8月9日、七夕、星に願いを、下
外陣という薄暗い回廊に出てくると、櫻花は懐からなにかを取り出した。
「アンタちょっと、この鼻メガネしなさい」
「ええーーーーーー!!」
黒縁メガネに、明らかにふざけた目が描いてある鼻付属のめがねである。
「これはさすがにちょっと……」
縦にしたり横にしたり、いろいろ思案した挙句に遠慮深げに言う。
「ちょっとね、これは非常事態よ? あたしにも予想もつかない事態が起きてる。アンタ、このままじゃ次期織姫候補になっちゃうわよ?」
「織姫になっても大学いけますか?」
「馬鹿なの? とにかくその鼻メガネしなさい」
「こんなのは嫌です!!」
まぁ、二十歳の女性の九割はそう言うだろう。
「じゃあちょっと殴らせなさい」
「なんでですかぁぁぁ!!!」
「アンタちょっとかわいすぎるのよ。顔がアンパンマンみたいになればアンタがセクハラを受けることはないはず」
「無茶言わないでくださいーーー!!」
「じゃあどうするの。いざって時のためにこの貞操帯つけとく?」
懐から黒い鉄の下着のようなものを出す櫻花。
「あなたの懐はどうなってるんですか!!」
「巫女の懐は奥が深いのよ」
……まったく意味が分からない。
「とにかく! こんなパンツ、はけません!」
「もぅ……平成世代はわがままだナァ……」
「昭和世代は横暴すぎますーー!!」
しかし、今回は成功すれば願いがかなうのだ。普段ならとっくに「帰る」と言ってそうな朱里がそういう方向へ話を持っていかないところから、彼女の覚悟が覗える。
思えば神楽神社と関わってから苦節半年……鬼に殺されかけて850円。巨大ヘビに食われかけてノーギャラ……あまりに報われない。
そろそろいいことがあってもいいんじゃないかと思った矢先のこのチャンスである。彼女にしてもそうそう逃したくはなかった。
「絶対さ……」
櫻花がつぶやく。
「読者の中にはまた詐欺られてんじゃないの? って思ってる奴いるよね」
「えええ!!! 詐欺なんですか!?」
というか、詐欺った自覚があるのか。
「違うって。神様の力、ナメちゃいけないよ」
筆者側のツッコミは無視して、櫻花は彦星のことを語りだした。
八百万信仰の神教だから神の数はそれこそ数え切れないし、中には本当にささやかな力しか持たない神もいるが、彦星の神としての地位は決して低いものではない。
前回御神楽奉納の時に現れたヤマタノオロチとは比べるべくもないものの、日本の行事に今も受け継がれるほどの知名度の高さは同時にその地位の高さを示している。
七夕において短冊に願いを込める風習も、彼がそれをかなえるだけの力があることの名残りを現在に伝えるものであり、実際、彼はその活動をやめたわけではなかった。
「とすると、今もお願いをかなえてるんですか?」
「うん、あまり気づかれてないけどね」
「そうなんだ……」
あまりそのような実感は沸かないわけだが、実際、『願いをかなえる』と言うことは神を持ってしても簡単なことではないらしい。
「例えば誰かが『一万円ほしい』ってお願いするっていうことは、誰かが一万円を失うっていうことでしょ? そのつじつま合わせって言うか、バランスが難しいらしいよ」
だからあまり私利私欲にまみれた願いは後回しにされてしまうのである。
(お願いかぁ……)
説明に納得した朱里の気持ちが再びそちらに向く。
バランスが難しい……と櫻花は言ったが、同時に『直接願いをかなえてくれるんだから、その優遇っぷりは半端ない』とも付け添えたので、期待ができる。
すると……なにを願おう。
お金?彼氏?なにかの能力?……ずっと若いままでいられるとかありなんだろうか。どの程度のつつましさならすぐに実感の沸くお願いとなるのだろうか。
「そういえば、櫻花さんは今までどんなお願いをかなえてもらったんですか?」
「え?」
「彦星様は毎年来るっていうことは、お願いをかなえてもらったことがあるんですよね?」
「ことがあるっていうか、毎年ね」
「なにをかなえてもらったんですか?」
欲望が果てしなく膨らむ朱里に、櫻花は平然と答えた。
「神楽神社が今年も幸せでありますように、だよ」
「は……?」
思いもよらぬ答えに、一瞬息が止まる。
「そんなお願い……?」
「そうだけど、なんか変?」
「えっと……たとえば、アレがほしい……みたいなお願いはかなわないですか?」
「いや、かなうと思うよ」
「そ、それなのに、櫻花さんはそんなお願いをしてるんですか?」
「え? どういうこと?」
「なんでそんなささやかな願いなのかってことです」
「ささやか?」
櫻花は真剣に首をかしげた。
