76 窓と椅子
昼食を済ませ、再び仕事が始まる。午後の仕事も終わり、仕事の進みがいいため、今日の夕食後は各自休息となった。
夜の仕事がなくなったことに夕食の場は本来賑やかであるはずなのだが。
「ごちそうさまでした」
夕食の席、真っ先に夕食を終えた颯と有利が口を開いたのは「いただきます」と、この一言のみだった。
二人とも早々と自室に戻り、残された四人のうち三人は思いきりため息をついた。
「二人して何だ、あれは。息苦しいことこの上ない」
「同感。オレ、この夕食時が今日一番疲れたかも」
「有ちゃんは朝からおかしいし、颯は昼食のときからピリピリしてるし」
来羅が困り顔で言うと、風雅と翔太郎が珍しく二人揃って頷いていた。
「楠原、貴様は何か知らないのか?」
「……。へ? あ、何?」
黙々とご飯を食べていた芽榴は、翔太郎に話しかけられ、慌てて反応した。
「颯クン、何があったか知らない?」
風雅の問いかけに芽榴は昼の出来事を思い出していた。
『今ここにいるのは私じゃなかった?』
芽榴の予想だにしない質問に颯は目を丸くしていた。
しかし、芽榴の質問の意図を理解したのか、颯はすぐさま眉間に皺を寄せ、目を細めた。
『なぜ……そんなことを聞くんだい?』
『……ずっと気になってたことだから』
颯の視線が耐えられなくて、芽榴は颯から目を逸らしてしまった。
『だって……おかしいから。あの頃の私は今の私とは違っていろんなことに手を抜いてたし……。神代くんが私をそばに置こうと思ったことに理由があるとしたら……あのオセロしか思いつかなかった』
『……そうだね』
颯は小さな声で肯定した。
俯いた芽榴には颯がどんな顔をしているか見ることができない。声音からもそれを読み取ることはできなかった。
芽榴は目を瞑り、深呼吸をして、自分が導き出した答えを述べた。
『だから、もし今……別の誰かが神代くんにオセロで負けなかったら……ここにいるのは私じゃなくてその人でもいいってこと、だよね』
本人に言うべきことではないのだが、颯を前に嘘はつき通せない。本音をぶつけた芽榴に対し、颯は何も言わなかった。
何も言わないまま、颯は芽榴に背を向ける。予想外の颯の行動に芽榴は少し驚いていた。
『神代く……』
『芽榴』
呼び止めようとした芽榴を颯が振り向きざまに制した。
『いくら芽榴でも、その発言は許せない』
颯の視線は冷たい。颯がその視線を向けるところを見たことは何度かある。でも、芽榴にそれを向けたのは初めてだった。
『え……』
『早く着替えたほうがいい。それじゃあ』
颯はそれだけ言って芽榴の元を去った。
「……知らないや、ごめん」
芽榴が苦笑すると、来羅は机に頬杖をついて困ったような顔をした。
「颯がるーちゃんにまで素っ気ないなんて珍しいわよね」
「そうだな。蓮月ならともかくとして」
「翔太郎クン、さっきからオレへのあたりがいつもの倍ひどいんだけど……」
三人は食事が終わった後もしばらくそんなふうにたわいない話をしていた。
でも芽榴の頭の中に、話の内容はまったく入ってこなかった。
夕食を終えた来羅は渋々、自室に帰る。ギリギリまで食事部屋に残っていた理由はただ一つ。来羅が颯と同室だからだ。
来羅は部屋の戸の前で一息つき、ゆっくりと戸を開ける。目に入った光景を見て来羅は苦笑した。
「はーやて」
来羅は部屋の窓辺に佇む颯のそばに寄り、脅かすように「わっ!」と肩を叩く。
しかし、颯はやはり驚くことなく、どうかしたのかと来羅に尋ねるだけだった。
「どうかしたのはそっちでしょ?」
「別に」
言葉とは裏腹に颯の表情は硬い。役員の中でもズバ抜けて天才と称される彼だが、こんなふうに感情が顔に出るところは常人と変わりないのだ。
来羅は困ったように笑って、颯の隣に立って窓の外を見ていた。
「颯が怒ってる相手は……るーちゃん?」
来羅が横目に颯をうかがう。颯は目を瞑り、小さく息を吐いた。
「お前は本当に頭の回転が早いね。翔太郎や風雅はおそらく有利か別の理由を考えるだろうけど」
