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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

終わる世界の青い空

作者: 烏羽 真黒

「あなたがすき」


「わたしもすき」


 幾度繰り返した言葉だろう。

 何も意味を持たない音。こういえば皆、優しくなる。

 でもきっと、皆が知っている。

 

 この〝すき〟は、何も生まない〝すき〟。

 幾らでもあげられるし、山ほど貰ってきたけれど、お腹を満たしてはくれない。

 だから今日も――昨日も、明日も、私は誰かの前で肌を晒す。

 あなたがすきと、言ってもらうために。

 あなたに飽きたと、言われないために。











 風が暖かく、眠気を誘う春の朝。目を覚ましてみると、隣には誰も寝ていなかった。

 乱れたままのシーツ、蹴り飛ばされた掛布団――日本式の、おかしなベッド。


「……おなかすいた」


 けど、眠い。枕をきゅうと抱いて、布団を足で引き寄せた。

 春は良い、裸で寝ても寒くない。だから、お金もいっぱい貰える――服を着たままだと、喜んでくれない人もいる。

 それでも、朝が辛いのは、冬も春もおんなじだ。


 昨日、一緒に寝た人。彼女はどこに行ったんだろう。

 まだ残っている、彼女の臭い――油臭くて、火薬が少し混じってて。

 化け物をたっぷり殺したんだと、誇らしげに笑っていた彼女。

 名前は、最初の時に聞いた。でも、直ぐに忘れた。〝あなた〟と呼んで〝あなた〟と呼ばれる、それだけでいいから。

 だって――彼女とは、夜にしか会えない。他の誰かを連れてくる事も無い。

 前に一度、こう聞いてみた。〝誰かいっしょに来ないの?〟って。

 そうしたら彼女は、〝何でそんな事を聞くの?〟と答えた。


「……なんで、だったっけ」


 きっと、あんまり意味は無かった。

 相手が二人だと、お金がいっぱい貰える。たぶんその時も、私はおなかが空いてたんだと思う。

 でも、その時だけだった。もう二度と、そんな事は聞かなかった。

 あんまり彼女が、悲しそうな顔をしたから。


「ごはん、どうしよう」


 ヘッドボードの棚を開く。彼女が置いて行ったお金が入っている。

 私の代金――他の人に言ってるより、少しだけ少なく、彼女には言う。彼女はいつも、他の人よりたくさん置いていく。

 だから、彼女に愛された次の日は、ちょっとだけ贅沢をしても良い。

 けれど、やっぱり眠くて、ベッドから出たくなかった。

 朝ご飯は食べないで、お昼に纏めてたくさん食べよう。そう決めて、布団を頭にまで被る。

 まだ、彼女の体温は残っている気がした。






 青く澄んだ空、太陽が高い。昼になってからやっと、私は街に出た。

 今日は何をしよう――何もしなくていい。ちゃりちゃりとお金を鳴らして、安食堂に向かう。

 何人もの人と擦れ違う――肌の黒い人、白い人。背の高い人、小さい人。

 でも、お金を持ってそうな人が少ない。皆、この街の人達だ。

 この街は、そんなに住みやすくない。お金持ちが少ないから、外からお金が入ってくるのを待たなきゃない。

 けど、他の何処へも行かないのは――私が、ここで生まれたからだと思う。


 お母さんがこの街の人だった。お父さんは見たことがない。

 いつのまにか、私はお母さんと同じ仕事をしていた。

 娼婦――これが自分の仕事だって、はっきり言うと、笑われる。

 そんな明け透けな娼婦は聞いた事が無い、もっと影のあるもんだ、なんて。


 でも、悪い事はしてない。

 お母さんがそういう仕事をしてたから、私が生まれた。私はこの仕事をしてるから、弱くても、生きていける。弱くても、他の誰かが守ってくれる。

 それに――今は、昔よりも、私達は働きやすいらしい。

 だって、子供は絶対に生まれないから。だから、働けなくなる事が無い。


