開店準備をいたします
馬車に揺られることおよそ二時間。
緑の広がる郊外を脱し、市門を潜り抜けると、そこには世界有数の美しい大都市が広がっていた。
この町の中心には王城がある。
王城周辺は門と城壁に囲われており、その中に邸宅が持てるのは大貴族の証だった。
ヴィオレッタの家も、もちろん城壁の中だ。
ヴィオレッタがシュガー公爵邸の玄関ホールで背伸びをしていると、父親のシュガー公爵がやってきて、ヴィオレッタを抱きしめた。あらかじめ昨日のうちに電報を打っておいたので、娘の帰りを待っていてくれたのだろう。
「ああ、ヴィオレッタ! なんということだ!」
「お父様……」
「たいへんな目に遭ったね! 平民ふぜいが我が公爵家の顏に泥を塗ろうなど度し難い傲慢だ! 万死に値する! すぐに誅そう!」
「お、お父様、落ち着いて……」
ヴィオレッタの父親、シュガー公爵は、典型的な『悪代官』だった。
娘かわいさに強引に王子との婚約を取りつけようとしたはいいものの、王家の側はそれほど気乗りしない様子。それを黙らせたのがシュガー公爵と、シュガー家がもたらした、ちょっと尋常じゃない量の財産だった。
そう、シュガー公爵はとても仕事ができる『悪代官』だったのである。
「しかし、いったいどういうことなのだね? 頭から硫酸を被ろうとしたとは?」
「あら、もう事件の詳細までご存じでしたのね」
「電報を受け取ったその日に洗いざらい調べさせた」
さすがは悪代官。悪いことをしてお金を儲ける大人は賢くないと務まらない。
「まさかお前がそこまで王子との婚約を嫌がっていたとはパパ知らなかったぞ。どうしてそんな恐ろしいことをしようと思ったんだい? 相談してくれれば、平民ふぜいなどパパが硫酸風呂につけこんでやったのに」
「お父様、すべて誤解なのですわ」
硫酸事件はでっちあげであること、気づいたら悪者にされていたことを説明すると、シュガー公爵は目の色を変えた。
「……まさか、アルテス殿下までもがグルになってお前を陥れようとしたというのかい?」
「ええ、おそらくは……」
「なんたる侮辱だ! よし! 誅そう!」
「お、お父様、落ち着いてくださいまし!」
「やはりあいつは玉座にふさわしくない。私が実権を握ったほうがまだしもだ!」
「あ、やっぱり本音はそれなんですのね、お父様……」
シュガー公爵は現王家の傍流。つまりアルテスとヴィオレッタは親戚同士の間柄となる。
近い親戚同士の結婚は本来禁止されているのだが、シュガー家は多少の無理がきくほどの大公爵家である。もしも現王家の有力な王位継承者、すなわち王子のアルテスが亡くなったら、次に玉座につくのはシュガー公爵となるだろう。
「だいたい私は初めからあの王子が気に食わなかったのだ。あの目つき。父親の国王そっくりだ」
「とても個人的な恨みですのね、お父様」
「しかし可愛いお前がどうしてもあの王子と結婚したいとねだるから、それならば私の屈辱はさておき、温かく応援してやるかと思っていたのだぞ」
「やだ……お父様ったら娘思い……」
「当たり前だろう。私はお前の幸せを一番に願っているのだ。王子など物の数にも入らん。絶対に目に物見せてくれるわ。覚えておれよ」
「完全に悪役のセリフですわ、お父様……」
ヴィオレッタはやや不安になった。
ゲームでのヴィオレッタは悪役令嬢で、学園でもその通りに振る舞うことを余儀なくされた。
これまではシナリオ通りだったが、ヴィオレッタが退場した後のことは、どのシナリオでもほとんど書かれていなかったように思う。
ルート分岐が多いゲームなので、製作側もそれぞれのルートを詳しく掘り下げて書く余裕はなかったのだろう。
エンディングに用意されたテキストの量も、多くはなかった。
つまり、ヴィオレッタがこの後どうなるかは不明。
なんとかヒントになりそうなものとしては、王子とユヅキのハッピーエンドシナリオがあげられる。ユヅキは王子狙いだったからだ。
それはそれは、とても幸せそうな内容だった。二人は周囲の反対を押し切って交際を開始。主人公のユヅキは貴族になるための王妃教育で毎日大変だけれど、結婚に向けて幸せいっぱいにがんばっています、と結ばれていた。
もしもそのシナリオにも強制力が働くのだとしたら、ちょっかいをかけようとするのは危険かもしれない。
目に物を見せようとしたシュガー公爵の方が、逆に『目に物を見させられる』のではないかと、ヴィオレッタは危惧した。
