マエストロ、神と奏でる
「君の世界……?」
「はい。先程も言いましたが、これはお願いなのです。なので無理にとは言いません。話だけでも聞いてくれませんか?」
「まあ、話だけなら……」
「やった!」
哲雄は「しまった」と心の中で吐露した。
話だけ聞いて「へーそうですか」と話を打ち切れる日本人は少ない。聞いてしまえば最後、やれ同情を誘ったり損得に訴えかけてきたりと忙しなく、ついつい乗せられて何らかの契約を結んでしまう。
お願いだなんだと下手に出るのは営業マンの常套手段であり、話でも聞いてもらえませんかと言うのは宗教勧誘の一手である。
若い人間なら誘いに乗らず、突っぱねることもできるだろうが、哲雄はアナログ世代の古い人間である。昔からの癖とは中々抜けないもので、哲雄は話を聞く準備を整えてしまっていた。
「あのですね。恥ずかしい話になるのですけど、私って音楽神ミューズなんて呼ばれ方しちゃっててて……。あ、さっきもう名前出しちゃいましたよね。
音楽神なんて大層な肩書きだな、と思いますよね? 私もそう思いますよ。好きなことをやり続けていたら、いつの間にか音楽神なんてことになっていて、私だってびっくりしているんです。
それでこの部屋でずーっと音楽作業に没頭してたものだから、人と話すのも久しぶりなのです! こんな機会なかなか無いですから、もうやったー!って気分になってて、あ、ちょっとうるさいですか? すいません」
機関銃のように言葉を浴びせてくるミューズを哲雄は半目で見ていた。
およそ一時間、ミューズは久しぶりの会話を楽しみ、哲雄は聞き流しながら要点だけを頭の中で整理していた。
哲雄にとって、ミューズのお願いの内容は妄想の一端に思えた。
ミューズが創ったとされる音楽が溢れる世界、アナザステラ。そこに来て欲しいそうだ。
その世界では地球と同じように人々が暮らし、営んでいるという。ミューズが音楽で満たそうとしたため、様々な楽器に溢れていること以外、『地球と何も変わりませんよ』だそうだが、何か引っかかるものがある。
楽器がたくさんあるならば音楽も溢れているだろう、と誰もが推測できるが、現状そうなってはいないらしい。何が悪いのか、どこで間違ったのか、まだ修正は効くのか、ミューズにはそれすらわからないと言う。
ミューズが途方に暮れた時、哲雄が死亡し、『音楽の神に愛された男』と呼ばれるほどとびっきり優秀な指揮者なら、この現状を打破出来るかもしれないと、強制召喚した、というのが現在の経緯だ。
「こんな老いぼれに何を望むのかね。その何とかという世界に行っても、すぐに死ぬのだから意味ないだろう」
「あ、そこは安心してください。生まれ変わってもらうので。俗に言う転生というやつです。やりましたね! 異世界に転生ですよ!」
「くだらん。楽器がたくさんあるというのは惹かれるが、音楽が無いなら行きたくはない」
「まあまあ落ち着いて。とりあえずレコードの曲を変えましょうか」
ミューズが指をパチンと鳴らすと、流れていた音楽が止まり、もう一度指を鳴らすと、新たな曲が流れ始めた。
手品のような所作に哲雄は一瞬驚くも、すぐに頭を切り替えた。驚くような出来事は海外での公演中、至るところで目にした。今更手品ごときで瞠目する歳でもない。そんなことよりも、流れ始めた新たな曲の方が大事だ。
「ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ第八番“悲愴”か……。君はベートーヴェンが好きなのかね?」
「ええ。最近は三周くらい回って好きになりました」
「よくわからん表現だな。まあ私も好きだが。
しかし、こうやって叙情的な曲を聴いていると、何やら沁みてくるものがあるな」
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第八は“悲愴”と名付けられてはいるが、深い悲しみや悲劇を形容したものではない。それは曲自体に如実に現れているし、誰が聴いてもそう思うだろう。
