御神楽奉納、巫女舞アルバイト、下
当日。
梅雨の長雨を過ぎて夏の匂いが香る神楽神社に緩やかな風が吹いている。
丘陵の上の広大な敷地に全国の神職関係者が集まり、御神楽奉納が行われる拝殿の前を賑わわせていた。その喧騒を間近に感じ、呆然と立ち尽くしている朱里にはそれが小さな地鳴りに聞こえて怖い。本番中は彼らの視線がすべて自分たちに向けられるのだ。
境内の一角には緋舞台が設置され、雅楽隊が8人、それぞれの楽器をなで、それぞれの音を確かめていた。
「緊張してる?」
「……え?」
聞こえてない。そんな朱里は先日試着した巫女舞の衣装に加えて天冠という黄金色の冠をしており、手には神楽鈴と呼ばれる、幾重にも鈴が連なっている若木のような道具を収めていた。取っ手の部分には長さ一メートルはあろうかと思われる吹き流しのような五色布がついていて、これが舞のアクセントとなる。巫女舞をやる上での大事な採物の一つだが、今の朱里はヘタに背中を押そうものならそれをポロリと地面に落としてしまいそうなほど、魂が抜けていた。
「大丈夫だよ。自信を持って。練習通りやればいいからね」
むしろ、練習通りやってね。絶対神様怒らせないでね。……という気持ちを込めて、櫻花は彼女に囁き続けている。が、そのうち朱里の速い心拍音が伝播してきて、すでに何度も御神楽奉納を経験している櫻花の喉もすっかり渇いてしまった。
「今からそんなに緊張してたら、神様出てきたら心臓止まっちゃうよ?」
「はい……大丈夫でうs」
「うろたえてるってば……特に語尾」
なにせ櫻花も一緒に舞うのだ。ミスが許されない舞台で、隣がこんなに固いと不安にもなる。
……やがて、神を呼ぶとされるお囃子が始まった。辺りは一転シン……と静まり返り、笙の音がそれに変わる。太鼓の音が増え、琵琶の音が混ざって、音は次第に天に届くようなうねりとなり、朱里たちをも飲み込んで広がった。
「くるよ……」
「え?」
「神様」
「神……様……」
どんな存在なのだろう。幼い頃その存在に思いを巡らしたことがあっても、結局答えなど見つからなかった。白いフードを着た、限りなく大きな雲……それが、朱里が描く神像だった。
しかしそれがどのような存在であったとしても、とにかく一生懸命練習してきた神楽を舞い上げなければならない。
……振りを極微動で確認しつつ、雅楽にかき消される心臓の音を落ち着かせようと、目をつむって深く息を吸った朱里の耳に、
「(来たよ!)」
貫通するような鋭いウィスパーが突き刺さった。
割れる空。鬼の時もそうだったが、まるで皮をナイフで押して切り裂いたかのように空がめくれて裂ける。
その規模は鬼の時とは比べ物にならず、正面の空すべてに亀裂が入ったようになった。
這い出してくる何か。思わず叫ぶ朱里!
「へびーーーーーーーーー!!!!」
次に襲ってきたのは背後からの奇襲だった。
「馬鹿!!」
「痛っっ!!」
後頭部をまともにはたかれて朱里がしゃがみこむ。すぐにその頭を追って櫻花もしゃがみ、耳打ちした。
「(蛇じゃない! 神様だよ!!)」
「えぇ?」
頭を抑えてもう一度見上げると巨大な蛇の群れが頭をもたげて見下ろしている。いや、よく見ると胴体からは一つになっているため、ひょっとしたらこれで一体なのかもしれない。
「おぃチョロマツ、ヘビとか聞こえなかったかヘビ」
「うーん微妙だったぜヘビ」
「……」
なんかしゃべってる。
「(あれはヤマタノオロチっていう神様なの!)」
先に説明しときゃよかったね……と、額に手を当てて焦る櫻花。
一方で朱里は怖いのも忘れて首の数を数えていた。確かにヤマタ(8又)のオロチである。それがそれぞれ好き勝手にしゃべっているようだが……。
「(……オロチって蛇のことじゃないですか?)」
「(ちがうっての! そうだけど!)」
どっちなんだ。
「ヘビって俺たちのことかヘビ?」
「そんな無礼なことをのたまう人間がまだいるヘビ?」
「それはいかんヘビ。権威が失墜してるヘビ」
「(あの……)」
身を丸くしたまましばらく神の独り言(?)を聞いていた朱里だったが、
「(……自分でヘビって言ってませんか……?)」
「(あれは単なる鳴き声! ほら、よく豚が人間の言葉とかしゃべる時、「困ったブ~」とか言うでしょ!? あれよあれ)」
「(最近のヘビは『へびー』って鳴くんですか?)」
「(知らないよあたしヘビ博士じゃないんだから!」
というか、蛇だから『ヘビ』と鳴いてるということにならないのか?