 小さい頃は、それが分からなかった。お母さんが私を生んだのに、私が誰も産めないのが、良く分からなかった。

 この世界に〝男〟はいない。〝人間の女〟と〝オス〟が居るだけ。

 いつからそうなったのかは――私が四歳くらいの時って聞いてる。

 だから私は、赤ちゃんを見た事が無い。可愛いって聞いた事は有るけど――欲しいとは、思わない。


「いらっしゃ――なんだ、セレストかい」


「おばちゃん、ハンバーグ定食ちょうだい」


「豪勢だね、いつものお客さんかい?」


「ん……うん」


 食堂に入って、隅っこの席にすわる。店主のおばちゃんは、私の部屋の家主さんもしてる。

 ここのご飯は美味しいし、家賃もそんなに高くない――おばちゃんはぶっきらぼうだけど、優しい。

 でもおばちゃんに言わせると、娼婦は〝泊めてておいしい客〟なんだそうだ。


「ほんに今日は客の入りが悪い……セレスト、ちょっと呼び込みしておいで」


「おばちゃん、それいっつも言ってる」


「いっつも客が少ないんだよ! ……ほんとにもう」


 ぶつぶつと愚痴を呟きながら、ダン! とテーブルに置かれるお茶碗――には、ご飯が山盛り。

 ちょっと待つと今度は、鉄板の上に解凍したハンバーグと、それからケチャップがそのままボトルごと。

 ナイフもフォークも出ないけど、お箸で早速食べ始める。


「……そりゃ、少なくなるに決まってるよねぇ。増えないんだもの」


「ん?」


「人間。殺されるけど生まれちゃこない。移動してきたところで、また出てって死んでく……はぁ。

 ほんとにもう、旦那が死んだ時にぽっくり行っときゃ良かったよ」


「旦那さん……どんな女の人?」


「男! わたしゃそんな趣味は無いよ!」


「えー、おばさん変なのー」


 男――見た事は、多分有る。小さい頃には見た。

 そういえば昔は、男が女といっしょに歩いていた――ような気がする。


「……ねえ、おばさん。その人、〝すき〟だったの?」


「なんだい、藪から棒に」


 ケチャップでハンバーグに絵を描きながら、ちょっと思ったことを聞いてみる。

 おばさんは少しだけ顔を赤くしながら、食器をいつもより余計にガチャガチャ鳴らした。


「……そりゃ、好きじゃなきゃ連れ添わないよ。結婚してからは鬱陶しいばっかりだったけどね。

 あの亭主と来たら、結婚前はスマートだったくせに、家を持ってからはブクブク太って……」


「おばさんとおんなじだね」


「殴るよ!」


 宣言と同時の拳骨。まるっこい手は、あんまり痛くない。

 口からご飯をこぼしそうになって、どうにか手で抑え込んだ。


「……結婚も、悪くないもんだよ――もんだったよ。今じゃ結婚なんて、してもしなくてもあんまり変わらないだろうけど。

 昔はね、私はこの人といっしょになるって皆の前で決めて、家族になるって大事な意味が有ったんだ」


「今も、あんまり変わんないんじゃない?」


「違うよ、全然違う。……確かに法律じゃ、まだ結婚の意味は残ってるかも知れないけど。この街で誰が、法律なんて気にするんだい?

 女同士でくっ付くのと、男と女がくっ付くのはね……家庭を持つかどうか、そういう違いが有るんだよ」


 ……おばさんは時々、良く分からない事を言う。

 でも、分からないのも仕方が無いのかも知れない。おばさんは古い人だし、私はそんなに頭が良くない。

 一つだけ分かる事が有るとしたら、こうだ。

 家庭っていうのは、何かいい物なんだろう、って。






 お腹はいっぱいになったから、お買いものをして帰った。

 何日分かのごはんと、綺麗なタオルと洗剤と。結構な量になってしまって、重い。

 よいしょよいしょと運ぶけど、行きはよいよい帰りは怖い、普段より随分長い道のりに感じる。

 路地に入れば近道だけど、そっちは危ないから、荷物を持ちながらはあんまり行きたくない。荷物が無い時は――命まで取られる事は無いし、少し乱暴されたって、お金をもらえる事も有る。

