85.5 秘蔵の写真とプロミスリング
夏の夜、日が長くなる季節と言えども、空はもう真っ暗だ。
本来、こんな夏休みはリゾートや別荘に行って優雅に過ごすのがセレブのあり方である。
しかし、度を超えたセレブにはもはや学生という縛りもなく、押し寄せるのはただの重い責任のみだった。
「……せやな。ああ……新企画の件はうまくいきそうや。……は? 当たり前やろ」
スマホに向かって、聖夜は不機嫌にそんな言葉を吐いた。
電話の相手は父の命令で動いている聖夜のお目付役。聖夜が先ほどまで赴いていた、彼の責任下にある会社の新企画に関するオリエンの結果についてわざわざ確認の電話をいれてきたのだ。
「……会長には万事うまくいくと伝えとけ。……こっちは疲れとんのや。用がないならもう切る」
そう言って聖夜は通話を絶ち、そのあたりにスマホを放り投げた。
聖夜にとって、父の息がかかった人間と接するのはとてつもなく窮屈で息が詰まる。すべてが父に筒抜けの気がして、考えるだけでも聖夜にとっては不快なことこの上なかった。
「会長……か」
聖夜は自嘲気味に笑う。
物心ついた時には父のことを『会長』と呼んでいた。いや、正確には違う。物心ついた頃、聖夜はまだ父の存在を知らなかった。聖夜の世話をしてくれた付き人たちが会長と呼ぶ人物が自分の父と分かったのは聖夜に琴蔵の跡取りとしての自覚が芽生えた頃で、その頃には聖夜にとって父は父以前に会長だった。
母親は自由な人で、世界中を旅している。そこら中に現地夫らしきものを作っていると噂で聞いたこともあるが、実際に彼女にあったのは数度で言葉を交わしたのも数えるほどだった。
両親という言葉に抵抗はあれど、形式的に両親にあたる彼らは聖夜にとって赤の他人よりも遠い存在。
それが悲しいかと聞かれればノーと聖夜は答える。なぜなら彼にとってそれこそが『当たり前』なのだから。
皆が憧れる琴蔵財閥の跡取りとして君臨するということはつまりそういうことなのだ。
「はあ……だるいわ」
最近、仕事が続いて疲れが溜まっていた。誰かを呼んで、この疲労と苛立ちをぶつけたい。そんな思いは日に日に強くなっていく。しかし、聖夜が呼んで来ない女はいないのだから、そうすることは至極簡単なはずだった。
「……ちゃうな。一人おったわ……」
こんなことを考えるといつも思い浮かぶたった一人の例外。聖夜は霞む目を擦り、クスリと笑った。
聖夜自身、自分の立場を嫌になることはあっても、別の誰かになりたいなぞとバカみたいなことを考えたことは今までなかった。
それなのに最近、よく考えることがある。
「……会いたいわ、ほんま」
芽榴のそばにいる生徒会役員に一瞬だけでも立場を代わってもらいたい――と。
煌びやかで麗しいラ・ファウスト学園。
それは学園の外壁だけの話。
学園の内側でまさにそのイメージを自らの手で壊している張本人はそんなことをまるで他人事のように考えていた。
「慎様……? 余所見なんて嫌ですわ」
お決まりの図書室で、今日も慎は違うお嬢様と会っていた。
「ごめん、ごめん」
慎はそう言ってお嬢様にキスをする。お嬢様の顔にそうしてほしいと書いてあったからだ。
「もう、慎様ったら……」
そんなことを言いながらも喜んでいるのだから滑稽だ、とやはり内心で恐ろしいことを考えている。
この男だけは何があっても心が乱れない。慎本人が自信をもってそう言えるのだ。
たとえ相手が、我らがラ・ファウスト学園のトップに君臨する男の想い人であろうと、一切揺らがない。
そんなことを一人で念押しするように考えているのだった。
「慎様、次私とここに来れるのはいつになるかしら?」
「う〜ん。たぶん3ヶ月後くらいじゃね? わかったら連絡する」
「待ち長いですわ……」
上目遣いで可愛さをアピールする少女に、慎はいつもの笑みで返す。そして〝さよなら〟と〝また今度〟の意味を込めた一番のキスを彼女に送るのだ。
「じゃあね〜」
慎は乱れた衣服を少しだけ直して、一足早く図書室を後にする。
今日は昼から学園に聖夜が来る。久々に会う聖夜がどんな愚痴を零してくるか楽しみにしながら、慎は軽い足取りで特務室へと向かった。
