを訪ねていた。手足に重傷は負ったが、幸いにも意識はすぐに回復した。

ミナミはハルカの安否を気遣ったが、まだ入院中だ、必要な事は自分達がサポートするとだけ伝えた。


「うん、この間、手土産に持たせてくれただろ?あれ、美味かったから」とレンは言う。まぁ、猫が一匹死んだわけだけどと、心の中で独り言を言った。

「あれはねぇ、ハルカのお気に入りのお店のだと思う。ワインの量り売りをしてくれるの。どこって言ってたかな‥‥あ、そう、広尾商店街のって言ってた。量り売りって珍しいよね。ここから歩いていけると思う」と、スマートフォンの画面を見せた。トモヤは店名や外観、営業時間を即座にインプットした。

「ミナミは、病室で退屈してない?」とレンは尋ねる。

「スタッフのみんなが日替わりで遊びにきてくれるから、全然だよ!病室からでもできる仕事もたくさんあるし。それにね、忙しくて、あんまりテレビは普段見ないんだけど、グルメ番組が多くて楽しいよ。パンケーキがすごく流行ってるみたいだから、今度うちも、どこかとコラボで粉の開発できないかなぁって考えてたんだ。あ、でも病室食はつらいね‥‥まぁ、ダイエットかなと思ってるけど。これもうちの事業でどうにかできないかなぁ」

「ダイエットなんて、いらないだろう。それに、相変わらず仕事で頭がいっぱいだな」とレンが笑う。

空気を察したトモヤは、先に車に戻ってるわと病室を後にした。

「ミナミ」レンが名前を呼ぶ。「とにかく、無事でよかった」

「助けてくれてありがとう」とミナミが言う。

「あー‥‥んー‥‥じゃあさ、ご褒美、もらってい?」

ミナミは目を丸くする。

レンはすっと椅子を立って、レンを見上げるミナミの頭に手を置いた。そして、そっと額に口付けた。

「これで、ご褒美。俺、ご褒美ないと頑張れないんだよね。じゃ、また‥‥来ます。ワインの件、サンキューな」と言ってレンも病室をあとにした。


件のワインショップに到着する。ログハウスを模した外観だ。近所に女子校でもあるのだろうか。セーラー服の女子高生が、キャハハと笑いながら通り過ぎていく。

営業時間が終わるまで待つのはまどろっこしい。客がいるがお構いなしに入店する。

「すんませーん。ちょっと、特殊なワインが手に入るって聞いたんだけどー」と、レンは店員に尋ねる。店員は棚奥の銃に手をかけたが、レンの方が早かった。「物騒なことはなしにしようぜ」と店員の腰に銃口をつきつけた。

店員は店内の客を外に出し、店に本日閉店のプレートをかけた。ハルカの写真を見せてレンが言う。

「なぁ、この子に、ワイン売った?」

「個人情報なので‥‥グゥッ‥‥!」と店員が言おうとしたが、店員は最後まで言葉を発せなかった。レンが店員の太ももに銃を放ったからだ。

「売った?それも殺鼠剤入りの」とトモヤが訊く。店員は痛みに顔をしかめながら、首を縦に振った。

「彼女自身が依頼したの?それとも誰かに頼まれて彼女にワインを売ったの?」

トモヤが聞くが、男は、フッと笑うだけで答えない。男の額には脂汗が浮かんでいる。

「答えないってことは、後者だね」とトモヤは結論づけた。「そして、依頼者を白状すると、貴方が危険に陥るような人物が、依頼者だ」


ライは自室のパソコンを操作しながら、先日の事務員との会話を思い出していた。

ハルカの様子を尋ねた際、事務員は以下のようなことを言っていた。

「ハルカさんは、すごく顔が広くて、最初はハルカさんの知り合いの女の子たちに、ハルカさんの知り合いの会社さんの製品紹介とかを書いてもらっていたんです。それがあっという間に会社になって。でも、最近はインフルエンサーとして存在感を発揮する子を探すのも結構大変で。最近は、こういうマーケティングについて、世間の目も厳しくて、時々炎上もしちゃって‥‥会社を閉じることも考えている様子でした」