 表通りを歩きながら空を見上げた。遅く起きちゃったから、もう日が少し傾いてる。

 でも、私の一日は終わりじゃない。

 お金をいっぱい貰ったから、今日はお仕事はしなくても良い。けど――私は、声を掛けてくれる誰かを探す。

 首の後ろのタトゥーは、ちょっとした噂にはなったみたいで、これを見た人に呼び止められる事がある。

 そういう時に交わすのは、本当に短い会話ばっかりだ。〝幾ら?〟って言われて〝これだけでいいよ〟って返す。

 値切られる事もあるけど、そういう時は別な人を探す。

 だって、娼婦を欲しがってる人は、本当にたくさんいるから。

 一人が離れていっても、また別な一人を探せばいい。


「そこのお嬢さん、今日も綺麗な空ね」


 でも、なんでだろう。最近はいっつも、この人に見つかる。


「ええ、本当にね。オレンジ色の、綺麗な空」


「そして、それに負けない美人さん。ただいま、私が帰ったよ」


 今朝、言葉も残さずに、私のベッドから消えた人。彼女は昨日とおんなじ恰好で、私の帰り道に立っていた。

 背の高い人――私より、頭一つも大きな人。

 機械油と火薬の臭いが、いくら洗っても取れない人。

 いつも笑ってるけど、そんなに楽しそうには見えない――でも、私に会いに来てくれる人。


「いらっしゃい、お客さん。今日はどういうことがしたいの?」


「……お帰りって言ってくれないの? つれないなぁ」


「言って欲しいの?」


 このお喋りも、いつもの事。

 彼女はいつも〝ただいま〟と言うし、私はいつも〝いらっしゃい〟って言う。

 そうすると彼女は、私より大人びた顔を子供みたいに膨らませて、ぶうぶうと文句を言う――それが面白いから。


「重いだろ、持つよ」


「本当に? ありがとう、ちょっと買い過ぎちゃったの」


「あっはは……洗い物が多いだろうからなぁ」


 彼女は、戦闘区域の人だ。だから力も強いし、お金もたくさん持っている。

 今は長期休暇の最中らしい。長く戦って来た兵士の特権とか、そんな事を言ってた気がする。

 荷物を持つ彼女の手に、体を寄せて歩く――こうすると皆が喜ぶから。

 彼女もやっぱり喜んでくれている。笑い方が少し大きくなった。


「どこに行ってたの?」


「お仕事。……新兵がさぁ、やっぱり頼りないんだ。私が付いてないと不安で不安で……」


「お休みなんでしょ、もったいない」


 確かにな、なんて笑って、彼女は私の肩を抱いた。


「……今日はどうしたいの?」


「あなたを抱きたい。先約は入ってないんだろ?」


 うなじに彼女の息が当たる。首のタトゥーに歯を当てられた――始まりの合図だ。

 今日の彼女はちょっと、気が早すぎるかも知れない。


「うん、いいよ。でもここじゃ駄目ね、寒いし固いもん」


「暖めてやるし、あなたが上で良いよ。駄目?」


「だーめ」


「ぶー」


 くっ付いて歩く私達を、変な風に見る人はいない。

 この時間、この街は、だいたいこんな感じだから。私達とおんなじで、愛し合いたい人で溢れているから。


「ねえ。どうかしたの?」


「どうもしないよ、お姫様」


「嘘吐き。寂しそうだよ、あなた」


 彼女は分かりやすい人だ。こういう風に言うと、目があっちこっちに泳ぐ。

 戻っておいでーって、目の前で手をパタパタと振って――がしっと掴まれた。


「放して欲しい?」


「ううん。このまんま行こう?」


 安アパートの三階、両隣と下は空き部屋。彼女を招き入れて靴を脱ぐ。

 荷物は床に、私はベッドの上に――彼女の重さが、スプリングを軋ませた。






 愛されるのは好きかって、誰かに聞かれた事がある。

 すきだって答えたら、鼻で笑われて、私は何か間違えたのかも知れないなんて思った。

 けど、嫌いになる理由は無い。

 時々酷い人には当たるけど、優しい人に当たれば気持ちいいし、誰かと一緒に入るベッドは暖かいし、お金だって貰える。


「……やっぱり変だよ、お姫様」


「そうなの?」