過ぎ去った青春、もう戻れない過去への郷愁、「ああ、あの頃は楽しかったなあ」という切ない情感。これらが曲へと反映されている。特に第二楽章はその傾向が強く、旋律の美しさとともに評価されている点だ。無論、哲雄も大好きな一曲である。
しかし、こうやってクラシックを聞いていると、自分も弾きたくなる衝動に駆られる。現に、哲雄は段々とウズウズしてきていた。
「ですよね! あ、そうだ。どうせならヴァイオリンとピアノで二重奏でもどうですか?」
それを察したのか、ミューズは溢れんばかりの笑顔で提案した。
異世界に来る来ないの話をしてたはずだったが、どこへいったのか。次々と内容が変わる会話に、哲雄は辟易としつつも、内心はこの部屋の楽器を触りたくて仕方がなかった。
哲雄が得意とする楽器は二種類。ピアノとヴァイオリンである。その二種類の楽器が万全の状態で置かれているのだ。せめて音くらいは聞いてみたいと思うのが音楽家というもの。
「で、では私がピアノでいいかな? 曲は何にする? ベートーヴェンか? 早く準備しよう、早く!」
明らかにそわそわとし出した哲雄に、ミューズは大口を開けて笑った。
「アハハ。いきなり元気良くなりすぎですよ、お爺ちゃん。曲はベートーヴェン、ヴァイオリン・ソナタ第五番“春のソナタ”にしましょう! 大好きな曲なんです!」
「おお、いいぞ! 楽譜はあるかね? 暗譜はしない主義なんだ。あと爺さん言うんじゃない」
「はいはいありますよ。えーっと……あ、これですね」
ミューズが本棚から一冊の楽譜を取り出して哲雄に手渡す。
一度も開いていない新品同様な楽譜に、哲雄の顔が思わず気色ばむ。
楽譜を手にして足速にピアノへと赴き、椅子の高さを調整する。悲しいことに、哲雄よりミューズの方が脚が長いのか、かなり高さを下げることになってしまい、哲雄の顔に少し影が差す。しかしそれもCの和音を弾くことで霧散する。
調律はされている。そもそもこの部屋がどの世界にあるのかわからないのに調律師などくるのかと思いたくなる。であれば、調律も補修も修理までもミューズが行っているのだろう。音楽の神というのは伊達ではないらしい。ピアノに埃など一切被っておらず、黒色の表面は光り輝いている。
哲雄は改めてミューズに振り返り、少し険を解いた笑みを浮かべた。ミューズはヴァイオリンを片手にきょとんとした表情で頭を傾ける。
実はこの部屋、ミューズの創り出した異空間に存在しており、楽器も何もかもミューズの思うがままに創造されている。なので調律や補修などもろもろ必要ないのだか、哲雄は無様に「彼女も意外と凝り性なのだな」と勘違いしていた。
「よし。では合わせようか。音楽神とやらの技術を見せてもらいましょう」
「ふふん。私の技術に嫉妬しないでくださいね」
幸福感に溢れた曲調。その触りが部屋の中に木霊する。
ミューズは音楽神と呼ばれるだけあって、非常に上手かった。彼女が好きだとされる曲なだけに、情感たっぷりに弾いている。それでいてこちらの音をよく聞いており、突っ走ることもない。そして、弾いている姿が妖精のように可憐で、ため息が出るほど美しかった。
哲雄は弾きながら花畑を幻視するほど酔いしれていた。ミューズとのアンサンブルはとても心地良く、哲雄はいつしか口元に笑みを浮かべていた。それはミューズも同様で、彼女は満開の花のような笑顔を振り撒き、春の調べを弾いていた。
演奏が終わり、静まった部屋に古時計の秒針だけが音を刻む。
「フフ……」
「アハハ」
長いようで短い時間だった。二人は示し合わせたかのように笑い合い、互いにハイタッチを重ねた。
哲雄はそこで気づいた。自身の手が透き通るように薄くなっていることに。そして、この居心地の良い空間をもっと楽しむべきだったと悔やんだ。
「ミューズ、君の演奏は素晴らしかった。君の世界とやらに行けば、また一緒に演奏できるのか?」
「もちろんですよ。指揮棒だって振れちゃいます」
「フフ……期待しておこうか」
そう言うと、哲雄は部屋から姿を消した。
ミューズは満足気に息を吐き、ヴァイオリンを壁に掛けると、スキップしながら部屋を出た。