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第二話

その日、アルバイトを終えて店を出たのは、夜の九時過ぎだった。


今日は日曜日だということもあって店は忙しかった。それに付け加えてイレギュラー的な問題がしばしば発生して、責任者である海上は休暇を取っている店長に確認の電話を入れたりと対応に追われて必要以上に消耗した。


 今日はもうぐったりと疲れ切っていてすぐにでも家に帰りたい気分だったが、日曜日である今日はスタジオに練習の予約をいれておいたのでいかなければならなかった。キャンセルすることもできなくはないのだが、そうすると、キャンセル料を取られることになる。


 スタジオに入ると、海上は早速練習に取り掛かった。やはりスタジオだけあって思い切り大きな音で演奏できるし、歌も歌えるのでいいなと感じる。


 海上はこれまで自分が作ってきたオリジナル曲を一通り練習したあと、この前公園で山本ゆかりが言っていた言葉をふと思い出して、新曲を作りに挑戦してみることにした。考えてみると、ここしばらく新しい曲なんてひとつも作っていない。


 海上の場合、曲を作るときはいつも大抵即興でギターを弾きながら作っていく。でたらめに思いつくままにギターを弾いていると、たまにこれはと思うようなメロディーが浮かんでくることがある。海上の場合、その偶然浮かびあがってきたメロディーを徐々に発展させていって、ひとつの曲を作るという感じだ。そしてメロディーが出来上がってしまってからあとで歌詞をつける。たまにそれが逆になることもある。


 海上はしばらくのあいだ新曲を作ろうとギターをかき鳴らしてみたが、結局、全ては徒労に終わってしまった。ギターの音は頭のなかを上滑りしていく。ギターを弾いているうちに、でたらめな音の羅列が少しずつ纏まった形になっていくということがない。音が像を結んでいかない。


 海上は諦めてギターを置いた。そして曲を作ることができないのであれば、せめて歌詞だけでも書こうと思った。大学ノートを開き、ボールペンを持つ。


しかし、これもだめだった。一瞬、いい言葉が浮かんだと思ってそれをノートに書き写してみても、しばらくすると、それがなんだか安っぽい言葉のように思えてきてしまう。仮に何行か書き進めることができたとしても、そこから先の言葉が、ぷつん音が途切れてしまったように、何も浮かんでこなくなってしまう。暗闇のなかを彷徨っていて、やっと出口を見つけた思い、ドアを開けて階段を下りていくと、途中でその階段がなくなってしまっていたという感じだ。


 海上は妙に暗い気持ちになって広げていた大学ノートを閉じた。それから目を閉じる。スタジオのなかにいるので目を閉じてもそれほど目の前が真っ暗になることはないはずなのに、そのとき目を閉じた瞼の裏側には、奇妙に濃度の高い暗闇が広がっているように海上には感じられた。



 


練習を終えてアパートに戻ったのは、もう十二時近くだった。


西田直美は、2DKのアパートの、寝室として使用している部屋でもう眠っていた。

 

直美とは付き合って六年目になる。そして同棲するようになってからは四年の歳月が流れている。

 

直美は海上よりもふたつ年上なので現在二十九歳だ。彼女は現在ロフトで派遣社員として働いている。

 

もう付き合ってから長いし、できることなら彼女と結婚したいと思うのだが、しかし、いかんせん、海上は明日どうなるかわからないフリーターの身なので今はとても結婚することなどできない。彼女も来年は三十歳だし、早く結婚したいだろうなと思うと、海上は申し訳ない気持ちで一杯になる。彼女のためにも、あえて自分は直美と別れた方がいいのかもしれないと最近は考えたりすることもある。


 海上は彼女を起こさないようにそっと部屋を移動すると、もうひとつのリビングとして使っている部屋に移動した。


 とりあえずという感じで風呂に入る。風呂からあがると海上はテレビをつけた。


テレビでは夜のニュースがやっていた。ニュースでは相変わらず明るい話題よりも暗い話題の方が多かった。どこかの遠い国では自爆テロが多発していて、今のところそれを防ぐ有効な手立ては見つかっていないようだった。日本では有名な国会議員が汚職で捕まり、どこかの小さな町では殺人事件が起っていた。特集として、ネットカフェ難民と呼ばれる低所得者たちの悲惨な現状が報道されていた。


