80 御点前と浴衣
朝食を食べ終わり、芽榴は功利に連れられて有利の母の部屋へと向かう。昨日の今日で、功利とは話がしづらい。何より今朝有利から聞いたことが功利の姿を見るたび頭にちらつくのだ。
いつも無邪気に笑っている功利など、やはり芽榴には想像もつかなかった。
「……楠原さん」
「え、あ、うん?」
「ここが母様の部屋です」
考え込んでいるうちに目的の場所には着いていた。
障子戸を引くと、正面に有利の母が美しい姿勢で座っていて手元では茶を点てている。その姿を見て功利は慌てて「失礼しました」と言って戸を閉めようとした。
「いいのよ、功利。芽榴さんも中へ」
点前の邪魔になるのではないかと思いながらも、有利の母の言う通り芽榴と功利は部屋の中へと入った。
朝食の場で会ったときと有利の母の雰囲気がまったく違う。
落ち着いた空間であだ無言で彼女が茶を点てるのを芽榴と功利はジッと黙って見ていた。
「どうぞ」
有利の母が綺麗な笑顔で茶碗を芽榴の正面に置く。
「母様……?」
功利は怪訝な顔をした。彼女は芽榴の分の薄茶しか用意していなかった。まるで芽榴の作法を試すかのようにさえ思える。しかし、有利の母は茶をいただくための作法を芽榴に教えてはいない。とんだ無茶ぶりをするものだと功利は軽く息を吐いた。
功利がそんなことを考えている一方で、芽榴は少しの間有利の母が点てた薄茶を眺めていた。
有利の母の意図を察したように一息ついて、芽榴は徐に有利の母に一礼をし、右手で向きをかえて今度は功利に「お先に頂戴します」と挨拶する。
「……え」
功利は芽榴の行動に驚いて思わず声を漏らす。
しかし、芽榴はその声に反応することなく、そのまま正面に向きをかえて改めて有利の母に「お点前頂戴します」と挨拶を返した。
自分の目の前に置かれた茶碗を手にとってあいているほうの手にのせる。手を添えたまま茶碗を持ち上げて芽榴は軽く頭を下げた。
教えられたわけでもないのに、芽榴は作法に対して何一つ戸惑いを見せない。
功利と有利の母の視線を浴びながら、芽榴は2回茶碗をまわして中身を全て飲みきり、空の茶碗をさっきとは反対方向に2回まわして畳の上に置いた。
すべてが終わり、芽榴は有利の母を見つめ返す。
一連の芽榴の動きを見て、功利は瞠目し、目の前に座る有利の母は目を細めた。
「型通りねぇ、びっくり」
有利の母の言葉は功利の思いをも言い表していた。
「昔、少し齧ったので」
芽榴はケロッとした顔で言う。
そんな芽榴の反応に、有利の母は堪えきれないと言わんばかりに噴き出して笑い始めた。
芽榴の所作が『少し齧った』程度の人間にできるものではないことくらい有利の母だって分かっている。その型が独特の流派の特徴が出ていない、まさに『型通り』の作法であるなら尚更だ。
仮に本当に『少し齧った』程度の作法の認識なら、それはそれで茶道家の妻を目の前にして堂々と礼を尽くした芽榴の度胸も有利の母を楽しませるものだ。
「私は華道こそ専門だから茶道はまだ未熟者だし、軽口は叩けないから追及はしないことにするわ。功利のこんな顔も見れて満足」
母の指摘に功利は我に返った。そして少し困惑した顔で芽榴のことを見る。
「予想以上に面白い子ね。私からも有利の嫁候補に推薦しておくわ」
「遠慮します」
芽榴がバサッと断り、有利の母は楽しそうに笑う。こういうところは有利の祖父とそっくりで、親子という感じがする。
「あの、母様」
「なに?」
「わざわざ私まで呼び出した理由は何ですか」
功利の問いかけに、母はポンと手をついて自分の背後の押入から長さ1メートル、幅50センチくらいの木箱を取り出して芽榴の前に置いた。
「これ、芽榴さんに着てもらおうと思って」
「え」
木箱の中から出てきたのは可愛らしい桃色を基調とした赤帯の浴衣だ。
突然何を言い出すのかと芽榴が目を丸くすると、有利の母はそのまま芽榴に答えをくれた。
「今夜は今年最後の花火大会なのよ。役員さんたち、去年も行ってたから今年も行くと思って。それで、ふとさっき芽榴さんに似合いそうな浴衣が一着あったのを思い出して着てもらおうと。功利には着付けを手伝ってもらいたくて」
有利の母の提案に逆らう理由もなく、芽榴はその浴衣を着ることになった。
「功利、そこ縛って」
「はい」
自分の体の周囲で二人の声がする。芽榴はただ立っているだけだ。芽榴がボーッとしていると、有利の母が芽榴に話しかけた。
「芽榴さんて、もしかして着付けも自分でできるんじゃない?」
「どうですかねー」
芽榴は言葉を濁した。実際、着付けはできる。しかし、もう何年も浴衣など来ていないため綺麗にできるかは分からない。何より今現在2人に着付けをしてもらっている状態を目の前にしてあっさり肯定はしにくかった。
「でも本当に久々です。浴衣を着るの」
「あら、芽榴さんはお祭りに私服で行く派なのかしら?」
「別に拘りはないんですけど……はっきり言ってお祭りにいくのも5年ぶりくらいですかね」
芽榴の言葉に、有利の母は興味津々に声をあげた。
「どうして? 芽榴さん、断っても無理やり連れて行かれそうじゃない?」
「どーいうイメージですか? それ」
芽榴は困り顔で言う。