「だって、櫻花さんはほしいものとかないんですか?」
「あるよ」
「だったら……」
「でも、なんかほしいみたいなちっっっちゃい願いより、よっぽどすごい願いじゃない?」
「……」
「神社が平和で幸せなんだよ? それ以上になにを望むのさ」
「……」
朱里が呆気に取られたところで、話は一段落した。意味のないやり取りのようで、二人は彦星ショック(?)から互いに落ち着くことができたらしい。
「たぶん間違いなく朱里も願いをかなえてもらえるから、とりあえずがんばろうね」
「はい」
「だからこの鼻めがねしなさい」
「でもそれは……」
「貞操帯の方がいい?」
どんな二択だ。
「わたしが我慢すればいいんですよね?」
「……」
櫻花はそこで、少しの沈黙を置いた。そして、「まぁいいけどね」と言い捨てる。その物言いにはうすら暗いものがあったが、その意味を朱里が推すことはできなかった。
内陣に戻れば、すっかりできあがった彦星がいる。
「遅かったなぁ。もういくつか空けてしまったぞ」
空の酒瓶を一つ持ち上げて彼は笑う。櫻花は空になった一升瓶をまとめながら、
「いくつかというか、全部ですね。今次をお持ちします」
と言って朱里に空瓶を渡す。そこで彦星。
「朱里は置いていけ」
すかさず櫻花が返した。
「無理です」
「無理とな?」
「彼女は持病の七夕アレルギーを患っております」
「そんな持病は聞いたことがないぞ」
「平成二十三年に発見された新種です」
「どうなるのだ」
「七夕の象徴であらせられる彦星様に触れられると股間に男性器が生えてきて男となってしまいます」
「……先ほど触れなかったか……?」
「そうです。だから朱里はもうすでに男となってしまいました。ご覧ください。この男っぷりを」
櫻花が朱里に促す。
「え? え?」
「男も、しかもすっごいオッサンです。ほら、鼻くそほじりながら、その指見て親父ギャグとかかましますよ」
「えええーーーーーー!!」
「その後くっさいオナラもかましますよ」
「ええええええーーーーーーーーー!!!」
「やめんか」
彦星が静かに言う。
「『そんなことできるわけない!』と顔に書いてある」
「え? そうですか? それはいけない! 持病の「ウソが顔に出ちゃう病」が出たようですね!! ちょっと顔を洗わせてきます!!」
「またんか!!」
彦星の目が据わってくる。
「男でもオッサンでも屁が臭くてもよい……」
朱里が裏で「よくないですーーーー!!!」と叫んでいるが、そんなものもお構いなしに彦星の怒声がとんだ。
「いいからその娘をよこさんか!!」
「……」
櫻花も、ここまでストレートに言われると返す言葉もない。
ただ、その目は異様な殺気が帯びている。口を真一文字に閉じて、しかし作法だけは一つも忘れずに、「お神酒をお持ちします」と三つ指を立てて、部屋を静かに出て行った。
櫻花が新しいお神酒を携えて内陣に戻ってきた時には、彦星はすっかり機嫌を直し、朱里を肴にして戯れていた。
朱里はこのような席には慣れていないのだろう。彦星の言葉や行動に振り回されるのに耐えながら、必死に作り笑いをしている。
すべては願いをかなえるため、というのなら見上げた根性だが、そんな朱里の現金さに、今は少々腹が立つ櫻花であった。
「お神酒をお持ちいたしました」
彦星は酒瓶の首を見もせずに掴み朱里に持たせた。酒瓶の消えた手元を、まるで超能力で消されたかのように見ていた櫻花だったが、やがて音もさせずに二歩ほど下がり、正座する。そして、苦いつばを飲み込んだ。
……目の前に、神の手の中で転がされている朱里がいる。
櫻花は生まれた瞬間からこの神社で生きているから、彦星とはそれこそオムツが取れない頃からの仲だ。
彼は、生後間もなく親の消えた自分を、まるでお手玉のように大胆にもやわらかく扱ってくれた。
いや、幼い頃だけではない。それからずっと……年に一度、七夕の日は自分はあの手の中だった。身体は大きく、いろいろなところが膨らんだが、それでも気持ちは幼い頃のまま、彼に全身をゆだねるのが大好きだった。
じゃれてじゃれて、甘えさせてくれる時のしわだらけの笑顔が大好きだった。その絆は、ちょっとかわいい子をはさんだくらいでは揺らがないと思っていた。
……それなのに、手に届く距離にいる神は今、世界すらかけ離れているほどに遠く感じる。
それが、それが……
「いやだ!!!!!」
正座から飛び上がるように立ち上がる櫻花。その目はまるで夫の浮気現場を目の当たりにしてしまった家内のようだ。その様を呆然と見上げる二人に間を与えず、懐からハリセンをとりだすと、猛然と踏み込んで彦星へ振り下ろした。
ぱぁぁぁぁぁん!!!!
