バレンタイン、朱里奮闘記、中
さて、二月十四日。
思えばこの日にくるとは限らないことを今さら思いつつ、なんとなくそわそわと境内を行き来している朱里。
思えば巫女袴も板についてきた。正式な巫女でも、それどころかアルバイトですらないのだが、実家から大学へ通う彼女には特に切羽詰った金銭の事情もなく、他にやりたいこともない中で、今、巫女の仕事は学校外のサークル活動くらいの位置付けになっている。
仕事の多くは櫻花の手伝いや補佐だ。櫻花は巫女だが、地位はれっきとした神職であり、事実上神楽神社の管理を行っている。立場的にはもっと地位の高い、宮司と呼ばれる責任者はいるものの、実際に多くの仕事を任されているのは彼女であった。
舞や作法の練習、祈祷、神社の清掃、修繕、各種行事の開催や守り札の販売、そして神社を護るための鍛錬まで、櫻花の仕事は少なくないから、補佐を行う朱里も退屈しない。
巫女の衣装を常に纏うのも、それによって袴の所作を覚えることが肝要であるためだ。 和服は特に、着慣れているかどうかは動作一つでわかってしまうものだから、櫻花は朱里を教育する上で、その点を徹底させていた。何せ二年後には彼女に日本の命運をかけなければいけない。
その辺をなんとなく疑問に感じつつもゆるく受け止めている朱里の性格も手伝って、彼女は今、一日の半分を巫女として過ごしていた。
札の整理を行っている彼女の袂には例のチョコが納められている。何せ彼がいつ来るか見当もつかないので、手元においておきたかった。
……そんな折、櫻花が彼女の元へ駆け込んできた。珍しく神妙な面持ちである。
「救難信号をキャッチしたからちょっと留守番お願いね」
「救難信号?」
「うん、たぶん鬼が出た」
神社の中には、そういう波長を傍受できる設備のある神社がある。もっとも、鬼が出す気のようなものをキャッチするわけではなく、あくまで鬼を見つけた者が専用の発信機で信号を送らないといけないから、一般市民がその存在に気づくことはないし、発信元も限られる。それが今回つまり……
「え? あの人なんですか!?」
「そうそうそう」
例の架沓師のようだ。ちなみに名を"榊"という。
「札やお守りはあたしたちの生命線でもあるからね。鬼も兵站線を狙う専門の殺し屋がいるんだよ。ほら、節分で黄泉比平坂が開いたでしょ? あの時、だいたい何匹かこの世にまぎれて姿を隠しちゃうんだよね」
そしてそういう破壊工作を行うらしい。
救難信号は、それを傍受できる近隣の神社すべてに飛ぶ仕組みになっている。傍受できる神社には必ずそれを対処できる神職が常駐しているから、信号を受け、その現場に複数の神社から救援がくる仕組みとなっている。
「ただ、ちょっと遠いんだよね。あたし間に合うかなぁ……」
「どこなんですか?」
櫻花は懐から地図を取り出すと朱里の脇に肩を寄せてそれを開いた。ある一点を指差して、
「この辺みたいだね。高速使ってぐるっと山の向こうまで行かなきゃいけない」
指し示した場所は大きな山脈を挟んで向こう側である。高速は山を迂回するように通っており、最寄のインターから一般道に入ってその場所を目指すと二時間はかかるだろう。
「電車も通ってはいるけど、待ち時間も合わせたらもっと時間かかるからなぁ……」
「車で行くんですか?」
「まぁね。間に合うといいけど……」
「櫻花さん。車で行くなら」
朱里は地図の上に指を走らせながら言った。
「ここに峠の道があります」
その軌道は明らかに山を突っ切っている。櫻花は顔をしかめた。
「あんな細い道どうすんのよ……。あたし一回通ったことあるけど対向車きた時は泣いたわよ」
「大丈夫ですよ。何とかなります」
「ならないわよ! アンタは免許も持ってないから簡単に考えてるみたいだけど、あの峠は毎年何台か崖から落ちてんのよ!?」
いくつか危険地帯があり、通称『奈落峠』と呼ばれている場所だ。
「すっごい曲がりくねってるし、あんな道なら素直に迂回した方が速いのよ。とにかく時間ないから。留守番頼むね」
「あのーぅ……櫻花さん」
「なによ」
「わたしなら四十分でいけます」
「はぁ!?」
素っ頓狂な表情から飛び出す悲鳴にも似た叫び。
「寝言は寝てから言いなさいよ!! それとも今どきの平成世代は空でも飛べるっての!?」
「空は飛べないですけど、わたし、実は免許持ってます」
「あっそ」
これ以上ないくらいそっけなく相槌をうった櫻花は急いで地図をたたむ。が、そのために下を向いていた櫻花の頭のつむじに、さらに信じられない言葉が降りかかった。
「だから、一緒に行きます」
「はぁ!?」
「わたしが運転していけばいいと思います」
「……」
櫻花はしばし沈黙する。
思えば彼女が自分から仕事を買って出たことなど一度もない。表情はいつものゆるい朱里のままだが、その表情から強がりやホラが飛び出したことも一度もない。
「……よくわかんないけど……わかった」
今までの経験から、信号受信後二時間は絶望的だ。しかし四十五分なら、あるいは他の戦巫女が間に合っていれば力を発揮できる可能性もあった。
