77 不意打ちと色づく想い
芽榴は今日も庭を見通せる風通しのいい廊下で目を覚ました。
誰かが来ても大丈夫なように少し早めに起きた芽榴は床板から庭に投げ出した足をぶらぶらと揺らしながら、ボーッと一点を見つめて何かを考えていた。
――いくら芽榴でも、その発言は許せない――
ふと颯の言葉を思い出し、芽榴の動きがすべて止まる。
言うべきことではないと分かっていた。しかし、あれが芽榴の本音だったのは事実だ。
「否定してくれると思ってたんだよねー……」
それが一番望んでいた反応。しかし、颯はそうしなかった。それが芽榴にはショックでならなかった。
でもそれ以上にショックだったのは――。
「……嫌われちゃったなー……」
芽榴はポツリと呟き、目を伏せる。
颯の冷たい視線は怒りの証。
颯は芽榴のすべてを肯定すると言った。その颯を傷つける言葉はすなわち他の役員みんなの心も同様に傷つける。
芽榴の不安は大事な人たちを傷つけることしかできない。それが分かった今、たとえ不安が広がっていこうともそれをもう口にすることはできない。
「……はぁ」
溜息がこぼれる。
功利があんなことを言わなければ、今この楽しいときを壊すことはなかった。
誰かのせいにするのはとても簡単なことだ。
しかし、これは遅かれ早かれ浮上した不安。
後悔しても何も変わらないこともまた芽榴は分かっていた。
「楠原」
そんなことを考えていると、廊下の角から自分を呼ぶ声がし、芽榴は振り返る。見てみれば、そこにはものすごく疲れた顔の翔太郎がいた。
「おはよ、葛城くん。どしたの? その顔、いつにもまして酷いよ」
芽榴がいつものようにカラカラと笑いながら指摘すると、翔太郎は大きなため息をついた。
「貴様が俺の立場になれば、分かるだろう」
「あー、蓮月くん」
芽榴の指摘は正しいらしく、翔太郎はそのまま額を押さえながら風雅との同室に対する不満を述べ始めた。
「あの男の寝相の悪さには呆れ果ててものも言えん。どうしたらあんな広い部屋の端から端へ移動できるのだ。毎晩遅くまでヤツにメールを送りつけてくる女どももあの男の何がいいのか分からん。ただの馬鹿だろう」
「蓮月くんの馬鹿さって役員レベルじゃなきゃ分からないでしょー」
風雅の、ファンの子や他の男子に対する態度はすべてが様になっている。役員と接する時とはまったくの別人だ。舞子いわく『見ているだけで幸せになれる』ほどカッコいいのだ。
「そんなに寝相悪いんだー。蓮月くん。イメージあるようなないような……」
「寝るときに動くなど理解できん」
「葛城くんは寝てるときも微動だにしないイメージあるよー」
「な……!」
芽榴が楽しげに笑うと、翔太郎は少し顔を赤らめた。
「貴様のほうこそ……」
そこまで言いかけて翔太郎はハッと何かに気づいたような顔をした。そして芽榴の腕を掴み、自分のほうを向かせた。
「貴様はどこで寝ていた?」
「どこでって……葛城くんの真後ろにある部屋」
「貴様が他人の家で明かりをつけたまま寝るなど考えつかん」
翔太郎は再び大きなため息をつき、芽榴を立ち上がらせた。
「迂闊だった。よく考えれば分かることだな」
「はははー」
どうやら廊下で寝ていたことはバレてしまったらしい。
そのまま芽榴は翔太郎によって明かりのついた自分の部屋に押し込められることとなった。
「葛城くん……」
「まだ朝も早い。しばらく寝ていろ」
「もう、目は覚めてるよー」
「横たわらずにグッスリ眠れるはずがないだろうが」
そう言って翔太郎は起き上がろうとする芽榴の頭を軽く叩いた。
「いいから、今は休め」
翔太郎はそう言って芽榴が布団に入るのを確認すると部屋を出て行く。
芽榴が翔太郎のことを不安げに見つめていると、それを察したのか翔太郎が芽榴に背を向けたまま口を開いた。
「もし、何か言われたら俺が弁解してやる」
芽榴は翔太郎の背中に向かって苦笑しながら「ありがとう」と言った。
障子戸がパタリと音を立てて閉まる。
この優しさを失いたくない――。