「とにかく、あのヘビはヘビじゃないの! ヘビに見えるけど)」
「……」
なんかそんな言い訳をウチワ(団扇)でしてた政治家が数年前にいた気がするが、今はとりあえずそれで納得するしかない。
「(いい!? ヘビとか聞こえたら丸呑みされるからね! ほら! 立つよ!!)」
二人が申し合わせて立ち上がると、首をもたげたヘビたちがぬっと二人の方を見た。
大きい……立ち上がってみてももはるかに頭は上の方にあり、尻尾の先まで合わせたら二十メートルくらいあるんじゃないだろうか。
無意識に背比べをした朱里に、いまさらながらの恐怖がこみ上げてきた。
「んん? いたのか巫女ヘビ」
「おぉぅ、うまそうだヘビ」
「まてよ。さっきのヘビって声は女の声だったぜヘビ」
「うわ……聞こえてた……」
櫻花が立ちくらみをしたような脱力声を出す。
「まさかお前らヘビ?」
「答えろヘビ」
「答えによっちゃ頂きますヘビ!」
「まてカドマツ。巫女だヘビ」
「巫女でも三秒ルールでおっけーじゃないかいヘビ?」
朱里は少し腰が折れて後ずさり、震える声を上げた。
「(櫻花さぁぁん……)」
「(とりあえず任せて!)」
早口で言い捨てた櫻花が一歩進み出る。
「お待ちください神様!! ちゃんと言います!」
「ヘビ?」
「確かに今、こちらの者がオロチ様のことをヘビと申し上げてしまいました」
「ええええーーーーーー!!」
いきなりのいけにえモードに朱里が声を裏返して驚くが櫻花はかまわず続けた。
「しかしこの巫女はまだ神職に就いて日も浅く、世の中の理というものがよく分かってないドジで馬鹿なカメにございます」
「……」
酷い言われようだ。
「しかして、その責任は監督者であるあたしにございます。この巫女のかぶるべき責任はすべてあたしがかぶりましょう」
「櫻花さん……」
「ただ、御神楽奉納はオロチ様にも絶対に必要な儀式かと存じまする。あたしたちもオロチ様のために今日まで血のにじむような練習を繰り返してまいりました」
本当に、血がにじむ練習だった。朱里は思い出す。前で声を張ってるこの人、スパルタ過ぎる。自分の人生でここ数週間ほど自分がかわいそうだと思ったことはない。
「……その努力に免じて、酌量の余地をいただけませぬか?」
「酌量ヘビ……?」
櫻花は神楽鈴をシャンと一度鳴らした。
「今より二人は巫女神楽を舞いまする。あたしに一度のミスもなければ、この者をお許しいただけませぬでしょうか」
「ふむ……」
ちなみに巫女神楽は巫女舞と同義。
……蛇の群れは一様に他の顔の様子を覗い始めた。
たしかに御神楽奉納は、彼らのエネルギーの源である。現代日本では八百万信仰もすっかり薄れ、エネルギーを吸い上げられる機会がめっぽう減ってしまった。ここで目先の食欲に目がくらんでそれを逃がしてしまうのは、オロチにしても都合が悪い。
「もし舞を誤ればなんとするヘビ?」
「その時は……」
彼女は抱きつかんばかりにまとわりついて離れない朱里を前面に追いやって、
「しゃぶるでも丸呑みでも舌で転がすでも何でもしてください」
「ええええええええええええーーーーーーーー!!!!」
境内に、今日一番の悲鳴が舞った。
「さ・く・らさぁぁぁん!!!」
一時後方に下がって作戦会議中の二人。朱里がパニックになったのに慌てて、櫻花が「少し気を静めさせます!!」と、拝殿と本殿の間、つまりは儀式の場所からは見えないところまで引っ張ってきた。
「ひどいじゃないですかぁぁぁ!!! ……なんでわたしが食べられないといけないんですか……」
「しょうがないじゃない。あの場はああ言わないと収まらなかったんだから」
「そんなこといったって……」
言いながらくるりと背を向ける朱里。
「どしたの」
「帰ります! って言うか逃げます!!!」
「コラコラ、そんなことしたら富士山が噴火しちゃうわよ」
「だってあんなプレッシャーの中で踊れるわけないじゃないですかぁぁ……」
「大丈夫だって。アンタはミスったってなーんも関係ない話にしたでしょ?」