一見、華やかな起業家にも、悩みや苦しみはあったのだろう。

「それに、うちの看板インフルエンサーが、二人辞めちゃったんです。先月。この子とこの子。」

事務員は、モニターに映るウェブページを指差して言った。

ハルカと同じように栗色の髪をした女性が映っており、一人の写真の下の説明には、

「フォロワー20万人。トレンドに敏感で、コスメレビューで紹介されたフェイスクリームは発売後あっという間に売り切れ」と書いてある。

「難解な文章すね‥‥辞めちゃったんですか」とタシロがモニターを眺める。

「それもSNSごと。うちとの契約を終了した後、更新がないんです」と、事務員はスマートフォンを見せた。確かに最終更新は先月となっている。「あの子達、SNSが生きがいみたいなものだから、心配になっちゃって。ハルカさんとこの子たちすごく仲良かったんです。でも辞めてからハルカさん、全然名前出さなくなって‥‥何かあったのかなって思ってました」


ライは目を擦った。写真がずらりと表示されたモニターはカラフルすぎて目がチカチカする。それにみんな同じ顔に見える。


華やかで完璧に見えた姉妹だが、ほんの少しの綻びの糸がたれた。綻び自体は、誰にでもある悩み、よくあることのようにも思える。だが、ライはそこに何かがある気がして、スクロールとクリックを繰り返した。


長期戦になるかと思いきや、15分ほどで、ライは手を止めた。しばらく画面を凝視し、画像を拡大したり、明度をあげたりした。

「ふぅーん」と独り言を言った。

スマートフォンを持ってオカダにラインを送る。五階に行くのが面倒だったのだ。

「オーナーと連絡とれる?聞きたいことがあって」とメッセージを送った。

同時にトモヤからもラインが来ていることを確認した。

レンが睨んでいた画面には、20万人のフォロワーがいるという女性が、上目遣いで自撮りをしている写真が映っていた。


◾︎◾︎◾︎

ハルカはパチリと目を覚ました。

見知った天井が視界に入ってきて、見知った匂いがした。自室のベッドで寝ていたようだ。頭がズキズキする。

今は何時だろう。枕元のスマートフォンを見ると、沢山の着信やメッセージで通知がいっぱいになっている。

「そっか‥‥私、襲われたんだっけ‥‥」とハルカはつぶやいた。


「目が覚めましたか」と、トモヤがハルカに声をかける。トモヤは、はい、とコップに入った水を手渡した。ハルカは体を起こして受け取る。トモヤの背後にはライの姿もあった。

「襲われた記憶はありますか?大事に至らなくてよかったです」

「トモヤさん‥‥私に付き添ってくれていたんですか‥‥」

「当たり前ですよ。大切な方ですから」ニコリとトモヤが笑う。

「あの‥‥お姉ちゃんは‥‥?」とハルカが尋ねる。

「今はオフィスにいますよ。ハルカさん、襲われた際に頭を打ったみたいですが、痛みますか?」

ハルカは首を横にふる。

「少し痛みますけど‥‥大丈夫です‥‥」

だが徐々に記憶が蘇ってきた。そうだ、ヘルメットをかぶった男が自分を殺そうとした。ハルカの目からは恐怖で涙が溢れた。手が震える。

「トモヤさん、私、私、怖かった‥‥突然男の人が‥‥」

「辛い目にあいましたね。怖かったですよね」と、トモヤはハルカの手に自分の手を重ね、ハルカの背中をゆっくりとさすった。大丈夫ですよと声をかけてやる。

そして続けた。


「でも、ハルカさんが売った女の子はもっと怖い思いをしてたかもしれませんね」


ハルカはトモヤの顔を見た。「なに‥‥?」

「ハルカさん、貴方は、知り合いの女性が多いと言ってましたよね。彼女達は大事な商品だったんですね。海外のクライアントの」と続けた。


ライがさらに続ける。

「まぁ、別に話さなくても結構ですけど。ハルカさんが仕入れて、中目黒のバーの奴が、実際に捌くと言う役割分担だったんですね。あ、否定も肯定もしなくていいですよ。もう、僕、大体わかってるので」