「昔は弟と行ってたんですけど、弟には友達ができて……その子たちと行くようになって、だから単に一緒に行く人がいないから行かなかっただけですよ」
「え……」
芽榴の言葉に真っ先に反応したのは功利だった。芽榴と視線が絡み、功利は急いで目をそらした。
「芽榴さん、友達多そうなのに」
「全然ですよ。今が不思議なくらいですから」
「へぇ、意外ねぇ?」
「そーですか?」
芽榴は苦笑した。芽榴の発言に功利は信じられないと言わんばかりの顔をして、彼女のことを見つめていた。
そして有利の母が芽榴の帯をキュッと結び着付けが終わる。
「我ながら完璧」
浴衣姿の芽榴を見て、彼女は満足そうに言った。その言葉を聞いて芽榴も横にある全身が映る鏡を見てみる。着付けは彼女の言うとおり完璧だが、似合っているかどうか自分ではいまいち分からなかった。自分より功利に着せた方がよっぽど似合うのではないかというのが素直な感想だ。
「芽榴さん、みなさんに見せてきたら? きっと喜ばれるわ」
やはり脱ぎたいと言おうとした芽榴だが「見せてきて」ともう一度、有利の母に強く言われ、浴衣姿のまま渋々部屋を出て行った。
部屋には功利と母だけが残る。もう用事もないだろうと思い、功利も母に一礼して部屋を出て行こうとした。
「功利」
「……何ですか?」
功利はゆっくりと後ろを振り返り、いまだ楽しそうに笑っている自分の母を怪訝そうな様子で見つめた。
「有利からも父様からもイイ子って聞いていたから、芽榴さんっててっきり猫かぶっていて……きっと友達の多い子なんだろうなぁって思ってたけど。芽榴さん、話聞いて想像していたイメージと全然違うと思わない?」
「……っ」
「先入観って人の視野をかなり狭くするわよね?」
「……失礼します」
功利は苦虫を噛み潰したような顔をして立ち上がった。そして母の質問には答えずに、急いで部屋を出て行く。そんな娘の姿を見て、母は大きなため息を吐くのだった。
廊下を歩く芽榴は藍堂家の弟子さんやお手伝いさんとすれ違うたびにじろじろとその姿を見られていい加減自分の姿が辛くなっていた。
「あれ、芽榴ちゃ……芽榴ちゃん!?」
俯いて歩いているとなぜか二度呼ばれた。しかも二度目はかなり声が裏返っていた。
芽榴が顔をあげると、声の主――風雅は芽榴のもとに駆け寄った。
「あ、蓮月くん。さっきぶりー」
「芽榴ちゃん、その格好――」
「うん。似合ってないの分かってるから改めて言わないでいーよ。みんなに見せたら脱ぐから安心して」
風雅の言葉を遮って芽榴が早口で答える。そんな芽榴の意見に風雅は急いで反対する。
「似合ってるし、着ててよ。でもなんでいきなり?」
「藍堂くんのお母さんが今日お祭りあるからって」
「あ、そーじゃん! ……っといいところに、颯クーン!」
風雅が芽榴の背後を見て手を振る。芽榴は風雅が呼んだ名前にピクリと肩を揺らした。
颯は芽榴と風雅のもとまでやってきて、芽榴の姿に一瞬眉をあげ、すぐに風雅に視線をうつした。
「……どうしたんだい、風雅。仕事がほしいのか?」
「颯クン、そういうのは勘弁。オレ今日十分すぎるほど翔太郎くんにヤキいれられたんだから」
風雅が半泣きで告げる。颯は薄く笑って「それで?」と風雅に話の続きをうながした。
「今日祭りなんだって」
「そのようだね」
「去年も行ったし、今年も行こうよ。芽榴ちゃんもせっかく浴衣着てるんだし」
風雅が芽榴の腕を引っ張って自分のほうに引き寄せる。颯の視界に入り、芽榴はあからさまに視線をそらしてしまった。それが分かった颯は少しだけ悲しげな顔をして二人に背をむけた。
「行ってくればいいよ」
「颯クンは?」
「やることがあるからここに残るよ。じゃあまたあとで」
颯はそう告げて廊下をスタスタと歩いて行く。
「颯クン、変だなぁ……。ねえ、芽榴ちゃ……ん」
風雅は芽榴に同意を求めるが、その口を閉じる。
芽榴がうつむいて複雑そうな顔をしているのを見て、何も言えなくなったのだ。
「……え、あ、蓮月くん。何か言った?」
「ううん、何も」
風雅はニコリと笑った。自分でもぎこちない笑い方をしているのは分かった。それに芽榴が気づかないはずがないのも風雅は分かっていた。芽榴が申し訳なさそうに自分を見上げていることに、風雅は苦笑した。
「ごめん、翔太郎クンに怒られすぎて気分ブルーでさ。てか、その格好、他の人に見せた?」
「ううん、まだ」
「じゃあオレが1番じゃん。ラッキー!」
風雅はそれだけは本当に嬉しそうに笑った。そんな無邪気な風雅の様子に、芽榴もクスりと笑う。
「みんなにも見せるんでしょ? たぶん、みんな自分の部屋にいると思うよ」
「うん。ありがと」
芽榴はそう言って風雅の言う通り、他の役員の部屋へと向かった。
廊下を歩く芽榴の姿が見えなくなるまで風雅は手を振っていた。振り終えた手を、風雅はジッと見つめハハッと乾いた笑いをもらす。
「何が1番だ、オレ。こんなかっこわりぃ……」
前髪をクシャッと握る。
他の男のことで悩んでほしくない――。
生まれて初めてそんなことを思ってしまった自分が情けなくて、それでもどうすることもできない自分が歯痒くて、いろんな思いが風雅の心の中に溢れた。