どうしようもない思いが頭をグルグルまわり、支配する。それを振り払うように、芽榴は首を振って布団を頭まで深く被り、目を閉じた。
周囲の空気が賑やかになり始めた頃、芽榴は目を覚ました。
翔太郎の言うとおり、廊下での睡眠はあまり意味がなかったらしく、予想以上にぐっすり眠ってしまっていた。
芽榴は身支度を整え、部屋を出る。
「「あ」」
部屋を出ると、すぐに袴姿の男の子に出くわした。
「おはよー、藍堂くん」
「……おはようございます」
芽榴が笑いかけると、有利は複雑そうな顔をして笑った。
昨日と同様、有利の様子はおかしい。しかし、直接誰かに何かを聞いたわけではないが、昨日の功利との一件で、なんとなく有利の元気がない理由を芽榴は察していた。
「今日も稽古だったの?」
「……はい」
「そっか」
妙な沈黙が続く。元々、芽榴も有利も会話を作る側の人間ではないため、二人でいるときの沈黙は珍しいことではない。
しかし、今はどうしようもなく気まずいのだ。
「……楠原さん」
「……何?」
有利から口を開き、芽榴は少し驚きつつも有利のほうに目を向けた。
「すみませんでした」
「え……?」
有利が頭を下げ、芽榴は首を傾げた。
「神代くんに聞きました。やっぱり功利が迷惑を……」
有利は目を瞑り、難しい顔をしてもう一度「すみませんでした」と言った。
颯が昨日芽榴が功利に突き飛ばされたことを有利に告げたのだ。
何のために颯がそんなことを告げたのかは分からない。それでも、あの後も颯が少なからず芽榴のことを気にしてくれていたことに芽榴は安堵した。
「それ誤解。別に藍堂くんの謝ることじゃないよ」
芽榴が本当に何もないように笑う。そんな笑顔を見て、有利は唇を噛み締めた。
「楠原さん」
「ん? ……っわ!」
芽榴は有利に腕を引かれる。真後ろにあった部屋に連れ込まれ、芽榴は目を丸くした。
「藍堂くん?」
芽榴が不思議そうに有利のことを見つめる。有利は障子の隙間から廊下の様子をうかがった。
「すみません。ここの廊下はお手伝いの人がよく通るので……」
「う、うん」
芽榴は「だから何?」と言おうとして、やめた。有利が言葉を選んでるのか、ものすごく神妙な顔をしていたからだ。
「藍堂くん」
「は……い」
有利はキョトンとした顔をしていた。返事をする際に有利の口があいた隙に芽榴が飴を放り込んだのだ。
「楠……」
「まー、そんな難しい顔しないでさ。皺とれなくなって、葛城くんみたいになっちゃうよ?」
芽榴は自分の眉間を指差してカラカラと笑う。芽榴が楽しそうに笑い、有利も思わずクスリと笑った。
「この飴、蓮月くんも好きですよね」
「うん。おかげでよく売切れるんだー」
芽榴が困ったように肩を竦める。有利は初めて芽榴にこの飴をもらったときのことを思い出した。
「楠原さん。初めて僕が罰則を手伝ったときもこれをくれました」
「そうだっけ? あー、そうだね」
特に印象深い出来事ではなかったからすぐには思い出せなかった。しかし、思い出そうと思えば芽榴に思い出せないことはない。確かにお礼にと有利に飴をあげていた。
「僕、楠原さんが蓮月くんのファンなんだと思ってました」
「それ、冗談でも蓮月くんに言わないでねー」
芽榴が半目で笑う。
芽榴が風雅のファンなどと言えば、冗談だとしても風雅は喜んで芽榴に抱きついてくるだろう。
そんなことを話して、また沈黙が訪れる。しかし、その沈黙は先ほどのような気まずいものではなかった。
「楠原さん」
「うん」
「ずっと、話そうと思っていたことがあります」
有利は柔らかい表情でそう言った。
芽榴がスイッチの入った自分を初めて見たとき、笑ってくれたあの日からずっと、有利には芽榴に打ち明けようと思っていたことがあった。
それなのに、今までそのことを言えなかったのは、まだ肝心なところで芽榴を信用しきれていない自分が心の奥底にいたからだ。
でも今は――。
「僕は功利の人生を壊したんです」
たとえ思い出したくない過去でも、芽榴に知ってほしいと思った。