ハルカはシーツの端を強く握りしめて言った。

「違います‥‥お金がほしいっていうから、ちょうどいいバイトを紹介しただけ‥‥」

「バイトって、人身売買のことですか?」と、トモヤ。

ハルカは声を荒げた。

「人聞きの悪いこといわないで。みんなお金が欲しいの。可愛いお洋服が着たい。ブランドのバッグが欲しい。高い化粧品が欲しい。いい?みんな田舎から夢を抱いて出てくるの。で、若いってだけでチヤホヤされて、美味しいもの食べて、プレゼントもらって、夢なんて忘れて、足りない足りないもっと欲しい、自分にはその価値があるって言うの。だから、外国のお金持ちに囲ってもらった方が幸せじゃない?って、紹介しただけ。女の子たちだってリスクがあるのなんて百も承知の上だよ。彼女達が判断したの。私だけ悪者にしないでくれる?!」


「誰が悪者かは僕はどうでもいいよ。ハルカさんは何人売ったのかしらないけどさ。強力なコネクションを使って調べてもらったんだ。一カ月前に、えーと、インフルエンサーだっけ?それを引退した二人のこと。

事務員さんが、名前教えてくれたよ。SNSのアカウントもね。そしたらさ、女の子の写真に見覚えのあるものが写ってたんだ。大事な打ち合わせって女の子は書いてたんだけど。

で、二人の行方を調べたんだ。そういうの得意な人がいてさ。一人は中国のブローカーに売られて、東欧に送られてる。もう一人は中国で溺死体で発見されてる。日本大使館への報告はなく、身元不明で処分されたって。泳ぐの苦手な子だったのかな。ああ、あと、先週から行方不明でニュースになってる女の子。彼女もハルカさんの知り合いでしょ。SNSから簡単に辿れたよ」と、ライ。


「違う、私は‥‥他に方法がなくて、仕方なく‥‥!」

ハルカが大きな声をあげる。

「それで?仕方なくお姉さんも、殺そうとしたの?」とライが尋ねる。ハルカはハッと口を手で塞いだ。


あのヘルメットの男のスマートフォンを回収したときにトモヤは違和感を感じていた。

スマートフォンの画面上部に通話終了と出ていたのだ。ハルカとスマートフォンの男の会話を誰かが聞いていた。そして、ミナミが狙われたのだ。

「だから、だいたい全部知ってるって言ったじゃん」


ハルカの会社は先行きが怪しかった。競合はどんどん出てくる一方で世間の目は厳しい。うかつにインフルエンサーマーケティングに手を出すと炎上しかねない。クライアントは慎重になった。会社はミナミの資金援助があって成り立っていることも既に調査済みだ。ボロリボロリとメッキは剥がれてゆく。


「経営を心配したのか、小遣い稼ぎかはしらない。

君は、君のもとに集まってくる女の子を、人身売買のブローカーに引き渡したんだね」トモヤが言う。


「‥‥だったら何よ。私は誰も殺してない。証拠もないし、警察でもない貴方達は何もできないじゃない」とハルカが呟いた。ふふっと笑う。


「ふふふっ‥‥あいつに言ってやったの。フルフェイスのあいつに、お姉ちゃんが黒幕だって。全部お姉ちゃんの指示だって。だって、お姉ちゃんっていうのは、妹を守るのが仕事でしょう?あはは。」

恵比寿のカフェで会ったときのハルカはそこにはいなかった。

「身代わりにお姉さんを差し出したんだね。ついでに処分されればラッキーだと考えた。まぁ、遺産も色々入ってくるし。ハルカさんにとってはラッキーだよね」ライが続ける。


次の瞬間、トモヤらのスマートフォンがメッセージの着信を告げる。タシロからだった。

メッセージはこう告げた。

「ミナミさんが、検査の後、病室に戻ってきません」

トモヤとライはハッと顔を上げた。


レンは隣室で話を聞いていたが、たまらなくなったのだろう。ハルカの前に姿を現した。何も言わずにハルカの髪の毛をつかみ、そのままバスルームへ引きずる。「キャァ!」とハルカは叫ぶ。

