04 眼鏡と回れ右
芽榴は今日も松田先生に呼び出される。しかし、今日はまだ何もしていない芽榴は不満を顔いっぱいに表した。
「先生、何ですか。私、今日は宿題も忘れてないです。廊下も走ってないです。優等生です」
風雅は今日もF組に来た。しかし、いい加減有利に手伝ってもらうのも気が引ける。そして毎度追いかけられるため、教室を出ることのほうがよっぽど目立つだろうと学習した芽榴は教室でおとなしく風雅に抱きつかれたのだ。そのあと、クラスの女子と気まずかったのはここで改めて言う必要もないだろう。
「楠原。それは優等生ではなく、普通だ! 普通!」
「じゃあ、普通の楠原は先生の仕事をできる力量ないので帰ります。さよーなら」
芽榴がそう言ってクルリと職員室のドアを回れ右すると、松田先生が芽榴の首根っこを掴んだ。
「あんたはいつから松田のパシリになったのよ?」
教室にプリントを持って入ってきた芽榴に舞子がそう尋ねる。芽榴は舞子の言葉に口を尖らせた。
「そんなの私が聞きたいよ。アレだね。好きな子には意地悪しちゃうってヤツ。松田先生、私のこと大好きなんだよ」
「芽榴、ヤケになりすぎ。今度は何させられてるの?」
プリントを机に叩きつける芽榴を舞子はドードーとなだめる。
「これを副会長さんに持って行けってー。『俺は葛城は苦手でな』ってキメ顔で言ってたよ」
途中で松田先生のマネをとりいれる芽榴は余程頭にきているのだろう。舞子は芽榴の置いたプリントを一枚とり、それを見ながら言う。
「でも、葛城翔太郎ってE組でしょ? なんでクラスに持って帰ってきたのよ?」
「よく聞いてくれたね、舞子ちゃん」
芽榴がふふん、と笑うのと同時にF組の男子の感嘆の声が漏れ聞こえる。舞子はドアのほうを見てなるほど、と呟いた。
「るーちゃん」
綺麗な声で紡がれるそれは芽榴の呼称。そんな呼び方をするのは学園でただ一人、来羅だけだ。
「ひい……じゃなくて、来羅ちゃん。待ってたよー」
来羅に名前で呼ぶように言われたことを思い出した芽榴は言い直す。〝ちゃん〟とつけるか迷ったが本人が何も言わないのだからそれでいいのだろう。
「るーちゃんが私のこと待っててくれたの? やった。あとで風ちゃんに自慢しちゃおう」
最後の言葉は聞かなかったことにするとして、本当にキラキラした笑顔で言う来羅に少し罪悪感がある芽榴だが、咳払いをして机のプリントを指差した。
「これ葛城くんに渡してもらえるー?」
「うそ、翔ちゃんの分際でるーちゃんから貰い物?」
「いや……よく見て」
「ふふふ。冗談よ」
来羅が笑うとF組の男子の鼻から赤いものがポタポタと流れ落ちる。もはや男ということは関係ないのだろう。確かに長い睫毛と白い肌、赤い唇と、どこかの御伽話のお姫様のような来羅は性別はどうあれ可愛らしい。
「翔ちゃんね。うん、分か……あ」
何かを思いついたかのように来羅の眉がピクッとあがる。
「ごめんね、るーちゃん。私、翔ちゃんとは仲悪くて。だから自分で持って行ってもらえる?」
「え」
2人が一緒にいるのはよく見かける。役員だからという理由を差し引いても〝翔ちゃん〟と呼んでいる時点で仲が悪いわけがない。
「あの、来羅ちゃん?」
「うん! ごめんね! それじゃあ!」
来羅は楽しそうに笑うと、足早に教室を出て行った。
「舞子ちゃん」
「アレは何かあるわね」
金髪を揺らしながら去った来羅を見ながら舞子と芽榴は頷きあった。
「失礼しまーす」
E組に行くと、終礼が終わったばかりだというのにクラスに人気はなく、電気もついていなかった。
芽榴はクラスに入るや否や電気をつけ、教室を見回す。
「あ」
教室の真ん中にある席で寝ているのは目的の人物、葛城翔太郎だ。
眠っているのだから電気を消すべきかと悩むが、そのままつけておくことにした芽榴は翔太郎の寝ている前の席にプリントを置いて翔太郎の寝顔を拝見していた。
「葛城くんでも眠るんだー」
当たり前か、と思いながら翔太郎の顔の隣に置いてある眼鏡をとりあげてみる。
「度、どれくらい入ってるんだろ」
芽榴は片目を瞑って眼鏡を覗いてみた。そして、目を大きく見開く。
「え」
「……っ! 貴様、何をしている」
その時、起きてしまった翔太郎が物凄い剣幕で芽榴を睨みつけた。
「あ、ごめ……! わっ」
眼鏡を取り上げるために勢いよく立ち上がった翔太郎。そのせいで芽榴は床に押し倒される形になってしまう。
「痛い……」
「貴様、見たのか」
何のことか分からない芽榴は首を傾げる。
「見たって?」
「眼鏡だ」
「あぁ。伊達なんだね」
そう。翔太郎の眼鏡には度が入っていない。翔太郎はやはり、と呟くと舌打ちをした。