 でも、彼女にそんな事を言ったら、苦笑いで返された。

 互いに愛し合って、上り詰めて、呼吸を整えて。少し強まった眠気を堪えながら、とりとめも無い事を話す時間。

 いつも彼女は、楽しそうに笑ってばっかりなのに――今日の彼女は、やっぱりおかしい。


「ねえ、あなた。家族って、いるの?」


 それを言うなら、私だっておかしいのかも知れないけれど。

 普段の私なら、きっと、こんな事を聞こうとは思わなかった。

 おばさんのせいなのか――おかしな、彼女のせいなのか。


「家族……いないな、誰も。あなたと同じさ」


 傷だらけの彼女の胸に顔を埋める。優しく抱きしめられて――顔が胸に埋まって、ちょっとだけ息苦しい。


「母親は見た事が無い。父親は御多分に漏れず感染して――〝オス〟の、化け物の仲間入り。だから、ずっと一人だった」


「そうなんだ」


 隔てる衣服の無い、肌と肌での触れ合い。とくん、とくんと、心臓が静かになっている。

 まだ私の鼓動は早いのに、彼女はもう、歩いている時よりも落ち着いていて――


「……何で、ただいまって言うの?」


 びくっと、彼女の体が震えた。

 私を包む彼女の腕が、小さく細くなったように感じて――慌てて私は、自分から彼女を抱きしめる。

 そうしないと、そのまんま小さくなり続けて、何処かに居なくなってしまいそうに感じたから。


「何処かに、帰りたいんだな……きっと」


 彼女は、小さく呟いた。


「誰かに待ってて欲しい――誰かが待ってる家庭が欲しい。馬鹿な事を言ってるよな。

 男はもういない世界だ。そんなもの、何処を探しても見つからないのは分かってるのに……でも、探してる。

 お帰りって言ってくれる人が、何処かにいないかって」


「……くすっ」


 思わず、笑ってしまった。


「……そんなにおかしい?」


「ええ。だってあなた、おばさんみたいな事を言うんだもん」


 彼女は意外と古い人なのかも知れない――今日、初めて気付いた。

 家庭、家族、そういうものには、〝男〟が居ないと駄目だなんて、まだ思ってる。


「それじゃあ、私がお帰りって言ってあげる」


「……え?」


 ほら、目を丸くした。


「言って欲しいんでしょ。あなたが私を買いに来る時は、必ずそう言ってあげる。

 だから、何度も会いに来て。そして――たくさん、私を愛して」


「……ああ」


 ぐい、と腕を引っ張られた。

 うつ伏せにされ、彼女の体の下に組み敷かれる。舌が腰に這い、背に登って行く。


「え、ちょっと……また?」


「うん、我慢できない。いいだろ?」


「もー……」


 首のタトゥー――蒼い羽の蝶。彼女の舌に取らえられ、首筋に歯が沈む。

 優しく力強い手が、虫のように、蛇のように、私の内股を這いまわった。


「あなたがすき」


「わたしもすき」


 喉に込み上げる声――嬌声。

 これを彼女に聞かれるのが、たまらなく心地良かった。






 次の日の朝も、彼女は何も告げずに姿を消していた。

 いつもそうだから、もう何も言う気が起きないけれど――ちょっと寂しいし、寒い。

 昨日は片づけも程々に眠ってしまったから、昼まで寝てるような事も出来ない。

 ヘッドボードにはやっぱり、他の人よりちょっと多めのお金が残されている。けれど、料理の材料は、昨日のうちに買ってしまっていた。


「……ふぁーぁ……ぁう」


 欠伸をしながら、姿見の前に立つ。

 今日はお仕事を休んだ方が良いかも知れない――胸にも首筋にもお腹にも、彼女の唇の痕が残っている。

 背中は自分では見えないけど、多分、肩にもお尻にも――困った人だ。

 こういう事をされると、機嫌を悪くするお客さんもいるんだからやめて欲しいと、前から何度も言ってるのに……。

 少し丈の長い服を選んで、ストールを巻いて、外へ出た。

 今日はお休みに決めたんだから、たまには何処かへ出かけてみようと。


「行ってきまーす」


 誰も残らない部屋にそう言って、靴に足を入れ。寝ぼけ眼を擦りながら、私はアパートの階段を降りた。