「そんなこと言ったって櫻花さんがミスしたら、わたしアレに食べられるんですよ……?」
前に櫻花が前回舞った巫女は食べられたと言った。もちろん悪い冗談だと思っていた朱里だったが、アレが神様なら断然信じられる。というか、約束を守ってくれるかどうかすら怪しい。
「だから帰りますーーーー!!!」
「ダメだって。アンタ胃液に溶かされるのとマグマに溶かされるのとどっちがいいの?」
「どっちも嫌ですっっ!!」
「まったく、わがままなんだから……」
「わがままちがうーーー!!!」
「心配しない。あたしが舞うんだよ? ミスるわけないじゃん」
櫻花は生まれながらの巫女であった。社の中で生まれ、以来神に仕える者としての研鑽を積むことだけに邁進してきた生粋の巫女である。こういう娘が数十年生きて、例えば人間国宝のような由緒ある位を賜るのだろう。
そんな娘だ。ミスらないと断言した表情には、一片の曇りもなかった。その目に圧倒されていく朱里。
「ただ、今回の舞は二人で一つの形を成すからね。アンタがいてくれないとお話にならないのよ」
「はい……」
「大丈夫。アンタは瑞祈袴に選ばれた巫女なのよ? もうあたし、アンタのことバイト巫女だなんて絶対に呼ばない」
櫻花に満面の笑みで頭をなでられると、とにかく頼もしく見えてしまう。いや、彼女の気勢は朱里でなくても人を安心させる何かがあった。
「行こう。神様をぎゃふんと言わせてやろうよ」
「……はい」
結局気がつけばいつもいつも丸め込まれている朱里がいる。
白い大蛇の見下ろす緋舞台に二人の巫女が舞い降りて、一糸乱れぬ態をもって膝をつき、三つ指で深く頭を垂れたのはそれからすぐのこと。遅れて雅楽のお囃子が二人の背中を包み込むと、わたぼうしが空に浮き上がるように柔らかく身を起こした。
やるしかない。大嫌いな食べ物を息を止めて飲み込む時と同じ目をした朱里がいる。こうなったら文句も言えないようなものを見せて早く終わらせたい。緊張を抑えて、それが彼女の集中力となった。
笙の音色に誘われて伸びてゆく右手の先で、神楽鈴に生命が宿る。
シャン
幾重にも連なったその音が、緋舞台と外界を分けるかのように二人の手の中で鳴り、やがて弧を描き始めると、その銀細工をゆるやかに追う千早が白い鳥の羽のようにはためく。神楽が大きくなるにつれ、それはほのかな香りを残して優雅に羽ばたき舞い上がった。
一定の間隔で広がる鈴の音に五色布がなびいて、風が青、赤、黄、白、紫に色づいてゆく。
それらの中心で一糸乱れずに舞う二人の巫女の白い肌はこの世のものとは思えないほどに美しく、額の天冠が太陽の光を浴びて輝く様は、『巫女神楽の上には神が降りる』という言い伝えを、誠の如く体現せしめていた。
もちろん一糸乱れぬとはいっても、些少な部分で朱里は櫻花に遠く及ばない。が、太陽はそんな二人に分け隔てなく光を与え、彼女らを天女たらしめている。当のオロチですら微動だにせず舞を見入っている中で、緋舞台の上だけ世界が切り取られたかのような、別の風に包まれていた。
お囃子の音が引いてゆく。巫女は再び現世の土を踏み、三つ指を立ててかしこまる。
舞は終わった。巻き起こる大喝采。
神がここに在ることを忘れて讃えている様が、舞が如何にすばらしかったかを物語っている。
朱里も、地面に目をやったままほっと胸をなでおろした。
舞っている間、何も見えなかったが、ともかく踊りきった。
もともと巫女舞に素養があるのだろう。あれだけの短期間でよくここまで完成させたものだ……とは朱里の自己評価だが、周囲を取り巻く目もまさかそのような突貫工事とは思いもよらない。それほどの舞であった。
朱里は満足している。ミスどころか、今の自分にできる最高の舞を披露した。これで文句があるのなら相手が神と言えど二言三言抗議をしてもいい。……そうまで思った彼女だったから、次の瞬間にもれた櫻花の言葉には耳を疑った。
「ゴメン、ミスった」