「だって、有ちゃんが変なのは朝からだし。でも、颯が態度変わったのはその後。それと同時にるーちゃんも元気なくなったから」
来羅が淡々と告げる。風雅も翔太郎も気づかなかった芽榴の少しの変化に来羅は気づいたのだ。本当に周りのことをよく見ているヤツだ、と颯は微笑んだ。
そして颯は何かを考えるように黙って自分の握りしめた手を見つめていた。
「来羅」
「なぁに?」
「お前は……自分の代わりに誰かが生徒会にいる、なんてこと考えたことあるかい?」
颯が静かな声で言う。
芽榴との喧嘩の理由がおそらくその質問と関係しているのだろうということは来羅にもすぐ分かった。
「ないわ」
来羅はクルッと体を翻し、窓を背にして顔だけ横に向けて颯のことを見つめた。
「ねぇ、颯」
「……?」
「私と一番最初に出会ったときのこと覚えてる?」
今度は来羅が質問を返した。いきなりの問いに颯は一瞬躊躇したが、すぐにクスリと笑って頷いた。
「中1の最初、入学したばかりで私はずっとひとりぼっちで……」
颯と来羅は懐かしむようにそのときのことを思い出していた。
当時、来羅は男なのに女装をしていることから小学校で孤立し、受験して中等部から麗龍に入学した。しかし、麗龍といえど、女装を受け入れてくれるような人はいなかった。みんなが陰で来羅を馬鹿にしていたのだ。
「慣れっこだったから、何も思ってなかったんだけどね。あの日、偶然学年会があって……人数合わせで参加して……そしたら颯たちがいて……。いつものように陰口叩かれていたら、颯がいきなり立ち上がって」
「『陰口叩く暇があったら仕事しなよ』」
来羅が言う前に、颯がその言葉を口にする。来羅は残念そうな顔をした後、すぐに柔かに笑った。
「そう。それでびっくりしていたら『似合うから別にいいじゃん、女装でも』って風ちゃんが周りを宥めて……それから有ちゃんが『人の趣味を否定するのは感心しません』って大真面目に言って……翔ちゃんなんか『陰口を言う貴様らより柊のほうが余程女らしいと思うが』なんて言って女の子泣かして」
来羅はフーッと大きく息を吐いた。
「あのとき、私はこの人たちと一緒にいたいって思ったわ。だから誰にも私の居場所は譲らないし、自分の代わりなんて死んでも考えたくない」
来羅の瞳には一切迷いがない。
颯はたとえ話であっても来羅に考えさせてしまったことを素直に謝った。
「るーちゃんが言ったの? 自分の代わりは他にもいるって?」
芽榴が言いそうなことを来羅が挙げていく。颯は肯定も否定もしない。何も答えないことが答えだった。
そのことを察した来羅は小さく肩を竦め、冷静な声で言った。
「でもね、颯。るーちゃんは私たちと違う。るーちゃんの凄さはるーちゃんと関わってみなきゃ分からない」
芽榴はトランプ大会で優勝したり成績一位になったりしてやっと自分の凄さを見せ始めたばかりだ。
そして、その突然の変化を「イカサマ」と捉える人はまだ学内にたくさんいる。
「風ちゃんから聞いたのよ。校内で『楠原芽榴の椅子は狙い目』なんて考えてる人は少なくないって。るーちゃん何も言わないけど、絶対知ってる」
「他がどう言おうと……芽榴の代わりはいない。でも、芽榴は僕がそう思っていると考えた」
颯は口を閉じる。
来羅は颯が言おうとしていること、そして颯が本当は何に対して怒っているのかを理解した。同時に、それを芽榴が理解するには過ごした時間が短すぎると来羅は判断した。
「颯。……るーちゃんは」
「分かっているよ。でも、それでも……譲る気はない」
颯はそう言って風呂の支度をし、部屋を出て行く。戸を完全に出る前に一度止まって、颯は来羅に振り向いた。
「これは芽榴本人が気づかなきゃいけないことだ。ヒントを与えてはいけないよ、来羅」
芽榴と話してみようと考えていた来羅のことを見透かすように颯は言い、今度こそ部屋を出て行った。
来羅は「手厳しいわねぇ」と一人つぶやく。
「仲直りは、まだ先になりそうね」
来羅はそう言ってため息を吐いた。