「聖夜! 久々〜! 絶賛不機嫌中だろ?」
そんなふうにワザとハイテンションで扉を開け、慎は聖夜の元にやって来た。
「うっさいわ」
定位置である部屋の中央のソファーに聖夜は腰掛けていた。
不機嫌といえば不機嫌な返事だが、冷静さの残る反応でもって聖夜は慎を出迎えた。慎の予想では、そこらへんにあるクッションを自分の顔面にものすごい勢いで投げつけて「帰れ、二度と顔見せんなや」と聖夜が理不尽にキレてくるはずだったのだが、久々に会う聖夜に慎は物足りなさを感じた。
「ふ〜ん。てか、何見てんの?」
慎は特務室の至る所に散らばっている聖夜の私物を拾い上げた。
「お見合い写真?」
慎は中を開いて、着物姿で写るそれなりに可愛らしい少女の写真を見て笑い出しそうになるのを堪えた。
いつもの聖夜なら「全部廃棄」と言って見向きもしないのに、どういう風の吹き回しなのだろうか。
聖夜が今手にしている写真らしきものもおそらくお見合い写真。よほど気に入った顔の子がいたのだろうかと慎は少し興味が湧いてボーッとそれを眺めている聖夜の背後に回った。
そして聖夜の見ている写真、詳しくはお見合い写真の上に重ねて置いている小さな写真を見て、慎は一瞬目を丸くし、そしてすぐに大きな溜息を吐いた。
「聖夜……」
慎が呆れ声で名を呼び、聖夜はやっと背後に慎がいることに気づいた。
「な……んや」
驚いたのを隠すように、すぐに冷静な口調に戻り、聖夜は慎に視線を向ける。慎は肩を竦めて、聖夜が大事そうに見つめている写真を奪った。
「この子とお見合いなんて、相当頭イカれた? 聖夜の疲労も限界ってとこか……」
そこに写っているのは夜会で一人佇む芽榴の姿。
「ちゃうわ。てか、返せ」
「はいはい。言われなくとも」
慎はヒラっと手を翻して聖夜に写真を返す。しかし、返したもののどこでその写真を入手したのかは慎の気になるところであった。
「それどうやって撮った? まさか聖夜が撮るわけないっしょ?」
「夜会はいつもテレビ局が来るやろ? せやったらどっかの映像に残っとる思うて……見つけてプリントアウトしたってわけや」
聖夜は写真をスラックスのポケットにいれ、慎を見てニヤリと笑った。
「言うとくけど、もう映像はあらへんぞ。あいつが映っとるんは全部破棄させてんから」
聖夜は慎にそのことを伝えると、欠伸をしてソファーに横になった。
慎はソファーの背もたれに軽く腰かけ、聖夜を見下ろす。
「いらねーよ、楠原ちゃんの写真なんて。それこそ、このお見合い写真の子のほうが可愛げあると思うぜ?」
「せやったら、お前にやるで。それ」
慎が綺麗にラミネートされている見合い写真を聖夜に向けるが、聖夜はそれに見向きもせず、疲れの残る目を閉じてあしらうように告げた。
「まあ、確かに夜会の楠原ちゃんは見違えたけど。人間あそこまで変化できるとはね~……」
「何言うてんねん、アホ。あれがあいつの本来の姿や。そんでもって……本来はここにおるはずやった……んやけどなあ……」
聖夜は天井に向かって手を伸ばし、ギュッと拳を握りしめる。力なく言葉を吐いて「あ゛あ゛……」と気怠さむき出しに呻いていた。
そんな聖夜を見て慎は楽しげに笑う。
昔の聖夜ならどんな無理難題であろうと何の迷いもなく慎に命令していたはずだ。しかし今、聖夜がそうしないのは十中八九、芽榴に嫌われない行動を選んでいるからなのだ。
ウジウジしている聖夜を見て楽しめるのは一瞬だけ。そんな聖夜は聖夜ではない。
慎はソファーから離れ、特務室の扉に向かう。
「聖夜」
「なんや?」
「ただ待ってるだけで降ってくる機会なんて、本物じゃねぇよ」
珍しく真面目な顔でそんなことを言い、慎は部屋を出て行った。
「かっこつけんな……アホ」
慎に後押しされている気がして、慎の思いも知っているだけに、自分の情けなさが際立ってくる。
自分自身に呆れながら、聖夜は乾いた笑いを漏らした。
自宅に向かう車の中、聖夜は窓の外をボーッと見つめる。
――ただ待ってるだけで降ってくる機会なんて、本物じゃねぇよ――