はじける音。しかしその音は床を打ったものだと知った櫻花は、その寸前で目の端に映った彦星の裾の先を追った。
飛び退って彼女を見下ろすその姿は、一メートルほど浮いて止まっている。
「どうした。櫻花」
「うるさーーーい!! もう帰れ!!! 二度とくるなぁぁぁぁ!!!」
櫻花はさらに懐から小さなフリスビーのようなものをいくつか取り出して彦星に投げつける。それは宙を斬り、彦星の背中の壁を次々に穿った。
彦星はその軌道から五十センチほどずれて平然としている。が、攻撃を避けることを櫻花は承知の上。避けた方向へ吸い寄せられるように舞い上がった戦巫女の、ハリセンの一撃が彦星に襲い掛かった。
「忙しいのだ。お主に構ってる暇はない」
さらに浮かび上がり天井に張り付いたような形となる彦星を、着地した櫻花が睨みつける。
「ふざけるなぁぁ!!」
そのあまりに無神経な台詞に逆撫でされて、彼女は懐から新聞紙ほどもある巨大な札を取り出した。彦星の表情が曇る。
「そんなものをここで使ったら本殿が吹っ飛ぶぞ」
「うるさい浮気じじぃーーー!!!」
構わず印を結ぶ櫻花。彦星はやれやれと息を吐くと右手の人差し指を一瞬複雑に動かした。
「痛いかもしれんが堪忍せいよ」
そして櫻花を指差す。一瞬、怪音波が指に生まれ、それが青い波動となって彼女を包み込む。部屋全体がネガポジをひっくり返したかのように青黒い闇に覆われた。
「いやぁ!!!」
悲鳴。だがその時、脇で腰を抜かしている朱里は、その瞬間、二人の間に立ちはだかった別の人影を見た。
目をつむって身をこわばらせている櫻花。そしてカッと目を見開いた彦星。
……そこには、晴れ着を着た一人の老婆の姿がある。
「どしたん? 櫻花」
いまだにビリビリと空気が揺れているこの部屋で、今まで朱里が聞いたこともない声がした。
「なにもめてん?」
「織姫様!!」
ゆっくり目を開けた櫻花が織姫と呼ばれた老婆の胸に飛び込む。その頭をよしよしとなでた彼女は天井の彦星を睨みつけた。
「あんた!! 櫻花いじめたん!?」
「あ、いや……」
「降りてき!!」
しぶしぶ床に降りる彦星。その頭をポカンと殴りつけた織姫はふたたび櫻花をなでる。
「コレがなにしたん?」
「ええーーーーーーん!! 織姫さまぁぁぁぁ!!!」
緊張の糸が一気に解けてしまったようで、涙腺が緩みきった櫻花がただひたすらに織姫にすがって離れない。
「あんた!!!」
「なにもしておらんよ……」
「しておらんのに櫻花が泣くか!!」
「くそ……」
その剣幕に正面衝突しようと試みる彦星。
「ナマイキなり織姫よ! もうお主など織姫ではない!!」
「ハァァァァ??」
「新たな織姫を見つけたのだ! もうお主に用はない!!!」
「何を言うてん! あんたになくてもワシにはあるんじゃ! あんたに織姫を選ぶ権利があると思うてん!?」
「ある!!」
「アホかい! ワシが一生織姫じゃ! あんたがワシを選んだ時から、あんたはワシの性欲を満たさせるための人形だというのが分からんアホか!?」
「……」
二人の痴話げんかの陥っていく方向に、目を点にしている朱里。経緯はよく分からないが、とにかく口を挟む余地すらない。その視線の先で、櫻花はいまだに織姫の裾にしがみついて泣いている。
その櫻花をぽんぽんとあやしながら、織姫はなお語気を鋭くした。
「あんたがアホなのはどうでもいい! 櫻花泣かしたんはあんたかと聞いてん!!」
「なにもしておらんて……」
「あーーわかった! しらばっくれるんならもう許さん! 今日という今日は朝まで寝かさんからなぁ!!」
「だ、だから織姫は……」
「ワシしかおらんということを今日とくと教えたるわ!!」
「ひぃぃぃ!!」
「一年分の性液全部搾り取ったるわぁぁぁ!!!」
「堪忍してくれぇぇぇぇ!!!!」
櫻花の腕を自分のそでからやさしく解くと、彦星の胸倉をぐいと握って引きずっていく織姫。彦星はなすがまま、一緒の方向へ向かおうともしていないのに、そんな彼を平然と片手で引いていく織姫の怪力を垣間見る。途中、唖然とする朱里の前を通り過ぎるが、織姫は彼女には目もくれない。
