第四話
「でもさ、ウナッチは恵まれてる方だと思うけどな」
と、中平はもう残り少なくなった紅茶を口元に運びながら言った。
海上と中平はサンマルクカフェにふたりでいる。仕事が早く終わったらしい中平が、海上に電話をかけてきて、暇だったら一緒にお茶でもしないかと誘ってきたのだ。海上も特にその日は用事が何もない日だったのですぐに中平の誘いに応じた。
「だって、俺なんて特に何もやりたいことなんてねぇもん」
と、中平は笑って言った。
サンマルクカフェでくだらいな雑談をしているうちに、いつの間にか話題は、海上の音楽に関する話になった。気がつくと、海上は、自分の悩みを適当に冗談で誤魔化しながら中平に話して聞かせていた。こんなふうにぐちぐち悩むくらいなら、いっそのこと、自分は最初から音楽なんてやっていなければよかったのかな、と。
「俺には言わせれば、ウナッチは贅沢だと思うけどな」
と、中平は言葉を続けて言った。
「世の中には自分が何をやりたいのかわかんなくて、なんとなく働いているやつばかりなのにさ、そんななかでウナッチははっきりしとした目標があるんだから、俺は恵まれてると思うよ」
海上は中平の科白に曖昧に頷くと、コーヒーカップを口元に運んだ。しかし、それはいつの間にか空になってしまっていた。海上はコーヒーカップをもとのソーサーの上に戻すと、胸ポケットからタバコの箱を取り出して、そこからタバコを一本取り出して口にくわえた。
「俺は今の会社に就職して二年目だけど、正直、楽しいかって訊かれたら、べつに楽しくはねぇもん。まあ、やっていくうちにちょっとずつ慣れてくるし、責任ある仕事を任されたりして、やりがいを感じたりすることがなくもないけど、でも、ほんとうの意味で充実してるかって言ったらそうじゃないからね。
やっぱり上から指示されて動いてるだけだし、色々と面倒くせぇ規則とかあるしさ・・俺の場合、基本的にお金がないと生活していけいなから、働いているだけだからね。だから、そういう意味ではウナッチはうらやましいと思うよ。やりたことがあって。俺もなんかそういうのあったらいいなって思うけど、なんもないからね」
海上は「なるほどね」と、中平の言葉に頷くと、くわえていたタバコにライターで火をつけた。深く煙を吸い込んで吐き出す。
確かに中平のような意見もあるのだろうな、と、海上は思った。でも、そのやりたいことによってかえって足をひっぱられている人間はどうすればいいのだろうと海上は一方で思ったりする。
なかなか結果を出せずに、かえってそのやりたいことで追い詰められていってしまうような人間は。むしろやりたいことなんて何もなく、適当なところで妥協して、適当に生きていける人間のほうが幸せなんじゃないかと思えたりもする。
そんな海上の考えを見透かしたかのように、中平は言葉を続けて言った。
「そりゃあ、ウナッチみたいに、自分のやりたいことでなかなか結果出せないひとは辛いと思うよ。焦ったりするのもわかる。でも、基本的に、自分のやりたいことをやるっていうのは辛いものだからね。目標を持って生きていくっていうのは大変だよ。でも、そのことは覚悟のうえでウナッチは音楽をはじめたんでしょ?だったら、大変なのは当たり前だと思って頑張った方がいいと思うけどな。三十になったって、四十になったって、自分が納得できるまで」
「・・・そうだね」
と、海上は中平の言葉に少し眼差しを伏せて頷いた。それから、海上はまだほんの少ししか吸っていないタバコの火を灰皿で押しつぶすようにして消した。
「でも、もちろん、このまま音楽を続けていく、いかないは、ウナッチの自由だよ。正直、ウナッチが音楽を辞めたからって音楽がこの世界からなくなってしまうわけじゃないし、誰も困らないよ。ほんとうにウナッチがいま辛いと思ってて、辞めたいって思うんだったら、無理に続ける必要はないと思う。・・・まあ、俺は頑張って続けて欲しいけどね。俺、ウナッチの作る音楽結構好きだしさ」
海上はそういった中平の言葉にどう答えたらいいのかわからなくて黙っていた。中平の話すことはいちいちもっともなことばかりだった。
しかし、海上は中平にどれだけ理屈を述べられても、今、自分がどうしたいのか、どうしていくことが自分にとって正しいと思える選択肢なのか、決められずにいた。
海上が黙って自分の思考のなかに沈んでいると、中平はちょっと水を取ってくると言ってそれまで座っていた席から立ち上がった。
海上が斉藤英樹とばったり再会したのは、海上が休日で街を特に用事もなく歩いていたときだった。
海上がロフトで珍しいデザインの椅子に見とれていると、背後から声をかけられた。海上がちょっと驚いて振り向くと、そこには斉藤英樹が立っていた。斉藤英樹は海上が昔ヒザヤでアルバイトをしていたときに知り合った人間だ。
斉藤はサラリーマン風のスーツ姿で、髪型をきれいに七三わけにしていた。
「久しぶりじゃん」
と、斉藤は笑顔で言った。
「そうだね」
と、海上は曖昧に頷いた。
海上は、斉藤という男がどちらかというと好きではなかった。これは海上の偏見かもしれないのだが、斉藤という男はだいたい自分の話しかしないし、ピザヤでアルバイトをしているときも自分のことは棚にあげて、バイト仲間の気に入らない人間のことを必要以上に悪く言う傾向があった。
また自分がミスをしたときには反省せずに、すぐに他人のせいにする。だから、海上はピザヤのアルバイトを辞めてから斉藤とは全く連絡を取っていなかった。
