激しさの前兆
かなりの急展開になります。
無数の大きなクレーターが滑走路にあちらこちらに広がっていてとてもじゃないけど着陸が出来ないので、飛行場に立っている誘導員の元、無傷の第四走路に機体を旋回した。
着陸を終え指揮所に戻るけど、あのくだらない様な楽しいお話はまったく無く戦闘機達のエンジン音と緩やかに流れる風の音だけが耳に入って、誰も口開くことなく指揮所の指揮官が「彼は戦死してしまった・・。非常に残念なことであるが、それ以上に厳しい壁を我々は乗り越えなければならない」と言い終え各自が解散した。
誰かが啜り泣けばそれに釣られ私も苦しいしゃっくりを発し、とぼとぼ宿舎に戻ろうする。
人を失うのってこんなにも悲しいなんて・・。
脳裏に蘇る最期の笑顔、半人前で、少尉と言う立場の人間を自らを犠牲にしたと思えば私が彼女を殺したと苦しく胸が痛みつけられ、罪悪感がだけが私の心中を蝕んで入った。
その日夜、ベッドの中横になり私は只一人、宿舎の中人一倍啜り泣いていた。何故なら尊敬していたアリーセ大尉が死んだのだから・・。
1941年も終わり1942年に突入すると、ベルギー方面に襲来する爆撃機の数が日々増していくと同時に、空の中戦死するものも次第に増え始め、精神的に参るパイロットになれば敵討ちに自暴自棄になる者までいた。
戦っているうちに私も変わり始めた。少しずつ慣れてくる対人関係にみんなの目が笑っていない、不気味なくらいに作っているような感じで本人達はこれでも面白い感情を出したつもりでいたけど自身そう感じられない。
乱れた軍紀も次第に治りつつあった。例えば命令無視とか・・。
前にも同じ様にJG22部隊は落ちこぼれ部隊として上層部から前線に出せない連中と見ているけど、こんな事をやっても一人前のパイロットにはなれないと私は思った。
8月中旬にJG22の指揮所前にパイロット達が飛行服を着て集合する。すると、指揮官が「フランスのディエップ地方に要請が出た」と言う言葉に長く配属されたJG22の隊員達が大喜び、初めての援護要請らしく士気と血の気が沸いて彼らは喜びに満ちた顔で飛行機に走り、各自準備が出来次第離陸した。
ベルギーの空軍基地からフランスは飛行機で飛べばあっという間の距離で、青い海岸には上陸用舟艇が海を渡り砲弾が海面に飛び込むかのように、白い水柱が立ち上がりすでに戦闘状態に入っていた。
内陸側のドイツ軍陣地は非常に分厚いコンクリートが立てられて、そこから見える野砲や対戦車火器が見える。
エレーナ中尉の元で、小隊長機が高度を緩やかに落としはじめ私もその後に続き、狙えるものには目視で補足し機銃発射機を指で添え、いつでも撃てる体制にいた。
そして各機が銃撃する音に私も発射機を倒した。7.92mm弾と20mm弾がすーっと伸び、水が跳ねながら上陸艦に弾丸が命中し炎が燃え上がり見つめながら再度機銃攻撃をしかけ機体を旋回。
不思議な事にも敵機が見当たらず、私は安心しながら地上の様子をじっくり眺めながらまた機銃を発射した。逃げ惑う連合軍の兵士が次々なぎ倒され、戦車はスツーカの爆撃に破壊され、上陸艦吹き飛ばされ、もはや逆的奇襲攻撃の様な場面に私は吹きそうになってしまい「どうやったらこんな事になるんだろうか」と無能な上官を見てみたいと頭の中でその敵の指揮官を想像しながら笑っていた。
簡単な攻撃を終えて引き返し、我々は基地へ帰還した。
西部戦線は大規模な作戦も行動もなく、レジスタンスや敵の特殊部隊を虱潰しに叩いているぐらいしか行っておらず我々JG22らは暇な時を向かえ、時には激しい時を迎えるなど温度差が激しく慣れには大変だった。
しかしRAFのロイヤルチームが目立つと戦友達は命を落とし、果てには私が狙われるようになりいつもひやひやしながら戦闘機を操る日々である・・。