「他のクラスのヤツにも部屋に入るなと催眠しておくべきだった」
「は?」
「俺の目を見ろ」
そう言った翔太郎は右手で芽榴の顎を掴み、左手で目にかかる前髪を掻きあげた。翔太郎の綺麗な紺碧の瞳が芽榴を見つめた。
「お前は何も見ていない。すべて……忘れろ」
言い聞かせるような口調。瞬き一つしない翔太郎に芽榴は目をパチクリさせた。
「はい? 別にいいけど」
ケロっとそう返事した芽榴に今度は翔太郎が驚かされる番だった。
「貴様……効いていないのか?」
「いや聞いてたよ? 忘れればいいんでしょ?」
唖然とする翔太郎に対し、芽榴は不思議そうな顔をして「まぁ、完璧に忘れるのは不可能だけど」と付け加えた。
「貴様は……」
「来羅! もうオレ、我慢できないから!」
翔太郎が何かを言いかけるとドアの向こうから大きな声が聞こえる。
「ちょっと……っ、風ちゃん! 今からが楽しいんじゃない! 有ちゃん、止めて!」
「いえ。僕も蓮月くんに賛成です」
そしてドアが勢いよく開く。そこには風雅と来羅、そして有利の姿があった。
「翔太郎クン! ちょ、オレの芽榴ちゃんに何してんの!?」
入ってきた風雅が芽榴と翔太郎の格好を見て青ざめる。
「蓮月。貴様はどうしてそこまで脳が足りない」
「私、いつから蓮月くんの所有になったのかな」
「そんなの出会った時から! って今はそうじゃなくて! 離れなよ!」
風雅が床に倒れたままの2人を無理やりに引き剥がす。そして、そのまま風雅は芽榴に抱きつこうとするのだが、芽榴はスルリとそれを交わす。
「芽榴ちゃん!?」
「蓮月くん、ウザイ」
芽榴が睨みつけると、風雅はガーンと音がなったように涙目になる。しかし、諦めない風雅はまたも芽榴に抱きつこうとする。
「はぁ……。葛城くんそこに豚野郎ではなくて松田先生から頼まれたプリントが置いてあるんで目を通してくださいそれじゃあ」
息継ぎをせずにそれだけ言い残した芽榴は素早く教室を走り去り、「芽榴ちゃーん」と言いながら風雅はそれを追いかけて行った。
「よし、有ちゃん。私たちも帰るわよ」
「そうですね」
「おい、待て。柊、藍堂」
回れ右をする来羅と有利を翔太郎の低い声が制止する。
「貴様の仕業だろう、柊」
「え? 何のこと?」
「とぼけるな」
翔太郎が睨むと来羅はフッと肩をすくめた。
「とりあえず眼鏡したらどう? 私たちは大丈夫だけど、誰が来るか分からないじゃない」
来羅がそう言うと、翔太郎はフンっと鼻を鳴らして眼鏡をかけた。
「葛城くんのことです。クラスの人には教室に来るなと催眠をかけていたんでしょう?」
「あぁ。睡眠の邪魔だからな」
有利に返事をして、翔太郎は再び来羅へと視線を戻した。
「何なんだ、あの女は」
「楠原芽榴ちゃん」
「『楠原芽榴』……。貴様らが最近うるさいほど名前を出すアレか」
翔太郎は芽榴の出て行ったドアを見ながら呟くと、有利が口を開いた。
「女嫌いの葛城くんがよくあの距離で女性と話せましたね」
「……っ、偶然だ」
翔太郎は一瞬言葉に詰まるが、そう反論する。
「偶然、ね。じゃあ翔ちゃんの催眠誘導が効かないのも偶然かしら?」
来羅がニヤリと笑えば翔太郎も今度こそ言葉が出なかった。
「るーちゃんってどこか普通の子と雰囲気違うからもしかして、と思ったけど予感的中ね」
「俺の催眠術が効かない人間など貴様らくらいだと思っていたが」
「ちなみに蓮月くんお得意の読心もできないみたいです」
有利が風雅から聞いた話を伝えると翔太郎も目を見開いた。その言葉が示す意味はつまり――。
「ふん。神代が認めれば、の話だ」
「やっぱりそうよね、……あ」
来羅の顔が急激に青ざめる。
「どうしたんですか、柊さん」
「颯に集合遅れること言い忘れてたわ……」
「え……」
その言葉に有利の顔もサーっと色をなくしていく。
「ふんっ、バカが。くだらないことをしているからだろう」
「しょ、翔ちゃんは……」
「ちゃんと理由をつけて遅れることを説明したが?」
「神代くんが嘘に気づかないと思ってるんですか」
有利がそう言うと、翔太郎は黙る。その顔にはジワリと冷汗がつたっていた。
「やぁ、遅かったね。来羅、有利。翔太郎はよく眠れたかい?」
生徒会室では怖いくらいの満面の笑みを浮かべる颯が書類を机いっぱいに天高く並べて待っていた。3人は各々その山を一つずつ受け取り、腱鞘炎になるのではないか、と思うくらいにサインしていった。
それから数分後、芽榴に逃げられた風雅がため息混じりに生徒会室に帰ってきたが、その時の颯の顔は風雅しか知らない。
生徒会室から聞こえる世にも奇妙な叫び声はしばらく学園の噂となっていた。