「なにしてんの?」
と、斉藤は自分が嫌われていることなど全く気がつかない様子で気安い口調で話しかけてきた。
「いや、今日バイト休みだから、ブラブラしてるんだけど」
海上がそう答えると、
「お前、まだバイトやってんだ」
と、斉藤はバカにしたように半分笑って言った。
「じゃあ、なに?まだ音楽やってんだ?」
海上が苛立ちを押さえて我慢強く頷くと、斉藤は口元ににやついた微笑を浮かべて、
「自由でいいねぇ」
と、見下したように言った。
「まあね」
と、海上は答えると、
「斉藤は今なにやってんの?」
と、訊ねてみた。斉藤は海上と一緒にアルバイトをしていたときは、海上と同じようにバンドをやっていた。一度どうしてもと誘われて斉藤の組んでいるバンドのライブを見に行ったことがあるが、砂糖菓子のように甘いラブソングのろくでもない音楽だったことが印象に残っている。
「俺?俺は見てごらんの通り、立派な社会人よ。カメラの営業やってんだけさ、どうせ営業なんてやってもやらなくてもあんま変わらないからこうしてサボッてんの」
斉藤はそう言うと、何が可笑しいのか愉快そうに笑った。
それから海上は斉藤に誘われて近くにあるドトールコーヒーに行った。ほんとうは斉藤と一緒にお茶なんてしたくなかったのだが、断るのも面倒だったのだ。
斉藤は社会人だからと言って、海上が断っても無理に海上のぶんのコーヒー代も払ってくれた。
海上と斉藤は奥のテーブル席に向かい合わせに腰を下ろした。
「斉藤はじゃあもう音楽辞めちゃったんだ?」
と、海上は特にどうしても知りたいというわけでもなかったのだが、話すことも思いつかなかったのでなんとなく訊ねてみた。
すると、斉藤はコーヒーを口元に運びながら頷いた。
「もう、あんなの特に辞めちゃったよ」
と、斉藤はバカバカしいといったように微笑しながら答えた。
「いつまでも青春先延ばししてらんねぇしさ」
「ふうん」
と、海上は斉藤の言葉に頷いた。それから、
「いつ辞めたの?」
と、これもまた特にどうしても知りたいというわけでもなかったのだが、つい反射的に尋ねてしまった。
「さあ」
と、斉藤は海上の言葉に軽く首を傾げると、
「お前がピザヤ辞めてから一年くらいしてからだから、三、四年前じゃねぇの」
と、どうでも良さそうに答えた。それから、斉藤はコーヒーカップをもとのソーサーのうえに戻すと、ポケットからタバコを取り出して口にくわえて火をつけた。そして口から上手そうに煙を吐き出しながら、
「海上もそろそろ将来のこと真剣に考えた方がいいんじゃねぇの?」
と、諭すように言った。
「お前、俺とタメだからもう二十七だろ?もうすぐ三十だぜ?どうすんだよ?三十過ぎてから雇ってくれるような会社なんてそうそう見つからないぜ」
海上は斉藤の言葉にそんなことはわかっていると答えた。すると、斉藤は失笑するように小さく笑って、いやわかってないねと続けて言った。
「お前は甘えてるんだよ」
と、斉藤は言った。
「いつまで叶わない夢にしがみついてるんだよ。もっと現実を見ろよ。二十七にもなってデビューできてないってことは才能なんてなかったってことなんだよ。それくらい自分でわかるだろ?辛いかもしれないけど、ちゃんと現実を見ろよ。もっと大人になれって」
海上はどうして自分がこんな男に説教されなきゃいけないんだと腹が立ったが、しかし、斉藤の言っていることはいちいちもっともだったので返す言葉が見つからなかった。確かに自分は甘えているし、叶わない夢にしがみついているだけなのかもしれない。もっと大人になるべきなのかもしれない。
海上は斉藤の言葉にそうかしもれないな、と、答えた。
斉藤は海上を言い負かしたと思って満足したのか、今度はいたわるように微笑すると、
「お前も、就職しろよ」
と、優しい口調で言った。
「社会人だって悪くねぇって。そりゃあ、義務とか目標とか色々面倒くせぇこともあるけどさ、毎月決まった額の給料もらえるし、ボーナスだってあるんだぜ。好きなもの買えるよ。俺も就職してみてはじめてわかったんだけどさ、どうして俺はあんなに苦労してまで叶わない夢にしがみついてたんだろうって思うよ。お前も就職すれば楽になれるよ。な」
斉藤はそれだけ言うと、腕時計に視線を走らせ、それまで座っていた椅子から立ち上がった。コーヒーにはまだ半分も手をつけていない。
「じゃあ、そろそろ、俺、会社に戻らないといけない時間だからいくわ」
斉藤は申し訳なさそうに言った。海上にしてみれば願ったり叶ったりだったのだが、そんなことは口に出して言えるはずもない。
「コーヒーは適当に片付けておいてよ」
斉藤はテーブルの上のコーヒーを顎で示してから言った。
海上は黙って頷いた。
それから斉藤はへらへらバカにしたような微笑を浮かべながらじゃあなと言うと、海上に背を向けて歩いていこうとした。が、何かを思い出したのか、急に立ち止まって海上の方を振り返ると、胸ポケットに手を伸ばして財布を取り出すと、なかから一枚の紙を取り出して、それを海上に手渡した。
海上が手渡された一枚の紙片を見ていると、
「それ、俺の名刺。なんかあったら連絡してくれよ」
と、斉藤は言った。
「俺、社長と結構仲いいし、お前のこと紹介してあげられるかもよ」
斉藤は微笑んで言った。そしてそれだけ言うと、また改めてじゃあなと言い、背中を向けて歩いていった。
海上は斉藤の姿が見えなくなってしまうと、もらった名刺をすぐに破いて捨てた。