「ええええええええーーーーーーーー!?」
漂っていた余韻をすべてぶち壊す朱里の声。つい顔を上げ櫻花のほうを見ると、彼女はまだ礼をしたままで言う。
「絶対にミスれないと思ったらハマった。ゴメン、食われて」
「軽いーーーーーー!!!!」
生まれてこの方初めて聞いたその衝撃的な処刑の台詞のあまりの軽さに朱里は跳ね起き、オロチを見上げる。頭の一つと目が合った。
「そっちの巫女。手順に誤りがあったヘビ」
しかも余裕でバレている。朱里は慌てた。
「まってまってまってまって……おかしい。ぜったい……」
喉の奥でくすぶるようなその声は誰にも聞こえず、
「十分充電できた挙句に食欲も満たせるヘビ」
「うれしいヘビ」
八つの首が伸び緋舞台を囲み、一斉に朱里の方へ向けられた。舞を見守っていた神職たちはざわめいたが、なにせ具現化している神の前だ。もちろん武器などは持ち合わせていないし、鬼とは違い、豆などの特効具が存在しているわけでもない。手も足も出ない。
迫るオロチの首。腰が砕けて後ずさる朱里。
……その時、声がした。
「お待ちください!!」
櫻花である。オロチの首がぬっと角度を変えれば、彼女はいまだひれ伏していた。
「ミスをしたのはあたしにございます! そちらの巫女舞に落ち度はなかったはず! これで彼女を処断するのはあまりに酷ではありませぬか!」
「お前が言ったんだろヘビ」
「それにお前よりうまそうだからこっちが食べたいヘビ」
朱里は動くこともできない。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことなのだろう。顔を真っ青にして、唇を噛んでいる。
「前回と比べましても!!」
櫻花は食い下がった。
「今回の御神楽奉納はオロチ様にとっても十分な蓄えを得られたはずにございます! それはあたしの力だけではなく、この巫女の力であることはいうまでもございませぬ!」
「ふむ……?」
前回の巫女は経験は豊富だったが、人を感動させる崇高さを持ち合わせてはいなかった。それが舞の不完全を呼び、彼らの欲求を食欲に向けさせてしまったわけだが、その点、この単純な娘の純粋な瞳は神が宿るにふさわしいものであり、今日まで稽古をつけきた櫻花もその点においては舌を巻いていた。
「類まれなる力を持つ巫女を目先の欲だけでむざむざ失ってもよいのですか! それはなによりオロチ様自身の首を絞めることになりませぬか!」
「櫻花さん……」
彼女の必死の弁明が朱里の胸へ、すっと落ちていく。半ば感激まで覚えたが、次に彼女はとんでもないことを言い出した。
「彼女は次回、さらに舞に磨きをかけてオロチ様をより満足させるでしょう」
「ええええーーーー!?」
「その時に成長が見られないなら、それから食されても遅くはないかと!」
「ええええええーーーーーー!!」
「人間、老けたらおいしくなくなるヘビ……」
「そんなことはございませぬ! この娘はまだまだ成長過程にございます! 今から熟れ熟れに熟れて、美に磨きがかかって、色気も香って、出るとこ出て引っ込むとこ引っ込んで、ものすっっっっごくおいしくなります!!」
「えええええええええーーーーーー!!!!」
「今はまだすっぱいだけのドジで馬鹿でのろまなカメにございます! どうか、今日のところは!…………せめて舐めるだけにしていただけませぬか?」
「えええええええええええええーーーーーーーー!!!!」
「ふむ……」
オロチの気勢が、弱まっていくのを感じる。
「イチマツ。どうするヘビ?」
「そうだなカラマツ。そいつの言うことももっともな気がするヘビ」
「じゃあ……」
「相わかったヘビ。次回もその巫女が舞うことを条件に今回は咎めなしとしようヘビ」
「はは! ありがたき幸せに存じます!!」
頭をこすり付けるようにしている櫻花を見る朱里の頬を、何かが触った。
「ひぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