バスタブの蓋を乱暴に剥がすと、ハルカの顔面をバスタブにはられた水へ沈める。バス蓋が床にあたるがらんがらんという音と、じゃぶんという水音がして、水しぶきがレンの前髪を濡らした。30秒ほど沈めて、引き上げる。

「ミナミはどこだ?」レンはたずねる。

知らないと、ハルカは応える。レンは、再度ハルカをバスタブに沈める。今度は、1分ほど沈めた。

「もう一度きく。ミナミはどこだ?おまかせコースでぶっ殺しても殺し方の概要くらいは聞いてんだろうがよ。社長が死にゃあ、社葬だなんだって、世間様への説明もあんだからよ。フルフェイスなり、その取り巻きからなんか仕入れてんだろ。

お前のオトモダチは太平洋に沈んだかもしんねぇんだぞ。葬式だってなしだ。風呂の湯を顔につける程度じゃねぇ。生きたまま、手足を縛られて海に放り込まれたかもしれねぇんだ。

言え、ミナミはどこだ」


ハルカは観念したのか、「はぁっ…はぁっ…たぶん‥‥中目黒の…事務所…」と応えた。

レンは、そのまま、ハルカの顔面を風呂の壁面に叩きつけようとした。ハルカの顔をぐちゃぐちゃにしたい衝動に駆られたからだ。ハルカと判別できないくらあかに血塗れにしてやる。

だが、すんでのところでやめた。血痕が残ると、後片付けが面倒だ。それに、ミナミの妹だ。「フーッ」と息を吐くと、代わりにハルカを、再度水へ沈めた。

5分ほど経っただろうか。ジタバタともがいていたハルカの手足は抵抗をやめ、だらりと頭をたらした。

レンはそのまま、ハルカの体を風呂床に投げ捨てた。

レンの目は真っ赤になっている。

「わりぃ、後片付け、頼むわ」とレンはトモヤに依頼した。「りょうかい」とだけトモヤはいう。レンはマンションを飛び出し、ライが後をおう。バンのエンジンを入れ、中目黒に向かった。


中目黒のその場所は先日、レンらが、男を処分したバーだった。

ライの爆破により、地下は半壊し、キープアウトのテープが貼られている。誰も入ってこないから、好都合ってことかよ、とレンは思った。

ミナミは瓦礫の奥に横たわっていた。脈と呼吸を確認する。意識はないが、まだ生きているようだ。


「レン!」と、ライが名前を呼ぶ。

レンの背後から、ひゅぅっと風が吹き、血しぶきが飛んだ。

「‥‥あっぶねぇ」すんでのところでレンは身をかわし、頸動脈への攻撃は避けられたが、肩からは血が流れている。「あんだよ‥‥なんかコスプレじみてんなぁ」目の前には刀を構えた男がいた。


レンは銃を使うか素手がいいか考えた。銃は構えている間に殺されそうだ。適当に撃ってあたる相手でもないだろう。素手は相手の懐に入る必要があるが、入れるか?


男が刀を構えてレンを目指してくる。レンのみぞおちを狙う剣先を、レンはためらうことなく拳で握った。レンの左手からは血がドプリと垂れた。「左手くらいくれてやらぁ」と言い右手で引き金をひいた。

「ちっ」額を狙ったが、男の右肩に命中するにとどまった。男は肩を押さえてレンの顔を睨む。


男は左手に刀を持ち直した。ちっ、どっちもいけんのかよ。男がレンの首を狙う。レンは姿勢を低くし避け、長い腕で拳をくらわそうとする。

だが拳は男にはリーチせず、男はレンの手首をつかんでひねる。

激痛を感じ「ぐっ‥‥!」と声を出し、床に転がった。

レンは、フーッと息を吐いた。筋はイカれたが骨折はしていない。こんなのは別に痛くねぇ。

だけど、俺はちょっと刀野郎にビビってやがる。むかつくけどあいつは強い。身のこなしがちげぇ。

くそ、何ビビってんだよ、情けねぇ!


