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世界は協調の中にこそある

 職場の飲み会の途中だったはずだ。それくらいの記憶はある。だが、気が付くと職場仲間は消えていて、杉崎の目の前には見知らぬ女が座っていた。

 顔は濃い目だが、いい女だった。少なくとも杉崎にはそう感じられた。

 そこはダイニングバーで、橙色に照らされる店の薄暗さが、妙にその女とマッチしていた。

 「あら? 起きたのね。あなたの事を職場のお仲間さん達から頼まれてね。私は遅くまで飲んでいるつもりだったし、ついでにと思って引き受けたのよ」

 杉崎が起きたのに気が付くと、女はそう言った。

 一瞬、杉崎はそれを聞いて怒りを覚えた。“俺を置いて行きやがって”と。だが、それからふと考え直す。職場仲間はこの女と自分を二人きりにする為に敢えてそうしたのかもしれないと思ったからだ。

 ならばこれはある種のプレゼントなのかもしれない。

 が、それからその女はいかにも馬鹿にした口調でこう彼に告げたのだった。

 「あなた。随分と職場の同僚から嫌われているのね。“こいつの介抱なんかしたくない”って感じで、皆そそくさと店を出て行ったわよ」

 それを聞くと、杉崎は頬を引きつらせた。同僚達にも腹が立ったが、それよりも目の前のこの無礼な女が許せない。

 「は? 初対面の男に随分なことを言う女だな?

 が、まぁ、確かに嫌われてはいるかもしれない。俺はあいつらよりもよっぽど優秀でね、あいつらはそれを妬んでいやがるのさ」

 その言葉を聞くと、女は呆れたような表情を浮かべてこう言った。

 「それが例え事実だったとしても、それ以外にも理由がありそうに私には思えるけど? あなた、“協調”って言葉を知っている?」

 「協調? は! くだらないね」

 「どうしてそう思うのかしら?」

 「単なる綺麗ごとだからさ。それにどんな意味があるって言うんだ?」

 「綺麗ごと? でも、世界は協調の中にこそあるのよ」

 それを聞いて杉崎はこう思った。

 “見た目に似合わず、安っぽいことを言う女だ。気に食わない”

 「違うね。世の中は弱肉強食だ。弱けりゃ負けて食われて、勝った方が生き続ける。だから強くなって奪い続ける必要があるんだよ。協調なんて重視していたら負ける。その証拠に世界から戦争はなくならないだろうが」

 それを聞くといかにも馬鹿にした感じで女はこう返した。

 「本当にそう思っているのなら、単なる無知ね。世界は協調で満ち溢れているのよ。当たり前すぎて気付かない程に。だから却って奪い合いが目立つのかもしれないけど、本当は単独で生きている生物なんて、ただの一体もいないのよ」

 それを聞くと、杉崎は「ほぉ」と言い、こう続けた。

 「なら、説明してみろよ。どんな生物がどんな風に協調しているんだ? 断っておくが、特殊なケースは認めないぞ? 何処にでもあるような有り触れた話をしてみろよ」

 すると女は「いいわよ」と余裕の表情で説明を始めた。

 「人間の母乳には腸内細菌が含まれているって話を知っている? 母体はわざわざ腸内にいる細菌を運び、それを乳に混ぜて赤ん坊に与えているのよ。それだけじゃない。母乳の中には人間には消化できないオリゴ糖が含まれている。これはなんと腸内細菌の餌であるらしいわ。

 もちろん、そんな事をしているのは、人体にとってそれだけ腸内細菌が有用であるから。つまり、私達と腸内細菌は協調し合って生きているってわけ」

 「それが何処にでもある話か?」

 と、それを聞いて杉崎は言った。女は憮然とした様子で返す。

 「何処にでもある話じゃない。人間でそうって事は他の生物でも同じって事よ?」

 それを聞くと彼は肩を竦めた。

 「俺には特殊なケースに思えるね。そんなんじゃ納得できない。お前は“世界は協調の中にこそある”とまで言ったんだ。そう思える話をしてみろよ」

 「そう? なら、もっと他の話をしてあげる…… でも、ただ話すだけじゃつまらないわね。そうだ。あなたにリスクを背負ってもらおうかしら?」

 「リスク? どういう意味だ?」

 「簡単よ。あなたに協調がなくなった状態を実際に体験してもらうの。できるわよね? 協調なんてくだらないとまで豪語していたのだから」

 女のその言葉を彼は馬鹿にした。

 「構わないぜ。やってくれよ」

 それを聞くととても嬉しそうな顔を女は浮かべる。

 「オーケー。

 まずは手始め。あなたの着ている服は、他の人が作ってくれたもの。あなたは“自分の仕事”とそれをお金を介して交換し、手に入れている。

 これは、協調行動と言えるわ」

 そしてそんな事を言った。

 邪気のなさそうなその態度が却って不気味だった。そしてその瞬間、なんと何故か突然に杉崎の着ている服は全てなくなってしまったのだった。

 「なんだこれは?」

 戸惑っている彼に向けて女は言う。

 「だから、協調行動がなくなった状態を体験してもらうって言ったでしょう? それで服がなくなったのよ。

 それにしても、あなたの体は、だらしないわね。この世界は弱肉強食なんじゃなかったの? そんなんじゃさっさと負けて食べられちゃうわよ」

 普段の杉崎なら、その言葉に腹を立てているだろうが今はそれどころではなかった。

 “なんだ? 何が起こっている? この女は魔女か何かか?”

