悪喰らい
悪喰らいの魔物というものを知っているだろうか。
罪を犯したもの、後ろぐらいものを抱えたもの。魂が黒く淀み、神でさえも目を背けたくなるような魂を持つ穢れたもの。
そんなものらを選り好み、襲いかかってはパクリと呑み込んでしまう醜い化け物。それが悪喰らいの魔物だ。
彼らは常に我ら人間の影に潜み、闇に潜み、己の腹を満たせるだけの極上の餌を探して彷徨う。時には何もない平野で。時には人の目も多い街中で。教会の中や、牢にさえいつの間にか入り込んでまで腹を満たすのだ。
彼らを追い払う術はない。生まれたばかりの赤子には手を出さないとか泣き声を聞くと逃げていくとも聞くがそれでも一時しのぎにすぎないと聞く。
―――――なれば、目の前にそれが現れたなら、如何するべきであるのだろうか。
「ひ、ひい……!」
公衆の面前で、婚約者たる第二王子を筆頭とした有力貴族の子息たちとある日ふらりとやってきた男爵家の令嬢に罪を突き付けられ今まさに地位も名誉もその命さえ奪われそうな、そんな彼女の前に、それは姿を現した。
黒い闇色の体は大きく、馬よりも熊よりも遥かに大きかった。王家に次いで豪華絢爛ともいえるような公爵家の馬車よりももっと大きいかもしれない。
体毛は鈍く光り、針金のような鋭さが窺える。目は夜空に浮かぶ満月のような丸い形をしていたが愛玩動物のような愛らしさは微塵もない。寧ろ赤々とした血色をしたその目は底知れない恐ろしさと不気味さを孕んでいる。
今は体毛に埋もれているが口を開けばもっともっと悍ましくなるだろう。ぞろりと生えそろった大小様々な歯は、罪人を苛み、口臭は卵の腐ったような生肉が腐ったような悪臭であると誰かが言っていた。
それだけではない。見ろ、あの爪を。大きな四足に生えそろった四本指に見合う大きな大きな黄ばんだ爪。その爪でどれだけの咎人を引き裂き弄んだのか、爪の合間には赤黒く変色した何かが挟まり、或はこびり付いてその爪と同化しているよう。
この世の全ての嫌悪感を寄せ集め、形を成したような醜い化け物。そんな化け物の前に晒され、顔を紙のように白くさせ見ているこちらが可哀想だと思えるほど怯える彼女の美しさ、哀れな姿はいつも通りの日常をそこだけ切り離したような異様さが漂っていた。
しかしそんな彼女の姿を嘲るものらがいた。
そう、第二王子とその取り巻き連中だ。
彼らは断罪しようと裁きを下す手が省けたと化け物が姿を現したことに歓喜の声をあげた。そして口々にいう。嫉妬にかられ純粋で可憐な男爵令嬢を苛め貶めようとした悪女には似合いの末路だと。
そして魔物が自分たちの味方だと言わんばかりに公爵令嬢を指さし大声を張り上げる。
「さぁ、醜い悪喰らいの魔物よ。その女を喰らうのだ!!」
その大声に触発されたのか、公爵令嬢にゆっくりと近づく魔物。公爵令嬢は助けて、と言葉も告げられないほどに竦みあがり、逃げようにも腰が抜けて足が、体が震えている。
周囲でこの馬鹿げた騒動を見ていた生徒、教師たちも相手がどんな魔法も攻撃も効かない化け物(災害級)とあっては下手に助けに行くことも逃げることもできない。
ただこの悲劇を、誰もが見ていることしかできない。
のそりのそりと一歩一歩近付いて行く毎に、口を三日月のように開いていく魔物。口が裂けたようににんまりとした口元は笑っているようにも見えた。
極上の獲物を前にした喜び。己がそれを誰にも邪魔されることなく味わえるという期待。そんなものを感じているよう。
