第三話
それから、いつも通り、なんとなく毎日は過ぎていった。アルバイトに行き、たまにスタジオで練習し、家に帰ってから本を読んだり、好きなCDを聴いたりする。特に幸せでも、不幸せでもない毎日。
ゆかりに言われてから海上は諦めずに新曲作りに取り組み続けたけれど、なかなか思うようにははかどらなかった。このさき、もう自分は新しい曲なんて作ることができないんじゃないか、と、だんだん絶望的な気持ちになってくる。
海上の音楽に対する苛立ちはちょっとずつ海上自身の心のなかに蓄積されていき、やがて限界まで蓄積されたそれは行き場を失って、海上の感情のなかで腐りはじめる。
そのとき、海上は信号待ちをしていた。でも、どういうわけか、いつまでも待っても信号は赤のままだった。車の往来は激しく、信号を無視して渡ってしまうこともできない。
海上はだんだん苛立ってきた。特にどうしても早くに家に帰らなければならない用事があるわけでもないのだが、寒空のなか、無意味にこうして待たされるのは苦痛以外の何物でもなかった。それに、今日レンタルショップでDVDを借りて帰ろうとして、以前借りていたDVDが未返却になっていることが判明し、結局その借りたかったDVDを借りることができなかったということも、いまの海上の苛立ちに拍車をかけていた。
DVDが未返却になっているのも、そのせいで借りたかったDVDを借りることができないのも、完全に自業自得なのだけれど、しかし、そうとわかっていても、海上は苛立ちを押さえることができなかった。
こんなことくらいでイライラしているなんて馬鹿馬鹿しいし、無意味だと思ったけれど、海上は我慢できないほどの怒りが込みあげてくるのを感じた。世の中のありとあらゆることが、自分のことをバカにして、コケにしているように感じられた。
曲作りが上手く進まないせいか、普段であればなんとも思わないことが、必要以上に腹立しく感じられてしまう。
海上はムシャクシャしてきて、側にあった電柱を思い切り足で蹴っ飛ばした。
すると、足に猛烈な痛みが走った。
しかも、変な態勢で電柱を蹴ったりしたものだから、バランスを崩して、持っていた自転車ごと派手に転んでしまう。
泣きそうになった。
側で海上のことを見ている人間がいなかったのがせめてもの救いだったが、海上は惨めで、情けない気持ちで一杯になった。
俺はこんなところで一体何をしているのだろう、と、海上は思った。もう二十七歳で、フリーターで、未だにほんの小さな結果さえ出せずにいる。このさき生きていてもいいことなんて何もないんじゃないか、と海上は大袈裟に哀しくなった。
心のなかの、鬱屈した感情がごちゃまぜになって眠っている、粘液質な液体で満たされた黒い沼から、何か絶望にも似た激しい感情が、黒い気泡となって浮かびあがってきて海上の意識のなかで弾けた。
もう、死んでしまってもいいかな、と、ふいに海上は投げやりな気持ちになってしまった。
まるで自分のまわりから音が消えていくように、心に力が入らなくなった。何も考えられなくなった。
ふと気がつくと、無意識のうちに、海上は足を踏み出していた。目の前の道に向かって。
信号は赤のままで、六車線ある道路をたくさんの車がかなりのスピードで走り過ぎて行く。
しかし、海上は構わずに足を前へと運び続けた。
と、そのとき、近くで何かけたたましい音が聞こえた。
なんだろうと思うと、それは車のクラクションだった。
気がつくと、海上はあともう少しで、車の往来の激しい道路のなかに完全に足を踏みこもうとしていた。海上の存在に気がついた車が、際どいところでよけていく。
一体自分は何をしようとしていたのだろうと海上は思った。バカらしい。
我に返った海上は慌ててもとの歩道まで小走りで戻った。
何気なく、となりの電柱を見てみると、目の前の横断歩道は押しボタン式になっている。
やれやれ、と、海上は思った。どうも疲れているみたいだ。ため息をつくと、それはため息の形に白く煙った。
改めて押したボタンを押と、信号は拍子抜けするほどあっさりと赤から青へ変わった。