振り返れば二股に分かれた長大なオロチの舌がある。それが文字通り八方から伸びてきて、朱里を次々に絡め取った。
彼女の悲鳴はしばらく絶えなかったが、しばらくもまれているうちに、急にその声が聞こえなくなる。
「あ! コラ!! やめなさいっての!」
櫻花も思わずタメ口。首の一つが彼女の上半身にかぶりついたのである。
「三秒ルールヘビ」
「三秒ルール意味ちがぁぁぁう!!!」
必死になって叫ぶ朱里はしかし、その後八体分の『三秒ルール』を受けることになったのであった。
「えっとーーー」
西の山に日が落ちようとしている。高台にある神楽神社の、眼下の街を照らすオレンジ色の夕焼けが幻想的だった。
神は一応の満足をして空の亀裂に消えていった。その後、取り巻いていたたくさんの神職が彼女たちの元へ駆け寄ろうとしたが、櫻花がそれをすべて追いやる。
彼らがやむなく潮が引くように神社を後にしていくのを背中に感じながら、櫻花はニコリと微笑んだ。
「お疲れ朱里ちゃん! てへぺろ☆」
よだれでびしょびしょに濡れて、へたり込んでいる朱里。
「よかったよーーー! 最高だった!」
「最高じゃ、なぁぁぁいーーーー!!!」
しかし、言いたいことがありすぎてなにからツッコんでいいのかわからない。
「いやでもホントね。朱里を選んでよかったよ。アンタ、絶対この仕事向いてるわ」
「うれしくないぃぃ……」
もはや半泣きだ。
「でもさ、あんなことになっちゃったから、次も頼むね!」
「ホントなんですかアレ……」
「うん。神様との約束だよ? 反故にしたら本当に日本滅ぶからね」
「その前にわたしが滅びそうです……」
「まぁ、日本が滅ぶよりはいいよね」
「ヒドい……」
そんな朱里の頭を、唾液に濡れていることも気にせずになでる櫻花。すくと立ち上がって、手を差し伸べた。
「ほら、立って立って。お風呂貸したげるから」
「はぃ……」
櫻花の笑顔はある意味犯罪だ。そのやわらかさに包まれてしまうとすべてを許す気持ちになってしまう。
「あの……」
それどころか、数週間のスパルタに耐え、本番をやりきった充足感で彼女の頭は満たされ始めていた。
「今回、わたしがんばれました……?」
「そりゃあもう、保障するよ。ありがとう朱里。もうホント、バイト巫女なんて呼ばない」
櫻花がそう言って優しく抱きしめてくれる。朱里の頬に涙がこぼれた。
「櫻花さぁぁん……」
「うんうん、よくがんばった」
「ありがとございます。でも瑞祈袴……こんなに汚れちゃって……」
「あ、いいよ気にしないで。あんな袴の伝説ウソだし、それも普通の袴だから」
「ええええーーーーーーーー!!!!」
「ま、ダンボの羽根みたいなもんよ。おかげで自信持てたでしょ?」
「……」
まぁ、確かにそういう側面はあった。
彼女はしばらく泣きはらし、やがて櫻花が「お風呂いこ」と言い出すまでそのままでいたが、その間に一つ……いまさら思い出したことがある。
「あ、そういえば……今回のお仕事っていくらなんですか?」
あの日から急に大河の堤防が割れたような怒涛の毎日を送っていた彼女は肝心のお金の話すら忘れていたのだ。
櫻花はそんな彼女を引き離すと優しく微笑む。
「もぅ……。言ったでしょ? もう朱里のこと、バイト巫女なんて呼ばないって」
…………。一瞬の沈黙。
「へ?」
「アンタはもうれっきとした神に仕える巫女。お金なんてそんなの現世の些事よ」
「へ!?」
「なんせオロチ様お墨付きだからね。おめでとう、朱里」
「ちょっ!!」
何か言いたいが、あまりの発言にうまく言葉が出てこない。
「あたしも心強いパートナーができて嬉しい!」
「そ……」
それってまさか……と言いたい。
「お……お……」
お金が出ないのかと問いたい。
「さぁ、明日からまた稽古がんばるよっ!!」
「ま……ど……」
ぱったり。
「きゃぁ! 朱里! だいじょぶ!?」
疲れと、ショックと、とりあえずナニカがいろいろ混ざって、朱里はそのまま卒倒してしまった。