 どこへ行こうか――少しあわただしい街を眺める。

 こんなに忙しい所だったろうか――きっと、そうだ。

 あんまり良い街だと思ってなかったから、ゆっくりと眺めた事が無かった。

 汚れた建物、ゴミの落ちた通り。ゴミ箱は落書きされてるか壊されてるし、時々どこかで悲鳴が聞こえる。

 でも、私が生まれた街だ。

 私はこの街に、ただいまを言っても良いんだろう。誰もおかえりと言ってくれなくても、私は〝自分がそう言えれば〟良い。


 だから――決めた。

 この街に、この世界に、ただいまを言える場所が無い人が居ても。彼女にお帰りを言ってあげよう――言ってあげたい。

 帰る場所が欲しいって、震えて泣くような小さな子供を、少しでも慰めてあげようって。


 でも、何をすればいいんだろう。

 とりあえず、帰ってくる頃に、家で待っててあげなくちゃない。彼女が何時くらいに帰ってくるか知らない。まず、これを聞こう。

 帰ってくる時に、私がそこにいないといけない。他の用件が入らないようにしなくちゃ――そうすると、お仕事はどうしよう。

 出来るだけ早く帰ってこられるお仕事を探して、買い物は済ませておいて。

 得意じゃないお料理も、ちょっとは練習しなきゃないかも知れない。


「……ふふっ」


 なんだか、お出かけの準備みたいな気分だ。

 誰かが向こうから走ってくる、ひょいと避けて元の位置に戻る。足取り軽く、スキップ、スキップ。

 そういえば、彼女が配属されているのは、この街の直ぐ外の戦闘区域。簡単に歩いていけるくらいの所だったっけ。

 上々の気分に任せて、歩く事にした。30分も歩けばきっと、彼女の仕事場に付くんだから。



 そう思いながら、空ばかりを見上げて歩いて、私が気付かなかった事。



 ――擦れ違う人は多かった。

 けど、誰も追い越さなかったし、追い越される事も無かった。

 誰も、私と同じ方には歩いて行かなかった。



「セレスト、あんた!」


 突然、腕を掴まれて引っ張られた。びっくりして振り向いて――食堂のおばさんだった。


「あれ? おばさん、こんにちはー」


「何がこんにちはだい! 何処行くんだこの馬鹿!」


 ちゃんとあいさつはした――ら、なんでだろう、怒られた。

 良く分からないまんま、ごめんなさいって言おうとしたけど――おばさんの顔が怖くて、何も言えなかった。


「……どうしたの?」


「〝あいつら〟が出た! 街に入ってくるかも知れないんだ、シェルターまで逃げな! ……ったく、緊急警報くらい聞いとけっての!」


 あいつら――〝オス〟の事。

 分かった瞬間、私は、おばさんの腕を振り払って走り出していた。







 どうして、この世界に男がいないのか。それは、男っていう生き物が全部死んだから。

 本当はちょっと違う。人間の男はみんな、人間じゃない何かになった。

 それが、〝オス〟。動物みたいな恰好で、人を襲って食べる、意味の分からないモノ。

 お母さんも、それに殺された。私のお父さんも多分、それになってるんだと思う。

 男がいない世界が生まれて、人間は減り始めた。

 いつか、最後の一人が消える日――百年くらい後の事だろうけど――〝オス〟が残ってるかは知らない。

 多分、残ってるんじゃないかなって、なんとなく思った事は有る。


 だって、〝オス〟は強いから。

 女より体が大きくて力が強くて、爪とか牙とか、いろんなものを持ってる。だから、素手じゃ勝てない。

 今日はネイルガンを持ってきてない――彼女からの贈り物だが、物騒な道具だし、街から出るつもりは無かった。


 でも私は、そんな事は忘れて走った。追い掛けてくるおばさんも振り切って、汚れたビルの通りを駆け抜け、バリケードの隙間を通り抜け――




 そして、セレストは辿り着く。

 取り繕われた生の向こう、頑と動かぬ真実――血に塗れた世界の端に。

 軍用車両が炎を上げ、閃光手榴弾が遠くにチラつく。空の薬莢が点々と転がり――爪で引き裂かれた死体が一つ。