「お父様、わたくしもう王子殿下のことはこりごりですの。二度とお顔を拝見したくありませんし、お父様がお名前をおっしゃるのすら嫌ですわ」
「おお……そうだったか。すまない……」
「お父様も、これからはもうアルテス様のことはお忘れになって。初めから婚約などなかったものだと思っていただきたいんですの。初めから婚約などしていなかったのですから、わたくしは何の侮辱も受けておりませんわ。仕返しなど、する時間の方がもったいないというものでしてよ、お父様」
暗に手出しは無用だということを言い含めると、シュガー公爵はやや不服そうにしながらも、うなずいた。
「そうだな。それでお前の傷が癒えるのなら、パパは喜んでそうするよ」
「うれしいわ、パパ大好き」
デレデレしているシュガー公爵に、「それよりも」と話を振る。
「わたくしを学園に送り出していただきありがとうございます、お父様。とっても有意義な時間を過ごせましたわ。やりたいこともたくさん見つかりましたの!」
「おお……なんと前向きなのだ。つらかったろうに……」
シュガー公爵には、つらいことがあっても前向きに努力する健気な娘にでも見えたらしい。どちらかというと婚約破棄をされて大喜びしているのだが、ヴィオレッタは訂正しないことにした。
「こうなってしまっては、わたくしはもうまともな縁談など望めないと思うんですの。お父様のお嫁さんにしていただけるのなら、喜んでそうするのですけれど……」
「なんと愛らしいことを言うのだ……!」
シュガー公爵は、底なしの親バカなのだった。
「ですから、ひとりでたくましく生きてゆくために、少し見聞を広めとう存じます」
「そうだな、しばらくはビューティー夫人のサロンにでも通うといい」
この国では、貴族に生まれた男子と女子はみな、王様のお城に自由に出入りする権利を熱望している。そう、誰もが王様のお城に入場できるわけではないのだ。そのため、これはという才能を見出された、前途有望な少年、ないし美貌の少女は、まず、『社交界』に出入りして、せっせと『パラメータ』を稼ぐことになる。
『パラメータ』が一定値を超えると、王城に入る権利が手に入るのだ。
ただしこの世界の人たちには『パラメータ』は見えないらしく、存在を認識しているのは今のところヴィオレッタだけだ。
――ステータスウィンドウが見えるのって便利よね。
どうしてヴィオレッタにだけ内部データが見えるようになっているのかは分からない。
しかしこれのおかげで何度も窮地を助けられたのである。
ゲームの主人公の場合は、庶民なので最初はどの『社交界』にも参加できない。しかし、『パラメータ』が一定値を超えるとヴィオレッタの目に留まり、ビューティー夫人の『ティーサロン』に参加するようになる。これが『社交界』へのデビューとなっているのだった。
ちなみにこのイベント――ユヅキの『社交界』デビューも、学園内ですでに終わっている。
ユヅキのパラメータのうち、『才知』と『気品』が一定値を超えたところで、ヴィオレッタがゲームのシナリオ通り、ビューティー夫人の『ティーサロン』に紹介した。
ユヅキは厳しくも優しいビューティー夫人の指導で『社交界』にふさわしい振る舞いやドレスなどを学び、しまいには本物の淑女に化けた。
「いえ、ビューティー夫人の『ティーサロン』はちょっと……そちらでユヅキさんと鉢合わせしてしまったらと思うと、わたくし目まいが……」
「ああ、そうだったな! まったく、どこの馬の骨とも知れないしょんべんまみれの平民娘などを平等に仲間扱いしてやったお前に対してなんて仕打ちだ! 怒りがにえたぎるわ! 恥を知れ恥を!」
「お父様、下町言葉はおやめくださいまし」
「すまぬ、しかしどうしても腹に据えかねるのだよ……」
ヴィオレッタはなだめつつ、父親が怒ってくれたことは嬉しいと思っていた。
「……やはりあの娘、どうにかして風呂に……」
「いえ、その件は本当にいいのですわ。それよりも、お父様に折り入ってお願いがございますの。少し贅沢をしてしまうのですけれど、お許しいただけるかしら?」
「なんなりと言いなさい、いつも言っているだろう? うちにいる限り、お金の心配は無用だとね」
「ありがとうございます、お父様。であればわたくし……」
ヴィオレッタはにこりとした。
「自分で『ティーサロン』を開きとう存じます」