マエストロ、家族と食事する
一階へと降りると丁度夕食の準備をしていたのか、厨房からいい匂いが漂ってきた。
鼻腔を擽られ、同時にエミールの腹もぐうとなる。昼食を食べずにいたため腹ペコだった。
エミールは香りを楽しみつつ、ダイニングへと向かった。
ダイニングルームは一家全員が集まる団欒の場だ。
デシャン家では“夕食は必ず全員集まって食べる”という、よくわからないしきたりがあった。一代限りのしきたりというわけではなく、先祖代々が守ってきた古いしきたりなんだそうだ。
たとえどれだけ忙しかろうとも、夕食時には必ず集まる。有無を言わさぬ強制力がこのしきたりにはあるという。まるで呪いだ。
「あらエミール、随分疲れた目をしているわ。大丈夫?」
「少し読み物をしていたんだ。大丈夫だよ、ルル姉様」
「ふん! どうせくだらない冒険譚でも読んでたんでしょ」
エミールを心配そうに気遣ったのはルルイエ・デシャン。一番上の姉で一番可愛がってくれる優しい女性だ。顔は父親似なので美形とは言い難いが、おっとりとした優しげな雰囲気と、自己主張の激しい胸のおかげで大層モテているらしい。代わりに同性の友達が少ないと聞いている。
そしてツンツンした態度を示すのは次女であるアメリア・デシャンだ。顔は母親似であるため、かなりの美形である。しかし、性格はキツく乱暴、さらにルルイエと違って出るとこが出ていないという残念なプロポーションであるため、男性からは敬遠されている。しかし同性からの人気はあるらしく、友達は多いそうだ。
「アメリアったら、エミールがいつまでも来ないから呼びに行こうとしてたのよ」
「ちょっとお姉ちゃん!」
「最近は学院で時間を取られて、会う機会も減ったから寂しいのよね」
「ちち違うわよ! 別にエミールと会えなくたって平気よ! 勝手なこと言わないで、お姉ちゃん!」
この二人、性格は水と油のように正反対なのだが意外なことにとても仲が良い。
いつも二人で行動しているし、こういった言い合いを四六時中やっている。かといって喧嘩することはないから不思議だ。
「そう。アメリアはエミールと会えなくても寂しくないのね。
私はとっても寂しいわ。いつも学院を飛び出して行きたいと思うもの」
「えっ……。あたしだって、その……今頃どうしてるかな、とか考えたりするわよ」
「それだけ? 家の中で一人ぼっちなのよ? 可愛そうだと考えたことはないの?」
「あ……えと、それはその……」
エミールは二人のやり取りを見て内心ため息をついていた。
二人はいつもこんな感じである。大抵ルルイエがアメリアをイジり、アメリアが弱気な部分を見せる。
いつも勝ち気なアメリアがこの時に限って弱ったところを見せるので、とてもいじらしく儚げに映る。それをルルイエは気に入っているようだ。
アメリアがオロオロし始め、そろそろフォローに入るべきかとエミールが席を立った瞬間、扉が勢いよく開いた。
「到着! おっと、俺が最後か?」
「お帰り、兄さん。まだ父上が来てないから大丈夫だよ」
「おう……? エミール、お前すっげぇ疲れた顔してるぞ?」
「そうかな? 姉さん達にも言われたんだけど大丈夫だよ」
「ふーん、そうか。どうせあれだろ? マクダミアンにこってり絞られてたんだろ? 俺も苦労したからなぁ。後で授業の抜け出し方を教えてやるよ」
今登場した騒がしい輩はエミールの兄、ルーク・デシャンだ。
お調子者で元気の塊のような人物だ。おおらかな性格で細かい作業は苦手、背は父アルベルトの頭一つ分高く、おまけに声もでかい。顔形は整っており、持ち前の明るさで、クラスでは人気者といった男だ。幼い頃、危険な遊びやおっかない遊びに連れ回されたこともあるが、エミールは童心に帰るような遊びを教えてくれたルークを慕っている。ルークを「兄さん」と呼び、アメリア達を「姉様」と呼ぶあたりにその度合いが現れている。