慎に言われた言葉を聖夜は何度も思い返す。
どうしようもない思いは日々募るばかりで、この苛立ちも疲れも、本当はすべて言い訳にすぎない。
どんなに考えたって、この思いをどうにかする方法はたった1つしかない。慎に言われなくても全部分かっているのだ。
「少し寄り道してくれへんか?」
運転席に繋がるスピーカーのスイッチを押し、聖夜は運転手に向かって告げた。
慎の靴音がラ・ファウストの広々とした廊下に響き渡る。
「俺ってやっぱり超優しいよな~」
慎は楽しそうにそんなことを言う。その顔にはやはり笑みが浮かんでいるが、少し寂しげだった。
自分より聖夜の想いのほうがはるかに純粋で深い。ならば、それを応援するのが当然だ。
それでもほんの少しだけ、「偉いね」と誰かに言ってほしい気もするのだ。
しかし、そんな慎の思いが誰かに届くわけもなく、慎は一人暇を持て余す。
しばらくコツ、コツ、と響いた靴音は何の前触れもなく消える。それはつまり慎が立ち止ったことを意味していた。
「それにしても……」
慎は珍しく苦笑いを浮かべていた。
胸ポケットから一枚の写真を取り出し、呆れ半分笑い半分の微妙な溜息を吐く。
「聖夜と同じことしてるって……我ながら傑作だぜ? ほんと」
その写真は少々の角度の違いはあれど、聖夜が大事そうに見つめていた写真と同じものだ。
「俺も完璧病気だな……」
一人そんなことを呟いて、慎は再び行く宛もなく歩きはじめるのだった。
聖夜を乗せた車が止まる。数時間かけて着いたそこは――麗龍学園。
新学期が始まったばかりの麗龍学園は現在テスト期間で、テストが終わってすぐに帰る人もいれば、教室に残って勉強する人もいる。
会いにきたはいいものの、これでは会いたい人物が学園に残っているのかも分からない。
『聖夜様、お時間もあまりありませんので御用はお早めに……』
運転手が告げる。夕暮れ時には琴蔵の本家に顔を出す予定になっていた。本当はこんなところで油を売っている暇はない。
「分かっとる」
それでも会いたくて、少しの可能性にかけて聖夜はゆっくりと車から降りた。
残された時間、聖夜は門に背を預けて想い人を待つことにした。
学園に乗り込むことも一瞬考えた。しかし、もし役員に見つかればきっと彼女に会わせてもくれないだろうと思い、門の前に留まるしかなかった。
まばらに校舎から出てくる生徒たちは聖夜のことを見て目を丸くする。琴蔵聖夜の名前は知っていても顔まで知ってる人はそう多くない。しかし麗龍学園には何度か訪れているため、聖夜があの『琴蔵財閥の御曹司』と分かるものもそれなりにいるのだろう。
「イケメン……」
「生徒会レベルじゃない?」
「あれでお金持ちとかやばいよね」
聖夜の前を通り過ぎた女生徒たちは聖夜を何度か振り返ってボソボソとそんなことを言う。聖夜は生徒会にも負けず劣らずの容姿を持っている。もちろん周りが騒がないはずがない。
これまで聖夜にとって女性関係ほど簡単なものはなかったのだ。それなのに――。
「あいつもこれくらい単純やったらええのにな」
そんなことを考える。でもすぐに聖夜は「ちゃうな」と自分の頭に浮かんだ粗末な考えを否定した。
もし彼女が単純な女なら聖夜は好きになっていない。
「どっちにしろ、地獄やな……」
ため息混じりに言葉を吐く。
何十人かの生徒が通り過ぎ、もう会えないのではないかと思い始めたそのときだった。
「――何してるんですか?」
目を瞑った一瞬の隙に、自分の目の前に少女が現れた。
聖夜を見てこんな呆れ顔をする女の子は世界中探してもたった一人。
ずっと聞きたかったその声が耳に届いた瞬間、張り詰めていた想いが溶けていく。
「特に、用はあらへんのやけど……」
会ったときに何を言うかは決めていた。でもいざ目の前にすると一切浮かばず、歯切れ悪い言葉しか言えなかった。
そんな聖夜を見て、芽榴は困ったように頬をかいた。
「とにかく神代くんに見つかったら、即追放されますよー」
芽榴は聖夜の腕を掴んで、門の外に出て行く。門の外にある高級車を見て、芽榴は少し身構える。そんな様子を見て聖夜は苦笑した。
「心配せんでも、無理やり連れて行ったりせん。今は」
