彼はトリとなって羽ばたくことを選んだ
最初に鳥になりたいと願ったのは、宗教上の理由からだった。僕の家では、肉食は、鶏や豚や牛を食べることは禁じられている。魚もダメだ。かといって野菜だけ食べていると栄養が偏るため、両親はよく蜘蛛やカブトムシの幼虫を買ってきてくれた。両親はそれを油の中に落とし、フライにしながら言った。
「昆虫には魂は無いんだ。だから食べていい」
そういうものなのかと思った。こんなにも一生懸命に生きて、動いているのに、魂は無いのだそうだ。神様は世界を不公平に作ったのだと思う。誰かが生きて、誰かが死ぬように。幸いにも、自分は人間で、魂がある。だから私はこれから野菜と昆虫だけ食べて生きていこうと決めた。
学校の先生から、蜘蛛は昆虫ではないと聞かされた時には、本当にびっくりした。蜘蛛は蜘蛛。節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目なのだと。それで当時の私は混乱した。ならば、蜘蛛には魂があるのだろうか。
私の中の、昆虫と非昆虫という宗教的な境目に、綻びが走った。けれども、私はそのことをついに両親には訊ねられなかった。そしてある日から、私は蜘蛛を食べなくなった。両親は単に好き嫌いの問題であると考えたらしく、何も言ってこなかった。
学期末。私は「将来の夢」というレポートを提出するように言われた。私はしばらく思案した末、正直に書いた。「私は鳥になりたい。彼らは昆虫だけを食べて生きているから」鳥類の生態と人間との違い。宗教的道義性。鳥類への人格移入に関する問題点。筆は踊り、たちまち分厚いレポートが出来た。私はそれを提出した。ためらいは無かった。
翌日、私の両親は学校に呼び出された。
怪訝な顔をして話を進める教師のもとで、両親は私の意思を尊重すると言った。それが誇らしかった。自慢の両親だった。両親は他の人とは異なる宗教を信じていることを何ら恥じることなく、私が鳥になりたいというなら、そうすればいいというお墨付きを与えてくれた。
私は鳥類学を専門に研究する大学に進学した。バイオチップを埋め込んで鳥の脳の働きを解析する。最終的には鳥が何を考え、何を話しているかまで理解する。鳥脳生理学から、言語研究まで、幅広い可能性に私は打ち震えた。教授の言葉を全て聞き漏らさず、貪欲に学び、がむしゃらに理解した。
教授らによる「鳥の世界」と題する論文の共同研究者として、私の名はこの分野で広く知られるようになった。だが私の夢はまだ有効だった。私は数年後に「トリ脳とヒト脳の違いと類似点」という論文を発表し、学会で注目を集めた。
人々は私がトリとヒトの差異を明らかにしたと褒めたたえたが、私の真の狙いは「類似点」のほうだった。私は何年も地道な研究を続けた後、トリの脳へのヒト人格移入が不可能ではないという論文を発表した。論文は静かな論争を巻き起こした。つまり、ヒトはトリに退化するべきかどうか、という論争を。しかし私に言わせれば、それは進化なのだった。
サイバネティクス技術は進歩に進歩を重ね、ヒトの多くは電脳化している時代である。トリ言語は翻訳され、人間との意思疎通も不可能ではない。酔狂な人間がトリに人格を移入しても何の害も無い。そう見なされた。私は同じく酔狂なスポンサーを得て、自らを実験台に、トリへの人格移入実験を行った。実験は成功した。
私たちは別れた。人間である自分と、トリである自分に。トリとなった自分は「ありがとう」という意味の小さなさえずりを残して、研究所から軽々と脱出した。私の目には、全てが映っていた。新しい人生が。全てが、まったく新しく。