82 金魚すくいとオンリーワン
役員たちもいない、弟子たちも祭りに行って出払っている藍堂家はとても静かだった。
ただ一室、有利の祖父の部屋からはいつもと同じように碁を指す音が響いていた。
「完璧少年が残ってくれてよかった。この歳になると、一人は寂しくてかなわんわい」
「そんなふうには見えませんけどね」
楽しげな有利の祖父を前に、颯は冷静に答える。
「祭りに行かんでよかったのか?」
「ええ」
「芽榴坊の浴衣姿はなかなか見れるもんじゃないぞ?」
「……今は行っても楽しめる気がしません」
「ふむ……。あんまり怒っては芽榴坊が可哀想じゃ」
颯は自分の番になるや否や特に悩むこともなくすぐに黒石を置いて、有利の祖父を睨みつけた。
「兄妹の問題に、わざわざ芽榴を巻き込んだ人が言う台詞ではないですね」
「ふぉっふぉっ。何のことかの?」
「別に……こっちの話ですから」
颯は突き放すように言葉を発する。そんな颯の様子に、有利の祖父は薄く笑った。
「わしはちゃんと忠告したじゃろ? 芽榴坊から目を離すなと」
「ええ。だから文句は言いませんよ」
颯は碁盤を見つめたままフッと鼻で笑った。
「いい機会でしたし。ある意味、感謝していますよ」
「やはり、お主は恐ろしい男じゃのぉ……」
「おじいさんほどではありませんよ」
颯と有利の祖父はそんなことを話してしばらく碁を指し続けた。
「芽榴ちゃん、何か食べる?」
「ううん。歩きながら何か食べるのって苦手だから」
芽榴と風雅は2人で祭りを回っていた。風雅がお面をつけているため囲まれることはなくなったが、異様な光景に不審な視線が集まってしまっていた。しばらくはその視線を気にしていた2人だが、だんだんそれにも慣れてきて2人は自然と数ある屋台のほうに目を向けるようになっていた。
風雅の気遣いに、芽榴がそう答えると風雅は少し驚いた顔をした。といってもお面越しに芽榴からその表情は見えないのだが。
「今時、珍しい」
「そう? 蓮月くんは何か食べなくていーの?」
「オレはお腹いっぱい」
風雅は弾んだ声で答える。夕食は食べていないからお腹いっぱいのはずがない。芽榴が不審そうに首を傾げると風雅はハハハと声に出して笑っていた。
「じゃあ、芽榴ちゃん、何かしたいことは? 射的とか輪投げとか」
「うーん……」
芽榴は周囲の屋台を見渡して唸る。特にしたいものがあるわけではないため、一番に目に付いたそれにすることに決めた。
「蓮月くん、金魚好き?」
「え? 普通に好き、かな」
「じゃあ、金魚すくいにしよー」
芽榴はそう言ってスタスタと金魚すくいの場所まで歩いて行った。
「お! らっしゃい! 2人分でいいかい?」
芽榴が金魚の入った桶の前にしゃがみこむと店のおじさんが声をかけてきた。お面をつけた風雅を見て一瞬変な顔をしたおじさんだが、すぐに商売人の顔に戻って芽榴と風雅にポイを渡した。
「オレ、すくえたことないんだよね。すぐに破れちゃう」
風雅は芽榴の隣にしゃがみこんで呟く。目の前のおじさんにコツを聞いてみても、やはりピンとこなかった。
さっそく風雅がポイを水に浸すと、金魚が紙の上に乗って、風雅の言うとおりすぐに破けてしまった。
「あ゛ー!」
落ち込んで俯く風雅を見て、芽榴はカラカラと笑った。
「ね、蓮月くん」
「……んー、何?」
芽榴にいいところを見せようと頑張ってみたものの、やはり駄目だったため、風雅はガックリとしたまま芽榴に返事をする。その様子もまた芽榴は楽しんでいた。
「何匹なら養える?」
「え、オレ?」
「うん」
「別に一桁なら養えると思うよ?」
「おっけー」
芽榴はそう言って浴衣の袖をたくし上げた。
そしてすぐに1匹目を椀の中に放り込んでいた。
「え……何その技!」
「技ってほどのものでもないよ」
芽榴はそう言ってまたもう一匹難なくすくいあげた。
「お嬢ちゃん、上手いねぇ」
店のおじさんも思わず感嘆の声をもらす。二匹目をすくいあげてもまったくポイが破れる気配がないのだ。
「おじさん、すごいでしょ? 芽榴ちゃん、何させても完璧なんすよね」
「そ、そうだねぇ」
おじさんは風雅を見て困ったように笑う。「お面をつけているなんて変人か」と店のおじさんが思っているのが分かった風雅はお面を少しはずしておじさんと芽榴にだけ顔が見えるようにした。