 「当然、同じ理屈でこの店のお酒も飲めない」

 そう女が言うと、今度は目の前にあった彼の酒が消えた。そこに至って、彼は急速な危機感を覚える。

 “どうして消えるのか分からんが、大丈夫だ。どうせ、ここにあるものしか消えないだろう。なら、大した被害は受けないはずだ……”

 その危機感を無理矢理に抑え込む為に彼はそう思い込もうとした。しかし、そこでまた女は口を開く。

 「あなたの車も家も当然、同じ理屈で手に入れる事はできない」

 すると、彼の頭の中で車も家も消えてしまった。自分がそれらを所有しているとは何故か思えず、深い喪失感を彼は覚える。

 くそ! バカな……

 そこで杉崎は堪らずに叫んだ。

 「違う! 服も酒も車も家も、協調なんかで手に入れた訳じゃない! 俺は金の力で奪ったんだ!」

 その後で、ハッと気づくと目の前には彼の酒が再び現れていた。身体を見てみるとちゃんと服も来ている。そして彼の頭の中の車も家もやはり彼の物になっていた。

 それを見てか、女は言う。

 「あら? 見上げた根性だわ。跳ね返せるとは思っていなかった」

 その言葉を受け、冷や汗を浮かべながらも杉崎は苦し紛れのような笑いを浮かべるとこう言った。

 「なんだお前は? 催眠術でも使えるのか?」

 女は面白そうにしながらこう返す。

 「さぁね? これが催眠術なのかどうかはあなたが選んでちょうだい」

 “俺が選ぶ? 戯けた事を言いやがって……”

 杉崎がそう心の中で呟いたが、そこで間髪入れずに女はまた語り始めた。

 「続けるわよ? あなたがお金を稼げているのは、同僚達と協力し合っているから。つまり、協調行動よ」

 しかしそれに彼は“要領は覚えた”とばかりにこう返す。

 「違う! 奴らは俺の能力を必要としている! だから俺の支配を甘んじて受け入れているだけだ!」

 「それは協調しているとも表現できない?」

 「違うね」

 そう言い終えた彼は「フーッ」と鼻から息を吐き出す。なんとか耐え切った。その後で彼は笑った。強がっているようにも見えたが、彼自身はそうは思っていないようだった。

 「よく分からねぇが、もうそんなの効かねぇぞ? さぁ、どうするよ?」

 それを聞くと女は呆れたように笑った。

 「安心して。こんなの序の口よ。言ったでしょう? “世界は協調の中にこそある”のよ。あなたはそれをこれから思い知る事になる」

 「ほぉ 面白い。やってみろよ」

 「言われなくても」と言うと、女はこう続けた。

 「あなたは口から水や食べ物を取り入れ、胃でそれを溶かし、腸内細菌の力も借りてそれを吸収、血液に乗せたそれを心臓で全身に巡らせる事でエネルギーや栄養を得ている。もちろん、これらは協調行動。

 それがあなたから消える」

 それを聞いた途端、杉崎は激しい飢えと渇きを覚えた。身体が食料と水を欲している。堪らず目の前の酒を飲みこんだが、何故なのかまったく渇きは癒えなかった。

 女はまだ続けた。

 「あなたは口から空気を吸い、肺でそこから酸素を血液内に吸収し、ポンプである心臓がそれを全身へと送っている。これらももちろん協調行動と言える」

 その後で、彼は心臓、或いは肺を握り締めるような動作をしつつ苦しみ始めた。

 「が…… 息が吸え…… ね」

 女はそんな彼の様子を見ながら言った。嬉しそうに。

 「もう充分かもしれないけど、まだあるわよ。あなたの脳や神経を含めた肉体は細胞によって形成されている。その細胞はもちろん、協調行動によってあなたを形作っている。更に、細胞自身でさえも、各パーツが協調する事で機能している…」

 そこで杉崎の意識は消えた。

 そのまま机の上に倒れ込んだ。机に額がぶつかり、ガシャンという音が店内に響いた。女は最後に言う。

 

 「あなたの脳を形作る細胞の一つ一つが協調行動を止めてしまったなら、あなた自身すらなくなってしまうのよ。

 ね? “世界は協調の中にこそある” でしょう? あなた自身という世界は、協調がなくなれば消えてなくなってしまうのですもの」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 女が、男という一人の人間の自然科学的生物的な小さな範囲での協調をどんどん崩していきつつ、全体としては、男と協調を崩して社会的な協調を崩しているところ。両面的に協調が崩れた場合というのを男に…
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