レンは、男に向かって真っ直ぐ走る。「オラァ!」レンを狙う剣先を避け、男の顎に頭突きを喰らわした。

男が膝をつく。レンは銃口を男の後頭部に向ける。

「で、どーする?」とレンが言う。

男は「‥‥あるものを探している」と言った。「あるもの?」そういえば、ハルカは襲われているときに知らないと言っていたな。なんだ?


「ねぇ!それって、顧客リスト?」とライが叫んだ。

最初にこの場所で男を殺したときに、トモヤが手にしていたタブレットだ。

「顧客リストなら、うちで回収した。後で届けるよ。必ず届ける。ニジョウの使いがいくってあんたの上司に伝えてよ。そっちもさぁ、既に犠牲が出てるよね。あのフルフェイスの男?渋谷でやられたやつ。まあ身内かどうか知らないけど!

あとさ、ハルカって子は死んだよ。ねぇ、無駄な事に時間使うのはやめて、引き分けでどうかなぁ!?」

男は黙っている。


「色々言っちゃったけどさ、シンプルに考えようよ。君はリストが欲しい。リストの在り処を僕たちは知っていて、僕たちは、彼女が欲しい。」ライが続けた。


男は「‥‥ふん、1時間以内に届けろ。この女と引き換えだ」そう言って男はミナミを抱えて消えていった。

ライはスマートフォンを取り出した。


「おい、なんで引き分けなんだよ。俺が勝つ流れだっただろーが」とレンが不満気に文句を言う。

「あの男、服の下に爆薬を身につけてたよ。関係者全員処分する気だったのかな。最悪、レンを巻き込んで自爆する気だったと思う」とスマートフォンを操作しながらライが答えた。

「あ、もしもし、オカダ?」



◾︎◾︎◾︎

タシロは今、神楽坂の割烹の前の石畳の上に立っいる。タシロの脇には「京割烹 山うち」とかかれた看板が立っている。タシロは看板が自分を睨んでいるようだと感じた。


「タシロさん、オーナーとして仕事のお願いがあります」とオカダに言われ、神楽坂まで来た。スマートフォンを握ってタシロの部屋に来たオカダは、断ることなど許されない気迫で、タシロに依頼した。

そして、少し演出をしましょうといわれ、黒い細身のスーツを着て、髪はオールバックにさせられた。レンらがこの姿を見たら爆笑したに違いない。


「いらっしゃいませ」と出迎えてくれた中居さんに、ニジョウの名前を告げると、檜のカウンターを通り過ぎ、事務室に通された。タシロは空気を吸い込む。

「失礼します」


事務室の壁紙は真っ赤だ。黒い皮張りのソファとガラステーブルが置いてある。木蓮のお香の匂いがする。


「ニジョウのつかいやてぇ?」と着物を着た恰幅のよい婦人がタシロを出迎えた。真っ赤な口紅をつけている。婦人は皮張りのソファにゆったりと体を沈めている。タシロは立ったままだ。

一礼し、「タシロといいます」と伝えた。

「うちの子が、えらい、お世話になったみたいやなぁ」

タシロはオカダの言葉を思い出していた。

「女将に会ったら、落ち着いて、静かに謝罪してください。そして、これを渡してください。それがオーナー代行としてのお仕事です」

タシロは、平静を装うのに必死だった。女将から発せられる威圧感は、反社のトウゴウよりも遥かに恐ろしく、気を緩めると泣きながら土下座してしまいそうだ。

「ヤクザ映画の主役になりきってください」とオカダの声がする。

「この度はお騒がせして、すんませんでした」とタシロはゆっくりと深く、頭を下げた。

「あんた、ニジョウの使いぱしりなんやてなぁ。えらい暴れてくれたらしいやん」

タシロは頭を下げたままだ。

「まぁええわぁ。うちの子も、ちょっとやんちゃが過ぎたみたいやしなぁ。ほんで?手ぶらなわけないわなぁ」

タシロは静かにタブレット端末を取り出し、ガラステーブルにそっと置いた。

レンらが、中目黒の男を処分して得たものである。本来であれば別のクライアントに渡す予定であったが、中目黒の男の上司に返却する事となった。

いつの間に現れたのか黒服がタブレットを回収する。

女将はタシロの頭のてっぺんから爪先までをじっくり観察した。

「ふぅん。ニジョウも好みが変わったんかいなあ。あんた、ニジョウの下におったらいくら命があってもたりひんぇ」女将は目を細め、閉じた状態の扇子を帯から取り出し、軽く振って、出ていくようにと指示した。