「おぉ……」
おじさんは思わず風雅の容姿にも感嘆する。なんとなくお面をつけていた理由を察して「大変だねぇ」などと声をかけていた。
「芽榴ちゃんならこの桶の中の金魚全部とれると思いますよ」
「それはないでしょ~。お兄さん、お嬢ちゃんにベタ惚れだねぇ」
「困るくらい大好きですよ」
風雅がくったくない笑顔で言う。芽榴と風雅ははっきり言ってお似合いのカップルには見えない。芽榴が風雅にベタ惚れして、風雅はそれなりに芽榴のことを好きで付き合っているのだろうな、とおじさんは勝手に想像していた。だから冗談のつもりで発した言葉を風雅が肯定したことに、おじさんは少し焦っていた。
「蓮月くん。恥ずかしい冗談やめて」
「えぇっ。マジなのに!」
「なお悪い」
普通の女の子ならこんなイケメンにそんなことを言われたら少しは顔を赤らめたりするだろう。しかし、芽榴は困った顔で注意し、風雅の好意をあしらってさえいるのだ。女連れのイケメンに関してはいつもなんとなく癇に障っていたおじさんだが、風雅だけはなんだか応援したくなるのだった。
それにしても芽榴のポイはいまだに破れる気配がない。芽榴が10匹目の金魚をすくったころ、余裕な顔で座っている芽榴におじさんもヤバいと思い始めていた。
「お、お嬢ちゃん。そろそろ……」
「ハハハ。おじさん、オレの言ったとおりでしょ?」
風雅は楽しそうに笑うが、おじさんの顔は焦っていた。
ただの金魚すくいだったが十分に楽しむことができた。芽榴もさすがにもういいか、と思ってわざと水にポイを突っ込んでそれを破いた。
おじさんから金魚を受け取った2人はまた祭りの列に戻って流れるままに歩いていた。
「はい、あげる」
芽榴はそう言って隣を歩く風雅に今もらった金魚を手渡した。それを見た風雅は「え……」と頓狂な声をあげる。
「……いいの?」
「うん。私の分は……ほら」
芽榴はおじさんに小分けしてもらった自分の分の5匹の金魚を風雅に見せた。芽榴が風雅の手をとってそれを渡すと、風雅はしばらくその金魚をボーっと眺めていた。
「蓮月くん?」
「……え? あ、えっと……ありがと。へへっ」
風雅はお面を顔に押し付け、にやついた自分の顔が絶対に見えないように隠す。
「芽榴ちゃんさ」
「うん」
「かっこよすぎだよ、ほんと」
風雅は小さな声でボソリと呟いた。芽榴は「え?」と言って自分の姿を見直す。可愛いわけではないが、可愛いといわれたほうが納得できる。少なくともカッコイイ格好ではないだろう。そんなふうに芽榴が思っていると、風雅はハハハと笑った。
「見た目じゃなくてさ。ほら、こんなふうに金魚あげたりって男がすることじゃん?」
「そーなの?」
「まあ……一般的には。でも、オレ全然男らしいことできなくて、ほんと情けないなぁって」
風雅が俯く。狐のお面をつけてがっかりしている風雅の姿がなんとなくおかしくて芽榴は思わず笑ってしまった。
「芽榴ちゃん?」
「別に情けなくないよ。やっぱり蓮月くんは蓮月くんだなぁって思った」
「それって、喜んで大丈夫な感じ?」
風雅が不安げに尋ねる。褒められているのかどうなのか分からなかったのだ。芽榴は頷いて、まだ不思議そうな顔をしている風雅にちゃんと説明した。
「さっき、お店のおじさんと別に知り合いじゃないのに仲良く喋ってたでしょ? あぁいうのって私にはできないから。すごいなって」
「そんなことないよ。芽榴ちゃんにも……」
「できないよ」
芽榴はきっぱりと言った。事実として芽榴はどちらかといえば人見知りなほうで、クラスメートでさえ親しげに話すことが難しいときもある。
「蓮月くんって、役員の中でもダントツでモテるけど……理由分かるよ。蓮月くん、人付き合い上手だもん。話しやすいし。やっぱり容姿がモテる理由の大部分を占めてるのかもしれないけど……それだけじゃないと思う」
不意打ちのように芽榴に褒められて風雅はうまく頭が働かなかった。しばらく経って気がつくと急に嬉しいという感情が湧き上がってきた。
「いや、ほら……オレ、軽い読心術使えるから。返してほしい言葉とか分かるっていうか……」
