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マエストロ、説教される

「おはようございます、父上」


「ああ、おはよう。エミール」


 エミールは食卓につくと、寝ぼけ眼をこすりながらパンを口に運んだ。

 この少年はエミール・デシャン。デシャン家の次男で、現在六歳。姉二人、兄一人を持つ末っ子である。

 髪は母親譲りのブロンドだが、癖っ毛らしく、短くしていても、くしゃくしゃと毛先が丸まっている。これは父親譲りである。

 顔立ちは幼いながらも利発そうな印象を受けるが、明るいブルーの眼は生気を宿していない。


 柳哲雄が生まれ変わった姿がこのエミールである。

 エミールは現状に酷く絶望していた。もう一度オケの指揮をしたいと思ってはいたが、まさか生まれたときからやり直すとは思っていなかったからだ。

 赤子時代は辛酸を舐める出来事の連続だった。特殊な性癖など無いのにも関わらず、中身は大の男がおしめを替えられるのだ。羞恥以外の何ものでもない。

 また、エミールのおしめは誰が変えてもぎゃん泣きされた。そのせいで後に「エミールは大のおむつ嫌いだったな」と言われ、さらに恥をかくことになった。


 それに、ミューズは音楽以外、アナザステラのことなどどうでもいいのか、どの国も戦争が絶えないという。現在は休戦状態だが、いつまた戦火が巻き起こるか分からない。これでは音楽どころの話ではない。

 ミューズとのアンサンブル以降、哲雄は音楽に触れていない。それがさらに哲雄を苦しめていた。

 

「坊ちゃま。どうぞ」


「……」


 メイドの一人が水差しを持ってきて、エミールのゴブレットへと注ぎ差し出した。

 それを苦々しげに受け取り、一気飲みする。そして空のゴブレットをテーブルへ強かに打ち付けた。


 メイドの仕草は何の問題もない洗練されたものだ。しかし、エミールは気に食わなかった。

 エミールもこのメイドが普通のメイドだったら邪険に扱うことはない。身分差など、元より上下関係ぐらいにしか思っていないので、身分を笠に着て辛くあたることはない。それなのに何故、エミールがこのメイドを嫌うのかというと―――


「あらら、坊ちゃま。寝起きでご機嫌斜めのご様子でしょうか」


「坊ちゃまと呼ぶな、ミューズ(・・・・)


 そう、メイドはミューズであった。

 ミューズは何を思ったか、メイドとしてデシャン家に潜り込んでいた。

 初めてメイドとしてのミューズと会ったとき、ニコニコしていた彼女にエミールは幼児とは思えない言葉で罵倒した。その話はデシャン家で伝説になっている。


「相変わらず仲がいいな、二人は」


 エミールの父親、アルベルトが楽しげに言う。

 ミューズを激しく罵倒した日から、何故か彼女はエミールの専属メイドになっていた。これには流石のエミールも乾いた笑みを浮かべたまま放心した。


◇◆◇◆◇


 デシャン家はそこそこ有名な貴族だという。貴族と聞いて、哲雄は初め高慢で鼻持ちならない人種を想像したが、意外なことに性格は穏やかで親しげだった。

 父、アルベルト・デシャンは妻子に優しく、民衆からの人気も高い。中肉中背でパッとしない顔立ちなのだが、ユーモアがあって会話が上手いため、そこそこモテるらしい。

 母、メアリー・デシャンは「あらあら、うふふ」といった朗らかな笑みが似合いそうな温和な女性であり、薄い口紅が似合う小柄な女性だ。小柄だといっても出るとこは出ており、着飾ればそこらの男が皆見惚れるくらいの美人だ。どの程度美人かというと、家中で神であるミューズと人気を二分するくらい、と言ったらわかりやすいだろうか。


 そして何より驚いたのは二人の職業だ。

 なんと二人は音楽家だという。アルベルトはオーボエ奏者で、メアリーはフルート奏者らしく、二人の出会いも演奏会だったそうだ。

 エミールが赤ん坊だった当時、アルベルトはしばしば家の中でオーボエの練習をすることがあった。

 その度にエミールはオーボエの音色を聞くやいなや、猛烈ハイハイダッシュで音源の元へと駆けつけ、言葉にならない声でアルベルトの技術を褒めた。しかし、アルベルトはエミールがハイハイができた事を喜ぶだけで、まるで相手にしなかった。