タシロはさらに深い一礼をし、割烹を後にした。


割烹から500メートルほど離れると、タシロはその場にへなへなとしゃがみ込んだ。オカダに電話をかける。手が震えている。オカダが応答すると、「オカダさん、オカダさん。おっかなかったす。怖かったす」とタシロはベソをかいた。「タシロさん、お役目ご苦労様でした。よく頑張りましたね」とオカダは労った。タシロはそのまま、30分ほどその場にしゃがんでいた。



ミナミは目を覚ました。随分長い昼寝をしてしまった。何か楽しい夢を見ていた気がする。夢の中で妹が笑っていたような気がする。夢の詳細を思い出そうとするが、思い出せない。

横目で窓を見やると、外はもう真っ暗のようだ。消毒液の匂いがした。まだ頭にもやがかかっているような感じもする。体がなんだかだるい。少し熱があるのだろうか。

それに、なんだかすごく静かだ。病院ってこんなに静かだっけとぼんやりした頭で思った。それとも自分はまだ夢の中にいるのだろうか?


「ミナミ」この声はレンだ。隣にいたなんて気づかなかった。ミナミは返事をしたいが、うまく声が出ない。

「もう大丈夫。ごめんな」レンはミナミの頬にそっと触れ、優しく唇に口づけた。レンの香水の匂いがミナミの意識に触れる。レンの表情はわからない。

「また会えるよ。だから、今はゆっくり寝て」

どうして謝るの、と聞きたかったが、やはり声がでない。

ミナミは意志に反して、再び眠りに落ちた。暖かい手が、自分の手を握っていることを感じて、ミナミはいつぶりか、安心して眠ることができた。


◾︎レンとセンチメンタル

「かぁっこつけちゃってさ!」トモヤがトマトをフォークに刺し、声を上げる。

「うるっせぇ、好きな女の前でカッコつけなくてどうすんだよ」レンはがぶりとハンバーガーにかぶりつく。

「えげつない妹さんだったよね。まぁトモヤもその妹さんにデレデレしてたけどさ。人身売買を斡旋して、自分のお姉さんを殺害依頼って、なかなかないよ。だが一方で、組織に狙われてもいた、と」とライがモンブランを一口食べる。

