第一話 前兆 -precursor-
その夜、ぼくは独りで公園にいた。
昼はあれだけ喧騒に満ちていた周囲は、今はもう誰の気配も無い。
風のない初夏の夜。ときどき近くの木の上で鳥の啼き声がする。
ぼんやりと暗い空では、半分よりもう少しだけ欠けた不細工な月が、まるでぼくを嘲笑っているみたいだ。
なんだか心がざわつく。
どこかから野犬の遠吠えが響いた。ガアガアと啼いていた鳥たちが一斉に黙る。
辺りには少しの静寂が訪れた。
熱気を孕んだ空気はじっとりとしていて、体にも心にも、まるでいたぶるようにまとわりついてくる。
――誰もいない。
一緒に遊びに来たアヤちゃんはとっくに家に帰ってしまった。ぼくを置いて。ぼくなんて忘れて。
それとも今頃、思い出してくれているだろうか?
公園に忘れてしまったことに気づいて、迎えに来てくれるだろうか?
ほんの少し期待が湧いて、それから何倍もの不安が襲ってくる。
アヤちゃんが小学校に入ってもう二年目。日に日に一緒に遊ぶ時間は減っていった。小さい頃は毎日ずっと、夜寝る時だって一緒だったのに。
最近は学校のお友達と遊ぶことが多くて、そういう時大抵ぼくは放っておかれる。
今日は久しぶりに一緒に公園に遊びに来たのに、アヤちゃんは途中から来た学校の友達とかくれんぼを始めちゃった。ぼくはそのまま忘れられ、気がついたら置いて行かれてた。
一体、これからどうなるんだろう。
「知りたいの?」
急に背後から声が聞こえた。
身動きが取れないぼくには、声の主を確かめる術がない。
――だれだろう?
心の中で呟く。
声が聞こえた瞬間、ほんの一瞬、アヤちゃんが戻ってきてくれたんじゃないかと思った。でもすぐにそれはアヤちゃんの声じゃないとわかった。聞いたことの無い、おんなのひとの声。
背後の誰かは、くっくっと微かに声を漏らした。
まるでぼくの心の声が聞こえていて、それを嘲笑ったかのように。
「教えてあげるわ」
そう言いながら、その誰かは前に回りこんでくる。おとなではないみたいだけど、アヤちゃんよりずっと大きいおんなのひとだ。となりの家のモモちゃんくらい大きい。モモちゃんと同じ中学生? それとも高校生?
まるでカラスみたいに黒い服を着て、同じ色の頭巾をかぶっている。アヤちゃんと一緒に読んだ本に出てきたシスターさんみたいだ。
「そう、わたしはシスター。シスター・ダイア」
シスターさんは薄笑いを浮かべてそう名乗った。服と同じくらい黒くて長い髪、琥珀色の瞳、とても綺麗なおんなのひとだ。声もとても綺麗。でも、どうしてだろう、なんだか少し怖い。それにやっぱりこの人には、ぼくの声が聞こえているみたいだ。
「あら、わたしを怖がる必要は無いわ」
シスターさんはそう言ってしゃがんで、ぼくを抱え上げる。そしてそのまま、昔はいつもアヤちゃんがしてくれていたみたいに、ギュッと抱きしめてくれた。
体温が伝わってくる。さっきまでの不安が少しずつ薄れて、心の中が温かくなっていく。アヤちゃんとの幸せな思い出がたくさん浮かんでくる。
どれくらいそうしていたかわからない。不意にシスターさんはぼくを抱きしめるのをやめて、顔の高さまで持ち上げた。
「可愛いクマさん、あなたが本当に怖いのはわたしではないの。もうわかっているでしょう?」
ドキリとした。
さっきまで心に浮かんでいた幸せな思い出は、あっという間に凍りついてしまった。
「アヤちゃんが迎えに来てくれたら、家に連れて帰ってくれたら、幸せが待ってると思う?」
シスターさんの言葉は、考えないように、考えないようにとしてきたことだった。
まるで体にハサミを刺されて、綿を引きずり出された気分だ。
「子供は少しずつ大人になっていくの」
やめて……。
「大人になったら、薄汚れたクマのぬいぐるみなんて要らなくなるわ」
やめて、聞きたくない!
「ううん、もし必要だったとしても、その時は綺麗で新しい別のぬいぐるみを買えばいいの。そして要らなくなったあなたは……」
やめて、その先は……ソノサキハ……!
「そう、あなたは棄てられる……ゴミと一緒に、ゴミのように。いいえ、あなたはゴミそのものになってしまうんだわ」
ヤ……メ……!
「このまま忘れ去られたら、明日にでも公園のゴミとして処分される。でもたとえ思い出してもらえても、やがて家庭ゴミになる日が来る。わかるでしょう? どのみちあなたにはゴミの運命しかないのよ」
もう何も考えることができなかった。
世界がひび割れた。
幸せな記憶も、目の前の景色も、何もかもがひび割れた。
いや、ひび割れたのはぼく自身かもしれない。
ひび割れて崩れ落ちそうなその隙間に、何か赤いものが染み込んでくる。視界が、意識が、心が、真っ赤に塗り潰されていく。
そして、全部が赤に染まった。
「グオオオオオオオオオオオオオ!」
ぼくは生まれて初めて声を出した。衝動のままに叫んだ。
いつのまにか体は大きく大きく膨れ上がっている。さっきまでぼくを両手で抱き上げていたシスターさんは、今は足元から満足げに見上げている。
「フフ……あははは! 『フアンダー』よ、《組織》のためにエレメントストーンを探すのだ!」
「グオオオォォォォ! フアンダー!」
夜の空に、シスターさんの高笑いと、ぼくではなくなってしまった何かの雄叫びが響いた。
表現調整(14/03/17)
話数追加(14/04/07)