「……アンタに期待するね。はい、車の鍵」
「そしたら着替えてきますね」
「時間ないって言ってるでしょーーーー!!!」
「だってこの格好で運転するんですか?」
「しょうがないでしょ!!」
「しにくそう……」
「股立ちでも取っときなさい!!」
……先が思いやられる……。櫻花はどっと押し寄せる不安を振り払うように叫んでいた。
が、この後、櫻花が不安を口にする余裕はなかった。
「ちょっっっ!!!!!!」
という表情(?)のまま、助手席で凍り付いている。裏道裏道を行く車は一度も信号に引っかかることもなく、片田舎の街にタイヤのゴムの焼けるにおいをのみ残して、一瞬で風景から消えていった。その速度は櫻花が体験したことのあるどのジェットコースターよりもはるかに高い。
「ちょっと!!!!! ブレーキ、ブレーーキィィィィ」
「大丈夫ですよ。ちゃんと踏んでます」
「全然足りてないぃぃぃぃぃ!!!!」
「あはは、足りてなければ曲がれませんよ」
櫻花の車は、過給機はついていても普通の軽自動車だ。それがまるでラリーカーであるかのように軽快に路地を往く。
「大丈夫です。細い道で縁石が近いから速く見えますけど、実際はそこまで速くないです」
「速いわぁぁぁぁ!!!!」
繰り返すが恐ろしい速度である。足を踏ん張ろうとしても前後左右に身体が振られる方向が一瞬で変わるので、どう踏ん張ったらいいかわからない。
「普段街中ではこんなに飛ばしませんよ」と言う朱里だが、普段の控えめな彼女からは思いもよらないような攻撃的なハンドルさばきに、櫻花は呆然とするばかりだ。
「何でアンタこんなスピードで走れるのよーーーー!!!」
「兄が車が好きなんですよ。初め隣に乗せてもらってたんですけど、ちょっとやってみたらわたしのほうが上手になっちゃいました」
「悪かった!! だからこっち見てしゃべるなぁぁぁぁ!!!!!」
縁石をこするようにして最短距離を抜けていく車は、吐き出されるように国道に飛び出して、またすぐに支線に入る。その道を登れば峠道だった。
「ゆっくりぃぃぃぃ!!!! ゆっっくりぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
「大丈夫です。ほら、人も対向車もいないですから」
「このままじゃ、そのなにもいないところで孤独死するわよぉぉぉぉ!!!」
パワーがない……アクセルをベタに踏む朱里は苦い顔をする。
「櫻花さん、四十分はちょっと無理かも……」
「いいから安全運転しなさいぃぃぃ!!!!」
「安全ですよ。ぶつからなければ怪我しませんし」
言うなり後輪が滑る。
「ほら滑ってんじゃないーーーーー!!!」
「滑らせたんです。間にあわなそうなので、本気出します」
「出すなぁぁぁぁ!!!」
朱里の左手がかかっているサイドブレーキがクッと引かれるたびに、フロントガラスから見える風景が瞬間的に入れ替わる。その角度によっては崖の向こうが見え、そのたびに櫻花の悲鳴が舞った。
「落ちるぅぅぅぅぅ!!! 死ぬーーーーー!!!! しぃぬぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!!」
「大丈夫です! ここは思いっきりアクセル踏んでも平気だって教えてもらいました!」
「だれだそいつーーー!!! 後で絶対殺してやるぅぅぅ!!!!」
「パワーがないから、速度を落とさないようにしないと!」
やや横滑りしたまま山道を駆け上る車。時折前を走る車に追いつくが、ほんのわずかな隙間でそれを抜いていくとハザードをたいて走り去る。
「櫻花さん……思うんですけど……」
「なによーーーー!!」
長い直線に入って横揺れが収まると今度は座席に押し付けられるような感覚が襲う。ぐんぐんせまる山の岩壁に激突する恐怖を感じながら闇雲に櫻花が叫べば、朱里はやわらかく言った。
「やっぱりさっきのチョコの話……おかしくないですか?」
「そんな話、今するなぁぁぁぁ!!!!!」
対照的な二人の巫女を乗せた車は峠を越えて下り坂に差し掛かる。
「ここからはもうちょっと速くいけると思います!」
「いくなぁぁぁぁ!!!!」
重力は下に向いているからエンジンパワーが多少足りなくても、速度を上げることができる。股立ちを取った襷掛け巫女の全開ダウンヒル……萌えるだろうか?
「全然萌えないわよぉぉぉぉ!!!!」
奈落が見える櫻花の目は半泣きで、転げ落ちていくような錯覚すらする車の中で必死に踏ん張っている。フロントドライブの車に慣れない朱里だが、縁石の落ち葉を巻き上げながらさらに速度を増していった。
「ブレーーキィィィィィ!!!」
「踏みます! 踏ん張って!」
長い直線から一気にUターンするほどに曲がった左カーブ。車は大きく減速するためにフロントを大きく沈めた。
「うぎゃぁぁぁぁ!!! ブレーーキするなぁぁぁぁ!!!!」
「どっちなんですか……」
そのまま、独楽のように旋回したために、一瞬で風景がひっくり返る。櫻花が目を開けたときには、すでに車は何もなかったかのように、次のカーブへと食らいついていた。