「えげつないというよりも、想像力が欠けていたのかもしれませんね。パパ活斡旋の延長くらいまでしか考えられなかったかもしれません。

でも、今回一番カッコつけたのはタシロさんじゃないですか?」オカダが、ドレッシングをトモヤに渡す。

「そうっすよ、俺もう、ほんとに怖くて怖くて。もう嫌っす」とタシロが泣き声を出す。

「そうですか?女将は、ニジョウにしては随分真っ直ぐなのを雇ったと、高い評価をしたみたいですよ。タシロさんが業界内で評判になる日も近いかもしれません」

「あはは、それって僕たちが真っ直ぐじゃないってこと?」とトモヤがきく。

「業界の評判ってなんすかぁ。そんな怖いの俺いらねぇっすよぉ‥‥」

「ふふふ‥‥そうですね‥」オカダは笑った。

「ところでライさん、ハルカさんと中目黒のブローカーのつながり、よく見つけましたね。あれ、種明かし聞きたいっす」とタシロはライに話を振る。

「別になんの仕掛けもないよ」とライはスマートフォンを操作して、ほら、と画面を見せた。

写真がディスプレイに映っており、更新日付三か月ほど前になっている。


写真は女性が、自撮りをしている写真であった。

栗色のつやつやした髪と、長い睫毛が印象的だ。

「これは‥‥太平洋に沈められた方?あー、これ、あの中目黒のバーの床‥‥そういうこと」とトモヤが言う。

女性と背後には大理石の床が見える。なるほど、確かに特徴的な床だった。失礼は承知だが、トモヤは笑いをこらえきれない様子だった。

写真には以下のような文字が添えられていた。


♯ootd

♯アイメイク濃い人とつながりたい

♯今日は大事な打ち合わせ

♯運命変わるかもしれない

♯次の夢に一直線

♯てか、事務所がバーなんだけど



食後、オカダは、管理人室でノートパソコンと睨めっこしているタシロにコーヒーを差し出した。

テレビが天気予報を伝えている。

「オーナーさんってまだ帰らないんすかねぇ」とタシロが尋ねる。さすがにタシロも長いと感じたのだろう。

オーナーが戻ったらタシロはどうなるのだろうか。消されるのだろうか。

「聞いてもはぐらかすばかりですからねぇ。それに随分海外での仕事をためていたようですし」とオカダは答えた。

「‥‥以上、お天気をお伝えしました。では次は、トレンド追っかけコーナー、絶品柑橘系パンケーキ特集です」と、テレビから音声が流れていた。


レンは一人自室のベッドに横たわって天井を見ていた。

あれからミナミには会っていない。妹の件などはオカダとトモヤに頼んだ。会っていないが、元気にしているのだろう。新聞の瀬戸内レモンの特集記事にミナミが掲載されていると、タシロが教えてくれた。


妹に手をかけたが、放っておいても妹は狙われただろう。ミナミが巻き込まれるよりずっといい。妹の正体がミナミにバレるのも御免だ。無論、それがレンのエゴでしかないことはわかっている。エゴで構わない。ミナミに夜は似合わない。太陽の下で、日差しをたっぷり浴びて、大輪の花を咲かせるひまわりなのだから。


レンは女の人が好きだ。黒いロングヘアーだと尚更いい。いつもは衝動的に足りなくなって、衝動的に欲しくなって、時には無理やり手に入れて、結果、壊してしまっていた。女の人は脆いから、乱暴な自分が触れれば壊れるのは仕方がないと思っていた。


だが、なぜか今回は、衝動ではなく、ゆっくり時間をかけて、できれば長い時間ミナミの笑顔を見ていたいと思った。だからこそ、優しく丁寧に触れた。はたからみれば幼稚な愛情表現しかできなかった。

結局ミナミは手には入らなかったが、満たされていることをレンは感じていた。

ミナミがこの先もずっと、仕事が大好きと笑っていてくれれば、幸せでいてさえくれれば、満足だ。

その姿を想像すると、胸の奥の深い部分が暖かくなる感じがする。

時々、新聞やワイドショーでミナミの元気な姿が見られるなら、トモヤのようにポータブルテレビを買ってもいいかもしれない。

レンは初めての感情に、ふと一人で笑った。

棚奥のホルマリンにつけた姉の手をもう長いこと眺めていないことなどすっかり忘れて。



オカダは自室からweb会議システムに接続した。

今回は、致し方なかったとはいえ、オーナーとオーナーの友人を巻き込んでしまった。報告はせねばなるまい。

「そう、タシロはちゃぁんと役目を果たしてくれたんだねぇ‥‥女帝から連絡があったよぉ。好みが変わったのかって聞かれたぁ‥‥どういう意味だろうねぇ‥‥ふふ、オカダもご苦労様」

「いえ、ご協力ありがとうございました」

オーナーの甘い声がヘッドフォンから聞こえてくると、オカダはいつも冷静な判断ができなくなるように感じる。頭の中心に語りかけられ、体の精気が奪われるような感覚に陥る。

「こっちでの用事も終わったからねぇ。ちびっこにも会いたいし、そろそろ帰るねぇ。じゃあ、またねぇ」と接続は切れた。

そろそろ帰る、か。そろそろとはいつなのか。楽しみのような恐怖のような。何故かオカダはオーナーの帰国を考えると胸がザワザワとするのを感じていた。


窓の外から、ゴオオと風の音がし、窓が激しく揺れた。

そういえば、今日は春の嵐が来ると天気予報が言っていたな、とオカダは思った。




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