 結局、練習時に毎回エミールがやってくるものだから、「練習に身が入らない」という理由で遠ざけられてしまった。

 楽器に触れられると期待していたエミールはこの時とても落胆した。

 普段は大人しいが、時折目を覚ました獅子のように興奮するので、世話をする者はエミールのことを気味悪げに見ていた。

 そんな奇天烈な行動が目立ったせいか、エミールはいつしか『変な子』呼ばわりされるようになった。


 屋敷の中だけとはいえど、当主の息子が『変な子』呼ばわりされるのは外聞に悪い。

 そんなわけでアルベルトはエミールを叱るために、わざわざ家を出るのを一時間遅くして朝食の席についていた。



「エミール、また書き物の稽古をすっぽかしたらしいな」


 朝食後、アルベルトが珍しく威厳を纏わせた声色でエミールを詰問した。

 食卓にはエミールとアルベルト、そしてメアリーしかおらず、二人の姉と兄は音楽院に行っているため不在だ。そのせいか、大きな食卓は寂しさを物語っていた。


「お前が優秀なのはミューズから聞いている。しかしな。どんな秀才だろうと我が家の教育方針は変わらん。大人しく稽古を受けなさい」


「父上、稽古は六歳までと聞きました。僕も六歳になったので、もう必要ありません」


「本来はな。だがお前は散々すっぽかすから遅れとるのだ。教育係のマクダミアンが言うことを聞いてくれない、と憤慨していたぞ」


 エミールの教育係はマクダミアンという初老の男だ。デシャン家とは縁が深く、若い頃のアルベルトも彼から教育を受けている。デシャン家の兄弟全員がアルベルトの指導を受けており、実績のある人物だ。実家の家柄も良いことから、貴重な人材として名高い。

 しかし、エミールからすればただの口うるさい老人である。

 マクダミアンには何度もアルベルトやメアリーの演奏見学を阻止され、苦渋を舐めさせられてきた。今更児戯に等しいお勉強をしたところで、なんの特にもならないと考えていたエミールは、事あるごとにマクダミアンと衝突した。お陰でマクダミアンには超問題児として扱われている。


「だからといって椅子に縛り付けるのは良くないと思います」


「お前が言うことを聞けばそのような事もされないだろうに……まったく。これでは楽器の稽古も始められんな」


「!! ちちち父上! が、楽器の稽古とは?」


「何を取り乱しておる。デシャン家は代々音楽家の家柄だ。勉学を修めた後、六歳から楽器の稽古を始めるのもうちの習わしだ。マクダミアンから聞いていなかったのか?」


「彼からはお説教しか受けたことはありません。それよりも父上、楽器の稽古なら僕は真面目に取り組みます!」


「ほほう。そうかそうか。そういえば確か私がオーボエの練習をしていた時、いつも聴きに来ようとしていたな。エミールはオーボエが好きか?」


「はい。好きです。特に父上のオーボエは繊細でとても素敵だと思います」


「ふふふ。そうか」


 アルベルトは素行を崩し、屈託のない顔で笑った。

 実際、アルベルトの演奏は上手かった。何度か聴いたが、フィンガリングが巧みで、優雅な音色を出すことを得意としているようだった。

 アルベルトは何本もオーボエを所持している。中でも好んで使うのは装飾を施さないシンプルな木製のバロック・オーボエだ。華美な装飾を施さないあたりが、アルベルトの虚勢を張らない性格を表していると言える。



「ならば私が直々にオーボエの稽古をしてやろう。任せておきなさい。お前を一流のオーボイストにしてやろう」


「え」


「なぁに心配はいらない。これでも私はこの国一番のオーボイストと自負している。初心者でも問題ないぞ」


「あの、父上?」


「まずはエミールが使うオーボエを見つけ出さなくてはな。私のコレクションルームに来るといい。そこでお前に合ったオーボエを見つけるのだ」


 アルベルトは椅子を押し下げて立つと、エミールの手を引っ張ってコレクションルームとやらに連れて行こうとした。母であるメアリーはニコニコしているだけで動きを見せない。

 エミールとしてはアルベルトのオーボエの音色が好きなのであって、オーボエを吹くのは別に好きではない。目指すところは演奏者でなく指揮者であるし、そのつもりで六年間生きてきたのだ。オーボエ奏者になるつもりは一切無かった。

 それがいつの間にかオーボエ奏者になるということになっている。アルベルトがこんなにも強引だったのかと気づかなかったせいもあるが、それにしても有無を言わさない強引さは奇妙だ。


「ぷぷぷ。行ってらっしゃいませ、坊ちゃま」


 ミューズが笑いを堪えていたのをすれ違い様に目撃し、エミールは後で思い知らせてやる、とアルベルトに引きずられながら意気込んでいた。


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