櫻花は糸が切れた人形のようにその場にへたり込んでいたが、内陣のふすまを開けるとき、ハタと立ち止まった織姫の声が彼女の視線を上げた。
「ああ、忘れてん。今年の願いはなんじゃ?」
「……」
目を真っ赤にして唇をかみ締めている櫻花のところまで織姫は戻り、目の高さをあわせるべくしゃがんで笑いかける。
「大丈夫よ。どんなことでもアレにかなえさせるわ」
「……」
櫻花はしばらく黙っていたが、やがて、「彦星様を……」と言った。
「うん、アレになにかしてほしいか」
「一発殴らせて」
「アハハハハハハハ!!」
織姫の笑い声が、七夕の夜に爽快に舞い上がった。
宴も終わり、ガランとうすらさびしい空白を感じる静かな部屋に、二人は残される。
「いっちゃいましたね……」
やっと、朱里がそう言った。
なにか、一瞬男の悲しさのようなものを見た気もする。見てる限りでは絶対に無理そうだが、次期織姫候補を探したくなる気持ちが分からないでもない。
……というのは、あくまで男である筆者の目線か。残されて呆然としている女子二人にとっては彦星の顛末は当然くらいに思っているようだ。
その上で、櫻花は言った。
「アンタ……ずるいくらいかわいいの、なんとかなんない?」
「なりません」
「あ、むかつく。自分でもかわいいと思ってるって認めたね?」
「ホントにかわいかったら彼氏できてませんか?」
「彦星様が旦那になりかけたけどね」
「ちょっと年上過ぎます」
「ふん、だ。アンタになんかもったいないよ」
年上過ぎてもよかったのに……櫻花は思っていた。
一年で一度だけ彼に会うのは、なにも織姫だけではない。かなわぬ想いとは知りながら、それでも無邪気に彼女は毎年の七夕を待っていた。
あるいは、朱里を会わすべきではなかったのかもしれない。いや……
(……そうじゃないよね)
櫻花は心でつぶやいた。
朱里のような娘が一人はさまるだけであれほどの豹変を見せる翁の本性が分かって幸いだったともいえる。
所詮、かなわぬ想いなのだ。見損なってしまったほうが楽だ。
絶対、楽だ……
「さ、櫻花さん? どうしたんですか!?」
「なんでもないよ。目にきなこが入っただけ」
櫻花は懐からハンカチを取り出し目頭を押さえると、
「あたしもそろそろ彼氏探すかな……朱里、誰か紹介してよ」
「わたしが紹介すると櫻花さんより相当年下になりますけど……」
(年上がいいナァ……)
彦星に想いを寄せるくらいなのだ。彼女は相当のジジコンと言ってもよかった。
ともあれ……、
「今回悪かったね。願いがかなうはずだったのにそれどこじゃなくしちゃって……」
「しかたないと思います」
どうせぴんときてもいなかった。
「悪かったから、アイスくらいはおごってあげるよ」
「わぁい! ありがとうございます!」
「どんなのがいいの?」
「駅前にロックアイスのお店ができたでしょ? あのLLセット……」
「バーゲンダーツ(300円(税別))にしなさい」
LLセットは1280円もする。
「バーゲンダーツいいですね! ……新商品が二つも出てるんですよ。どっちも買っていいですか?」
「二つ買うならガジガジ君(72円(希望小売価格))にしなさい。最近スイカ味出たよ」
「……じゃあ……バーゲンダーツ一つ……」
「スイカ味、おいしいよ?」
「いえあの……バーゲンダーツのソルティバニ……」
「スイカ味(72円(希望小売価格)にしなさいって。絶対おいしいから」
「……えと……」
「真夏は甘ったるいアイスよりシャキっと氷のほうがいいよねやっぱ」
「……はい……」
……結局、朱里のこの日の報酬は、72円(希望小売価格))のガジガジ君一本だった。
「ちょっと待って! 二本ですよね!?」
「二本も食べたらおなかこわすでしょ?」
「……」
「今日はもう遅いし、あっつい時に食べた方がおいしいから、明日稽古が終わったら激安スーパーに行こうね」
「あのスーパーのがじがじ君ってたしか35円……」
……そんなつつましい報酬を約束された朱里はこの後、内陣の片付けを、びっちり深夜二時まで付き合わされることになったのであった。
空には天の川。夜の虫たちが涼しげに鳴き更ける、静かな夏の一ページである。