「違うよ。マクダミアン…先生の稽古はすっぽかしたけど、今日は説教されずに済んだんだ。父上から説教されたけどね」
「うひゃあ。そりゃ気の毒に。父さんは普段優しいけど怒ると恐いからな」
優しい人ほど起こったときは恐い、とよく言われるが、アルベルトの場合、それをよく体現していると言っていいだろう。
滅多に怒らないのだが、たまに起こったときは文字通り雷が落ちるくらい恐ろしい怒りっぷりを発揮する。
「それがあんまり怒られなかったんだ。代わりに楽器を真面目に学ぶって言ったからだと思う」
「そうか。お前ももう六歳だもんな。父さんからオーボエを勧められなかったか? 俺のときはすっごいしつこかったぞ」
「進められたけど断ったよ。ヴァイオリンとピアノを選んだんだ」
「へぇ。鍵盤楽器と弦楽器なんて全く違うのに大丈夫か? 学院でもその二種を同時にして人並み以上に弾ける奴はいないぞ」
「自信はあるよ。後で兄さんにも聴かせてあげるよ」
「へぇ。そりゃ楽しみだ」
エミールがルークと歓談しているとアメリアが割って入ってきた。頬を膨らませているところから察するに、何やら不満げである。
「ち、ちょっと、お兄様。私達とエミールの会話に横いりしないでくれる? そ、それにエミールは疲れてるんだから無理させちゃ駄目でしょう?」
「なんだよアメリア。お前もエミールの演奏を聴きたいなら素直にそう言えよ。エミールもアメリアに聴いて欲しいよな?」
「うん。僕、アメリア姉様にも演奏を聴いてほしい」
エミールが瞳をうるうるさせて媚を売ると、アメリアは「くっ」と顔を逸らせて小さく「わかったわよ」と返事をした。ちょろいものである。
「アメリアだけずるいわ。エミール、私にも聴かせてね」
「勿論です、ルル姉様」
「まぁ嬉しい。……それにしてもお父様とお母様、遅いわね」
ルルイエがエミールの頭を撫でながらアルベルトとメアリーの不在を口にする。
「母さんが遅れるのはよくある事だけど、父さんが遅れるのは珍しいな。いつも五分前には席に着いているのに。
エミール、父さんはいつ帰ってくるか言っていたか?」
「いや、出掛けるとは聞いていたけど、いつ帰ってくるかは……」
エミールが首を振って否定しようとしたとき、ガチャリと慌ただしげに扉が開いた。
「いやぁ遅れてすまない。先方がなかなか離してくれなくてな。皆揃っているか?」
「あ、お帰りなさいませ、お父様。お母様がまだ―――」
「揃っていますわ」
ルルイエがメアリーの不在を発する前に、本人によって遮られた。
メアリーは恰も最初からそこに居た、と言わんばかりに紅茶を飲みながら指定の席で寛いでいた。
「お母様いつの間に……」
アメリアがぎょっとした様子で呟く。
「あなた達が楽しそうに話し出す前からいましたわ。お茶の用意をさせて、私もお話に混ざろうと思ってましたのに、あなた達ときたら母親である私を放って自分たちだけ楽しむばかり……母は哀しいです」
「ご、ごめんなさい」
アメリアが申し訳なさそうに頭を下げる。勝ち気なアメリアもフルートの師であり母親であるメアリーには頭が上がらないようだ。
メアリーは存在感というものを自在に操る稀有な特技を持つ。周囲の注目を集める美貌を持つため備えた処世術らしいが、こうやって悪戯に使用することもままある。
この特技の使い方をメアリーは熟知している。
厄介なのは存在感を消すのではなく周囲に溶け込ませるように薄くしていることだ。風景の一部と化し、他者からの注意を霧散させる芸当は事家族にも影響を持った。故に家族全員、メアリーにはあまり見られたくないところまで見られ、弱みを握られている。エミールもそうである。
エミールの場合は楽器が恋しくてたまらない時期にエアピアノをノリノリで弾いているところを見られている。それ以来、エミールはエアピアノを脳内だけに留めている。
