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マエストロ、死亡する

 柳哲雄(やなぎてつお)。享年72歳。  

 クラシック音楽を愛し、クラシック音楽に愛された男が今日、この世を去った。

 哲雄は死ぬ数日前まで指揮棒(タクト)を振り続けた。

 ウィーン、ベルリン、パリ、東京、北京、モスクワ、ニューヨーク。各国を自分のオーケストラと共に飛び回り続け、何百、何千という演奏を観衆に届けた。


 哲雄が作り出した音楽には不思議な力があった。

 聴けばある者は感動に打ちひしがれ、玉のような涙を零し、またある者は魂が抜けたかのように惚けた。

 聴衆は演奏中、哀楽様々な反応を見せたが、演奏終了時は決まって皆笑顔で、喝采の拍手を送った。

 

 彼の演奏を聴いた者は口を揃えて彼を“天才”だの“音楽の上に愛された者”だのと称し、卓越した表現力を褒めた。

 晩年も衰える事無く、寧ろ歳を重ねるごとに深みを増す技術と表現力に、世界中が称賛した。

 しかし、人間誰しもいずれは老い、死ぬ。

 哲雄が公演の最中に倒れた記事は世界中で報道された。楽譜台にもたれかかるようにして倒れたが、指揮棒だけは手から離さなかったいう。病院へと担ぎ込まれた後、間もなく哲雄の死が告げられ、億にものぼる人々は哲雄の死をそれはもう悲しんだ。


 

 彼をよく知るものは言う。


「哲雄さんはクラシックという名の化物に取り憑かれていた。

 あの人にとっては富も名声も無価値に等しい。ただ己の音楽を追求する、狂人でしたよ」




 ◇◆◇◆◇


 埃っぽいソファーの上で、哲雄は目を覚ました。意識を失う前にあれ程強烈に感じた、締め付けるような胸の痛みはとうに無く、ここ最近では一番と言っていいほど体調は良いように感じられた。

 哲雄は辺りを見回し、見覚えの無い部屋だ、と困惑する。同時に、公演が途中であったことを思い出し、自らの失態に苦悶した。

 

 とにかく公演が途中ならば戻らねばと勢い立つが、財布や携帯電話も持っておらず、何より大事な指揮棒が無いことに気づく。

 途方に暮れ再度消沈し、溜め息と共にソファーへと腰を下ろす。


 そこでふと気づく。猫足で立つ飾り気のないゴシックテーブルの上に、チーズケーキとコーヒーが置かれてることに。

 飴色に輝くチーズケーキ、細く湯気を立てるブラックコーヒー。どちらも哲雄の好物だ。ご丁寧にフォークまで添えられている。

 公演の前後にこうして差し入れが届くのはいつものことだ。哲雄は何の疑いもなくチーズケーキを口にし、コーヒーを啜った。味は格別だった。



 一息ついたことで、この空間がとても居心地の良いものだと気づく。

 間取りは自宅の書斎に似ていたが、置かれている家具はどれもシンプルでアンティークな代物だった。


 ボーン、ボーンと古時計の両針が十二を指すと、スピーカーから音楽が流れ始める。

 心地良いメロディに乗せられ、哲雄は独りごちる。


「ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ第十二番、第三楽章“葬送”か……。老いぼれは早くくたばれということかな? フフ」


 葬送と聞くと重苦しい感じがするが、曲調はマエストーソ・アンダンテ(歩く様な速さで、荘厳に)である。故に、威風堂々とした軽快な曲調となっている。

 また、『ある英雄の死を(いた)む葬送行進曲』と副題につけられたこの曲は、ピアノ・ソナタ第十二番の中でも最も高い評価を受けている楽章だ。



 哲雄はまるで自分が英雄になったかのように感じたが、すぐに馬鹿らしいと頬を緩めた。

 哲雄は自分自身を英雄などとは程遠い、大馬鹿と評価していた。馬鹿は馬鹿でも音楽馬鹿である。

 