 テレビを見ていると、もうどこにも希望なんてないような暗い気持ちになってくる。海上はうんざりした気持ちになってつけていたテレビを消した。


 気分転換に音楽でも聴こうと思い、最近買ったばかりのCDをCDプレイヤーのなかに入れ、ヘッドホンで聴く。でも、その音楽を聞いていても少しも音楽に気持ちを集中することができないどころか、ただうるさく感じるだけだった。

 

海上は音楽を聴くこともやめた。

 

何もやりたいと思うことがなくなってしまった。


 部屋のなかは奇妙にしんとして静まり返っていて、息苦しく感じられるくらいだった。六畳一間の空間が、自分の方に向かってぎゅっと収縮してくるような圧迫感に襲われる。


 海上は諦めて消していたテレビをつけた。テレビでは夜のニュースが終わり、何かのバラエティ番組がはじまったところだった。テレビから賑やかな笑い声が聞こえてくる。


 と、そのとき、海上の居る部屋のドアが唐突に開いた。見てみると、直美が眠そうな顔で立っている。

「ごめん。起こしちゃった?」

 海上は直美の顔を見て言った。すると、直美は眠そうな顔で首を振り、

「ちょっと喉が渇いちゃって」

 と、ぼんやりとした口調で答えた。


 彼女はそのまま台所の方へ歩いていくと、冷蔵庫から麦茶を取り出して、コップに注ぎ、一息に飲み干した。寝室として使っている部屋から台所にいくためには海上の居る部屋を通らなければならない。


 直美は麦茶を元通り冷蔵庫のなかに戻すと、また海上の居る部屋まで戻ってきて、海上のとなりあたりに腰を下ろした。そして焦点の定まらない視線をなんとなくテレビ画面に向けながら、

「今、帰ってきたの?」

 と、尋ねてきた。

 海上は彼女の問に短く頷いた。

「練習してたの?」

 海上はそうだというように頷いた。

「最近調子はどう?」

「あんまりよくないね」

 と、海上は答えた。

「そっか」

 と、直美はどう言ったらいいのかわからない様子で曖昧に頷いた。沈黙があって、少しのあいだ、テレビの音声が狭い部屋に溢れた。


「明日仕事は?」

 と、今度は海上の方から訊ねてみた。

「九時から。だから明日は七時起き」

 直美は海上の問にそう答えると、眠そうにあくびをひとつした。

「起きてていいの?」

 と、海上がちょっと心配になって言うと、

「大丈夫。今日帰ってきてからすぐ眠ったから」

 と、直美は微笑して答えた。

「そっか」

 と、海上はただ頷いた。

「来週ね」

 と、何秒間か黙っていてから直美はふと思いついたように口を開いた。

「うん」

 と、海上は相槌を打った。

「友達の結婚式があって、だからちょっと行ってくるね。その日は友達の家に泊まることになると思うから」

 海上は彼女の科白にわかったと頷いた。そしてそれから海上は、

「なんかごめん」

 と、短く謝った。

「何が?」

と、海上の言葉に、直美は振り向いて少し可笑しそうに口角をあげる。


「いや、ほんとうだったらさ、直美も結婚とかしたいだろうなと思ってさ」

 海上がちょっと照れ臭くなって濁すように答えると、直美は少し笑って、

「もしかしてわたしが結婚式の話なんてしたから?」

 と、からかうような口調で言った。それから、彼女は急に真面目な表情に戻ると、

「そんなことだったら気にしなくて大丈夫だよ」

 と、優しい口調で言った。

「わたしはべつに早く結婚することにこだわってるわけじゃないし」

 直美は続けてそう言うと、微笑んで、

「そんなこと考えてる暇があったら、頑張っていい音楽作ってよ。そして早くデビューしてよ」

 と、言った。

「そうだね」

 と、海上は彼女の言葉に苦笑するように笑って頷いた。直美の言葉は、単純に海上にはありがたく感じられた。


 それから、海上は、直美が麦茶を飲むところを目にしたせいなのか、急に喉の渇きを覚えた。海上はそれまで座っていた床から立ち上がると、台所まで歩いていき、冷蔵庫から麦茶を取り出すと、それをグラスに注いで直美のときと同じように一息で飲み干した。


 ふと台所の窓の外に目を向けると、そこには月が見えていた。それは上の箇所がほんの少し欠けた、淡い黄色の、優しい光を放つ月だった。











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