アメリアがメアリーに対して頭が上がらない理由も、人には言えないような恥ずかしい場面を見られているからに他ならない。
「全員揃っているなら早速夕食にしよう」
亭主であるアルベルトはそう言って手をパンパンと叩き、アメリアに助け舟を出した。同時に湯気を立てた料理が次々と運ばれてくる。騒いでいたデシャン家の面々も粛々と己の席に着いた。
こうやって場の雰囲気を一挙に変えられる人物はアルベルト以外にいない。この曲者揃いのデシャン家をアルベルトが仕切っていられるのは、この舵の取り方の上手さがあるからだろう。
「今日も美味しそうだ」
デシャン家では家長が最初に食べるという暗黙のルールがある。なのでアルベルトが料理を口にすることで、自ずと皆の箸が進む。持っているのはナイフやフォークといったカトラリーだが。
「ルーク、学院はどうだ?」
「いつも通り平々凡々とした一日だったよ」
音楽院は全四年課程で、ルークは三年だ。ルルイエとアメリアは同じ一年。入学はまちまちだが最低でも八歳から入学が許されている。
「そうか。ルルイエ、アメリア、二人はどうだ?」
「お兄様と同じですわ」
「私もです。あ、でも今度重奏の試験があるようなのです。どの楽器と組むかご意見下さいませんか?」
アメリアの学年では重奏での試験があるようだ。
八歳での重奏となるが、日本では小学一、二年の頃からリコーダーでの合奏をするので、それと比べたら早いような気がしないでもない。
ちなみにオーケストラのような大人数での重奏は学院はおろか国内でも無い。あくまで演奏は独奏が基本であり、重奏はおまけ程度にしか考えられていないらしい。
「ふむ……。ならばオーボ―――」
「アメリア、ルルと一緒にフルート二重奏にしたらよくてよ」
アルベルトの提案を遮ってメアリーが助言する。師であるメアリーに言われればそうするしかないわけで、アメリアは二つ返事で了承した。アルベルトは口を尖らせて不貞腐れていた。
姉であるルルイエとなら合わせるのも楽だろうし、家でも練習ができるので納得だ。メアリーも何もオーボエと重奏させたくなくて助言したわけではないはずだ。おそらく。
◇◆◇◆◇
食事も中程まで進んだ頃、アルベルトは思い出したかのように口にした。
「もう聞いているかもしれんが、エミールは先週六歳となり、楽器を学ばせる事になった。お前たちも先達としてこれにあたるように」
「ヴァイオリンとピアノの二種類を学ぶそうね。大丈夫なのかしら?」
メアリーが心配そうにアルベルトに尋ねる。メアリーからすれば問題児と評判のエミールが二種類の楽器など学べるのか、と不安なのだ。
「問題無い。既に教師を雇うまでもないくらい熟達している。音楽神の賜物だそうだ」
「へぇ。凄いわねエミール」
「ありがとうございます。母上」
「ふふっ。練習した甲斐があったわね」
「な、なんの事でしょう?」
「うふふ」
メアリーはエアピアノのことを言っているのだろうが、本当に前世で練習しまくっていた経験のあるエミールからすれば、練習した甲斐があるという言葉はこちらの秘密を見透かされているようで怖い。
「後でエミールの演奏を聴く約束をしているんだ。父さんもどうだい?」
ルークが食後で膨れた腹を擦りながらアルベルトに尋ねる。
「それは良い。朝聴いたヴァイオリンの音色が耳から離れなくてな。もう一度聴きたいと思っていたところだ」
「そんなに良かったのかい?」
「ああ。思わず聴き入ってしまうほどだ。お前もうかうかしていれられなくなるぞ。現に私はオーボエの練習がしたくてウズウズしたからな」
「父さんがそこまで言うなんて珍しいね。俄然興味が湧いたよ」
アルベルトとルークが好気な眼をエミールに向け、彼の力量を測ろうとしていたその時、当人はどの曲を弾くか、にやけ顔で吟味していた。