 思い返せば、いつから音楽と触れ合ってきただろうか。親の影響でピアノを始め、物心ついた頃には自作の指揮棒を振り回していた。

 木々のざわめきや鳥のさえずりを楽器と例え、得意げに振っていた記憶まである。あの時は思い通りに鳴かない鳥に向かって怒鳴ったりもしたな、と哲雄は幼稚な記憶に笑う。



 哲雄は郷愁を感じながら、辺りを見回す。

 部屋の片隅にはグランドピアノがどんと置かれており、壁には何種類ものヴァイオリンが架けられていた。

 背の高い本棚が壁に埋まる形で置かれており、並んでいるのも楽譜や教則本ばかりだった。

 部屋内の温度は暑くもなく、寒くもなく。湿度も楽器の保存に適したものだと肌で感じ取れた。


 まさに楽園とも言っていいほど、哲雄はこの部屋を気に入っていた。



 コンコン


 優雅なひと時に水を刺すような音ともに、扉が開く。

 扉から現れたのは女だった。彫りが深く、鼻が高い。典型的な西欧人特有の出で立ち。自分のマネージャーではない。哲雄のマネージャーは男で、日本人だった。

 付け加えると、その女は途轍もなく美人だった。

 すっかり枯れてしまった哲雄でも目を奪われるような絶世の美女だったのだ。

 身に覚えのない赤の他人、だが思わず見とれてしまうような美人。

「芸術品のような人だ」

 それが哲雄が持った印象だった。


「こんにちは。私の部屋は気に入ってもらえたかしら?」


 哲雄は流暢な日本語を操るその人物を、訝しげに見つめた。


「ああ、ごめんなさい。私はミューズ。貴方は柳哲雄さんで良いかしら?」


「……ああ」


 哲雄はぶっきらぼうに返事をしたが、ミューズはにっこりと朗らかな笑みを浮かべた。人懐っこいようで、触れれば壊れてしまいそうな、ガラス細工をも思わせる美しさに動揺しそうになったが、哲雄はコーヒーを口に運ぶことでそれを耐えた。

 

「貴方に折り入って頼みたいことがあるの」


 ミューズは手を組んで祈るような姿勢をとった。

 哲雄はまたこの手の輩か、と嘆息した。

 こうやって事務所を通さず哲雄に直接公演依頼に来る人物は少なくない。だがこの類の申し出はたいてい断ってきた。今回も哲雄は断るつもりでいた。


「あーすいませんが、契約等についてはマネージャーに一任してますので、そちらに連絡してください。それに私は公演があるので今は東京から離れられません。当分は日本にいるでしょう」


 哲雄は暗に「誘っても無駄だぞ」といった雰囲気を匂わせ、ミューズに引いてもらおうと考えていた。相手は見るからに外国人。であれば何処かの外国に誘われることは自明の理だ。哲雄はスケジュールを理由に極めて合理的に断った。

 しかしミューズは少し困ったような笑みを見せ、組んでいた手を解いた。


「残念だけど公演には出られないわ」


「なんだって?」


「憶えていないかしら? 貴方は東京のコンサートホールで演奏中に倒れたのよ」


 呼吸が苦しくなる。

 哲雄は胸に手を当て、動悸を鎮めた。意識を失う前に感じていた激痛が蘇ってくるようだった。

 鉛のように重い腕、力の抜けていく脚、会場の悲鳴、オーケストラの仲間たちが駆け寄る足音。様々な事が思い起こされる。


「貴方は死んだの。心臓発作でね……」


「そんな馬鹿な! 私はここにいるじゃないか! 信じられるわけがない!」


 哲雄が立ち上がって声を張り上げる。


 信じられなかった。信じたくはなかった。

 公演も途中だったし、長年教えてきた弟子だってようやく一人前になったばかりだった。

 音楽の探求は留まるところを知らず、後十年は指揮棒を振るつもりだった。


「全部本当よ。それは貴方が一番わかっているでしょう?」


「くっ……!」


 図星だった。

 初めから薄々気づいていたのだ。それでも現実を受け入れられず、普段通りに振る舞うことで、心の平穏を保とうとした。


「そんな…。今日の公演でようやく何かが掴めそうだったんだ……。何十年も紆余曲折しながら指揮棒を振り続けたその先にある物。その一端にあと少しで手が届いたはずなんだ」


「……」


「私はもう指揮棒を振れないのか? もう万雷の拍手を背で受けることができないのか? 仲間たちと音楽を奏でることはもう叶わないのか?」


 哲雄の眼から涙が溢れ、頬を濡らす。“天才”とまで言われた男は童子のように泣き、喚いた。彼を知る者が見れば、信じられないと口にするだろうか。それとも見るに耐えないと口にするだろうか。

 誰もが心酔する音を奏で、オーケストラを意のままに操る男。彼もまた人間であり、弱い部分を持ち合わせていた。

 ミューズはそんな哲雄を(おもんばか)る眼で見ていた。


「柳哲雄。貴方が望むなら再度指揮棒を振る機会を与えましょう」


 ミューズが目を閉じて言葉を紡ぐ。

 先程までの柔らかい雰囲気とはうって変わり、ミューズは厳かな雰囲気を纏わせた。

 目の前の女性がいきなり別人に変わったような気分になり、哲雄は面食らう。しかし、提案は非常に魅力的で、一筋の希望に見えた。


「この私、音楽神ミューズが貴方の希望を叶えましょう」



 そう言ったミューズは厳かな雰囲気を解き、


「なので私の世界に来てくださいな」


 といたずらっぽい笑みを浮かべたのだった。


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