やがて公爵令嬢の眼前に辿り着く。息が当たるほど、間近に来られた公爵令嬢はもう顔面崩壊といっていいほどに涙鼻水冷や汗と凄まじかったが、それでもなんとか耐え気絶寸前でありながらも己が両手を重ね合わせ、懇願を最後には神にへと捧げた。
カチカチと歯が鳴って声には出せなかったけれど、今まで愛情を持って育ててくれた両親を。これまで過ごしてきた日々が脳裏を過っていくのを止められないままに。
永遠にも思える、その僅かな時間。
魔物が眼前の獲物に狙いを定め、大きく口を開け飛び掛かるその一瞬。
憎き相手に指を指し愉快だと笑い声をあげていた王子の声も、魔物の登場に驚き、そのあまりの悍ましい姿に不快だと顔を顰めてはいたもののこれで邪魔者はいなくなると王子の腕に縋り暗い愉悦の笑みを浮かべていた男爵令嬢の視線も。
その一瞬で、全てが決まったのだ。
赤い赤い血が弧を描いて舞う。何が起こったのかわからないと呆けた顔は、次の瞬間、激痛に歪んで苦悶の叫びをあげる。上腕に近い位置から先は中途半端になくなり鮮血が噴きだし続けては地面を汚していく。
続いてあがる甲高い悲鳴。我に返り逃げようとしては足が絡んで無様に転倒し、唯一の取り柄であるその美しい顔を潰す。
誰かの眼鏡が飛び、高価な服の切れ端や、鋭い牙によって切れたブロンドの髪が少量風に運ばれ木の葉のように地へとゆらゆらと落ちる。
悲鳴を上げるしかできない壊れた玩具と化した彼女は現実を受け入れられず、ただただ私は悪くはない、何もしていない、あいつらが勝手に勘違いしただけなのだと訴えるが当然魔物には通じない。
鮮血が舞い、食べこぼした欠片が地に落ち、辺りには濃い死臭が広がっていく。
魔物はやはり、彼女を殊更に美味そうに少しずつ少しずつ喰い進めた。
まるで一番好きなものを大事に大事にとっておく小さな子供のように。人間の小娘など、その大きな口でならいっそ一口でいけるだろうに、その大きな丸い目を細めて骨の髄まで味わうよう咀嚼し、丹念に嘗め尽くした。
そして全てを喰らい終えて最後に一つ、満足そうに喉を鳴らして来た時と同じよう音もなく闇の中へと去って行った。
皆が皆、恐ろしい魔物に恐れをなし逃げ出したその場に残された彼女が助け出されたのは少し経ってから。
恐ろしさのあまり失禁し、気を失ってしまってはいたが彼女は傷一つ負うことなく生かされていた。
目覚めた彼女の傍にはこの騒動を知らされ仕事も放っぽりだし乱れた髪型も服装も直さずに慌てて彼女の元へと駆けつけた父と、恐ろしい事件に娘が巻き込まれたと知り屋敷中に響くような悲痛な悲鳴を上げ喉を傷めながらも彼女が目覚めたことに安堵し、掠れた声で娘の名を呼びよかったと泣いて娘を掻き抱いた母の姿があった。
この凄惨な事件は多くの生徒と教師に多大なるトラウマを植え付け、また悪喰らいの魔物の恐ろしさを改めて多くの民が知るきっかけとなった。
助かった彼女もまた心に大きな傷を抱え、数年ほど静かな領地へこもることになったがその領地で今まで己が培ってきた知識や魔法などの術を発揮しその地を栄えさせ、更にその地の孤児院を引き継ぎ、国に優秀な人材を送り出したそうだ。
生涯独り身を貫いた彼女だが、領民や孤児たちはまるで家族のように彼女を慕い、彼女の元にはいつも笑い声は絶えなかったという。
そんな彼女が晩年に描いた一つの絵がある。
その絵は彼女と縁のあったものから王家へと流れ、そして今日まで丁重に保管されている。
それは恐ろしい魔物の絵だったが、彼女はこう名付けていた。
“神の忠実なる僕にして救世主”と。