「だとしても、それを上手く使えてるんだからすごいよ。私に読心術使えても持ち腐れになると思う」
芽榴の真っ直ぐな言葉が照れ臭くて、でも嬉しい。人付き合いが上手いと言われたのは初めてじゃない。よく言われるし、風雅自身そう思ってる節がある。でも、こんなにも嬉しく心に響いたことはなかった。
「ありがと、芽榴ちゃん」
「なんでお礼?」
そう言って芽榴は笑う。素直に喜ぶ風雅とは裏腹に、芽榴の表情は少し固かった。
「私は、ほんとに人付き合いとかになると不器用で……全然ダメだから。羨ましいなーって思った」
「――」
周囲の人たちの話し声も祭りの賑わいも、屋台の声かけもどれも騒がしいくらい辺りで大きく響き渡っているのに、一瞬2人のあいだから音が消えた気がした。
「余裕ある立場じゃないんだけどな……」
芽榴の心は読めない。
それでも今、芽榴の頭に何が浮かんでいるのか、風雅には分かった。
きっとそれをスルーすることだってできた。気づかないフリをすることもできた。そうするほうが風雅にとってよいのかもしれない。仮にも恋敵に塩を送るほど余裕のある立場でもないのだ。
けれど、困っている芽榴を無視することはできなかった。
「芽榴ちゃん、颯クンと何があったの?」
「え……」
芽榴は少し俯いていた顔を即座にあげた。らしくもなく、図星と言わんばかりの対応をしてしまったことに芽榴は「ほんとダメだね、私」と言って自分で自分にため息を吐いた。
「神代くんに、酷いこと言っちゃった」
「何を言ったの?」
風雅の問いに芽榴は黙る。
その言葉は風雅をも傷つける可能性があった。
芽榴が黙っていると、風雅は芽榴の頭をポンポンと優しく撫でた。
「芽榴ちゃんは……颯クンを傷つけたくて酷いこと言ったの?」
芽榴は大きく首を振る。ただずっと気になっていたことを口にしてしまったのだと芽榴は言う。すると、風雅は「なら大丈夫」と優しく芽榴に告げた。
「芽榴ちゃんが相手を傷つけるつもりで言ったんじゃないなら、オレは絶対に怒らないって約束する」
「……」
「だから……オレに話して」
お面越しに見える風雅の瞳は、たまに彼が見せる真剣なもので、芽榴は自然とそのことを口にしていた。
自分がどうしてみんなに気に入られたのか。それは偶然で、代えがきく存在なのではないか、と。
そしてそれを聞いた風雅はしばらく黙っていた。芽榴はその様子が不安で、やはり俯いてしまう。
「芽榴ちゃん」
「うん」
「芽榴ちゃんにとって、オレや颯クン、有利クンも来羅も翔太郎クンも……みんな代えがきく? いなくなって平気?」
「そんなわけな……い」
芽榴は自分で言ってそれに気づいた。いきなり風雅が発した言葉はそれだけで芽榴に理解させた。
「颯クンは今芽榴ちゃんが思ったのと同じこと思ったと思うよ」
「あ……」
芽榴は声が出なかった。
そんな芽榴を見て風雅は苦笑する。
「でも、実際芽榴ちゃんの言うとおりなんだよ」
「え?」
「だって、オレはあの日生徒手帳を拾ってオレの笑顔が変だって飴をくれた女の子が大好きになった。それは事実なんだよ」
風雅は言う。芽榴の言うとおり、芽榴を気に入ったのは偶然で、芽榴じゃない誰かがそうしたらその子のことを好きになったのかもしれない。
「でも、何度あの日に戻っても、誰が生徒手帳を拾っても、オレの心を動かすことができるのは芽榴ちゃんだけだと思う」
誰にも芽榴みたいなことはできない。何度繰り返しても、風雅の心を動かすことができる人がいたらそれが芽榴なのだ。
そう告げる風雅の言葉は矛盾だらけだけど、何より優しかった。
「きっと颯クンはさ、芽榴ちゃんにそれを分かってほしいんだよ。だからもう大丈夫。仲直りできるよ」
風雅はそう言って笑う。
やっぱり聞いてよかったと思った。芽榴のことが好きだけど、それでもやはり風雅は颯のことも大好きなのだ。
「ありがと、蓮月くん」
安心した芽榴の表情がどんどん和らいでいく。
芽榴は肩の荷がおりたのか、そのあとしばらくクスクスと笑っていた。
「やっぱりそのお面変だー」
「芽榴ちゃんが選んだんだよ!」
「あはははは」
悩む芽榴より笑う芽榴がいい。
風雅は芽榴にもらった金魚を大事に抱えながら彼女の隣を歩くのだった。