「後々する予定なんですね……」
芽榴は半目になって聖夜を見る。聖夜は「当たり前や」とやっといつもの自信満々の笑みを見せてくれた。
「今日は簑原さん、一緒じゃないんですね」
「……会いたかったか?」
キョロキョロと周囲を見渡して、芽榴が問う。芽榴の口から慎の名前が出ると、無意識に聖夜の声が低くなった。
「いいえ。私あの人嫌いですからー」
芽榴は満面の笑みで答える。
芽榴がここまではっきりと嫌いという人間はなかなかいない。ある意味で芽榴にとって慎は特別なのかもしれない。そんなどうしようもないことさえ聖夜は考えてしまう。
「あ、そうだ」
聖夜が悶々と考えていることも知らずに、芽榴は何かを思い出したらしく、自分の鞄の中をゴソゴソと漁り始めた。
「はい、どーぞ」
シンプルに包装されているそれを芽榴が聖夜に渡す。いきなりのことで聖夜は目を丸くした。
「なんや、これ」
「この前プレゼントいただいたので……お返しです」
聖夜に誕生日プレゼントをもらった後、もらいっぱなしではいけないと芽榴なりにお返しを用意していたのだ。もちろん、いつ会えるか分からなかったため、そのプレゼントはしばらく持ち歩くことになったのだが。
「誕生日プレゼントやから、何も考えんで受け取ればええのに」
「そーゆうわけにはいきません。ていうか、それ。ほんとに大したものじゃないんでお礼にもならないんですけどね」
芽榴は聖夜に手渡したそれを指差して苦笑する。何が入っているのか気になった聖夜はその場でプレゼントを開けた。
中から出てきたのは緑を基調とした複数の糸が絡み合ってできた細長い紐。
「……」
「やっぱそーいう反応になりますよね」
プレゼントに不思議そうな顔をする聖夜を見て芽榴は楽しそうにカラカラと笑う。
「それ、ミサンガって言うんですよ。まぁ所謂プロミスリング、願いをこめて身につけるとそれが叶うらしいです」
芽榴は聖夜が持っているそれを取って改めてそのミサンガを見つめる。
「初めて作ったにしてはなかなか上手く出来たんですよー?」
芽榴が作ったもの。
それはどこに行っても手に入れられないプレゼントだ。
「腕、出してください」
芽榴が聖夜の利き手の腕を取り、自分で作ったそのミサンガを聖夜の手首に結ぶ。
聖夜は間近にいる芽榴を愛おしそうに見つめた。
「……おおきに」
聖夜がお礼を言うと、芽榴は瞠目していた。
「……突き返されると思ってたんですけどね」
「アホか。貰うに決まっとるやろ」
自分の手首に巻きついた幾重にも絡み合う紐を聖夜はジッと見つめる。
「一生大事にする」
「……切れないと意味ないんですけど」
芽榴は困った顔で笑った。
自分の腕に巻きつくプレゼントを見て、聖夜の視線は自然と芽榴の腕へと移る。
「ブレスレット……つけてへんのやな」
聖夜が芽榴の腕を見て呟くと、芽榴は自分の腕をヒラヒラと振った。
「さすがに学校にはつけられないですよ。それに失くしたくないので」
芽榴ははにかんで笑った。
聖夜の心がギュッと締め付けられる。
――抱きしめたい。
そう思って芽榴の背に手を回そうとした瞬間――。
「聖夜様、そろそろお時間です」
数メートル先にある自分の車のところで、運転手が聖夜にそう告げる。
聖夜は芽榴の背に回した手をキュッと握り、運転手に頷いてもう一度芽榴に目を向けた。
「また会いに来る」
「程々にお願いします」
芽榴の相変わらずの反応に、聖夜はフッと鼻で笑う。いつの間にかモヤモヤした想いも苛立ちもどこかへ消えていった。
「琴蔵さん」
運転手にドアを開けられ、車に乗り込もうとする聖夜を芽榴が呼び止める。振り向いた聖夜に芽榴は笑顔で言った。
「緑色のミサンガって、癒しの効果があるらしいですよー」
そう言って芽榴は聖夜に背を向け、さっさと帰路へとついた。
「ほんま、どないすればええんやろ……」
嬉しすぎて困る。
車に乗り込んだ聖夜は穏やかな顔をしていた。
憂鬱な本家への道のりも、もう何のことはない。
腕に纏う愛しい温もりが自分を支えてくれている。そう思うだけで聖夜の心は暖かくなった。