 防護服は容易く切り裂かれ、ヘルメットの下の顔は恐怖に歪んだ、まだセレストよりも幼い少女。

 〝戦える〟が故に前線に送られた少女は、今日、あっけなく死んだ。

 セレストは死体を跨いで超える。ここはもう、戦場では無くなっている。


 アスファルトの道は、次第に赤く彩られ、銃弾が轍を刻んだ惨状を見せ始めた。

 屍は幾つも落ちている――女の死体も、〝オス〟の死体も。

 数を見ると、〝オス〟の死体の方が多い。

 セレストは知る由も無かったが、今回の襲撃は、非常に散発的なものだった。少数の〝オス〟が防衛線を超え、新兵がそれに適切な対応を取れず、一時的に押し込まれ――だが、直ぐに押し返した。

 だから、被害は少なく――飽く迄も〝比較的〟だが――民間人の死者も無い。

 浮足立った指揮系統が、何人かを殺しただけだった。


 だが。嗚呼、だが。

 恐慌状態の新兵を、敵を眼前に控えて立て直す――それがどれ程の難事かは、言うまでも有るまい。

 無能な指揮官では、統率出来る筈も無かった。

 熟練の兵士だからこそ、僅かにでも立て直せた。

 そして――例え歴戦のつわものであろうと、味方を正面に置きながら、背後の敵にまで万全を期す事は出来なかった。





「隊長、隊長!」


 きっと志願したばかりなんだろう、小柄な子が、誰かに必死に呼びかけている。

 呼ばれている誰かは、その子の頭を撫でて――落ち着かせようと、しているように見えた。

 腐った魚の臭いがする。傷が駄目になった時の臭いだ。

 誰か、死ぬんだなと思った。


 けれど、私はもう、それが誰か気付いていたから、泣いている子を突き飛ばしてまで、彼女の傍に座った。

 防弾ジャケット、分厚いプロテクター。フルフェイスのヘルメット――邪魔だから、これだけ外す。


「……あなた」


 いつもと同じように。私は、彼女を呼ぶように呼んだ。


「ああ……はは、は」


 彼女はいつもと同じように、笑って、私を引き寄せた。

 化粧っ気のない唇が、血の紅に染まっている。胸を、腹を、縦に裂いた傷は――湧水のように、血を流し続けた。

 寒いのかも知れない、彼女は震えている。抱きしめてあげたかった――腕が、思うように動かなかった。


「……ただいま、セレスト」


 お帰り――言おうとした。思った通りの言葉は紡げず、別な音が、喉から零れた。


「蒼子って、呼んで。じゃなきゃ……言ってあげない」


 彼女は、やっと、寂しくなくなったのかも知れない。血と傷に塗れた顔で、影も無く笑って、


「ただいま……蒼子」


「お帰りなさい――」


 やっと、彼女の名前を思い出した。

 何日も、もしかしたら何週間も、何か月も、呼ぶ事の無かった、彼女の名前。


「――お帰りなさい、ソラ」


 そっと唇を重ねた。

 鉄の臭い、鉄の味。青ざめた顔、滲む視界――涙が、私の顔を洗う。

 何も持たない彼女の手。何も渡せない、何も受け取れない。でも、だからこそ、胸に掻き抱く。


「蒼子……あなたが、好き」


「わたしも、好き……好きよ、ソラ」


 もう一度だけ。

 お帰りなさいと、囁いた。






 薄汚れたビル、不味い飯、安い家賃。治安の悪い、片田舎の街。

 大方の街がそうであるように、戦闘区域の兵士の収入を当て込んで、娼婦をしている女がいる。

 彼女の器量なら、誰かに買い上げられて、囲い者になる道を選ぶ事も出来るだろうに――彼女は市井に居て、誰かに愛され、生きている。

 或る時、誰かが彼女に愛を囁いた。金銭の代償でない、人間として与え、受け取る愛を。


「貴女が好き」


「わたしもすき」


 彼女は、常と何も変わらず答えた。

 だけど、その日だけは――きっと、風が柔らかくそよいでいたからだろう。


「ねえ、今日もきれいな空ね」


 青い青いソラを見上げ、大好きよと、笑った。

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