72 返信と期待
夜、風呂を済ませた翔太郎は次の仕事まで部屋で休息をとろうとしていた。しかし――。
ピロリロリン……
「蓮月……」
「んー? 翔太郎クン、何?」
「貴様のその着信音が耳障りだ!!!」
今日何度聞いたかわからない風雅のスマホの着信音に翔太郎が怒りの声をあげた。有利の家での合宿はあみだくじにより、翔太郎と風雅が同室になった。そして風雅のスマホは先ほどからずっとメールの受信を告げている。
「さっきからピロリロピロリロ聞き飽きたぞ!! その機械を壊してほしいのか!!!」
「ひーっ! ごめん!」
今までおとなしかった翔太郎がいきなり怒ったため、風雅はとても驚いて急いでスマホをサイレントモードに設定した。
「まったく……さっきから何十件もきているが、そんなに重要な話をしているのか?」
「重要ってわけじゃないけど『合宿がんばれー』とか『もうすぐ夏休み終わるねー』とか……」
「くだらん話ばかりだ。よくも貴様はそんな話題に一件一件わざわざ返信できるな」
「ははは。翔太郎クンは業務連絡にしか返信しないもんね」
そう言いながら風雅はファンの子たちに丁寧に返信をしていた。
「他に好きな女がいるのに、そんなに丁寧に返信をすれば相手が勘違いして結果その女が傷つく。返信しないのが相手のためじゃないか?」
翔太郎が壁に寄りかかりながら風雅を諭すように言う。風雅はスマホに向けていた顔をあげ、翔太郎のことを見て微笑んだ。
「オレも前にそんなふうに考えたんだよ。返信するのはオレのためにも相手のためにもならないって。返信しなかったらオレのことを好きじゃなくなるかもしれない」
風雅は胡坐を組んだ足を弄りながらポツリと言った。
「でも思ったんだ。もし、芽榴ちゃんが携帯を持ってて、連絡がとれたら……。オレ、芽榴ちゃんがオレのこと好きじゃなくても返信きたらそれだけで嬉しいと思うんだ」
「……」
「そりゃあオレが芽榴ちゃんを想うくらい、ファンの子がオレのことを想っているとは限らないし、きっと翔太郎クンの言う通りなんだと思う。でもやっぱりオレはバカだからこんなふうに考えちゃうんだ」
風雅は顔をあげた。
「……って、翔太郎クンと恋愛話なんて新鮮だよね! ちなみに翔太郎クンは芽榴ちゃんからメールきたら嬉しい?」
「黙れ。うるさい」
「グハッ」
風雅が自分に話を振りそうになり、翔太郎はそこにあった枕を風雅に投げつけた。
「翔太郎クン、ひどっ! てか、どこ行くの!?」
部屋から出て行こうとする翔太郎を見て風雅が目を丸くする。
「貴様といるとゆっくりできん。先に仕事部屋に行く」
「え! 待ってよ! せっかく同室なんだから一緒に」
ピシャリ
風雅が言葉を言い終わる前に、翔太郎は障子戸を閉めて遮った。
「嬉しい、か……。俺は貴様ほど単純には考えられんな……」
眼鏡を押し上げながら、翔太郎はポツリとつぶやく。シンとした廊下を一人歩いて行った。
「兄様、ここにいたんですか」
芽榴と有利が道場から本家のほうに向かい、玄関先から中に上がると、前方から小走りで着物姿の功利が現れた。
「功利、すみません。探しましたか?」
「部屋にも道場にもいらっしゃらないので、どちらに行かれたのかと思いました。そろそろお風呂に入りませんと皆さんの仕事に間に合いませんよ」
功利が優しく有利に伝えると、有利は功利にお礼を言って芽榴に向き直った。
「楠原さん、ではまたあとで」
有利はそう言って、急ぎ足でその場を去った。
残された芽榴と功利のあいだには不穏な空気が流れていた。
「じゃあ……私もそろそろ……」
「兄様が時間になってもお部屋に帰られないのでおかしいと思ったら案の定そうでした」
功利は芽榴を睨んだ。
「楠原さんのする行動に文句は言いません。兄様や颯さんたちにどういう気持ちで取り入ってるのかも追及する気はないです。でも、兄様の邪魔だけはしないでください」
稽古後の有利と芽榴が一緒にいる。それは芽榴が有利と道場にいたことを意味する。有利が稽古をしている最中、芽榴が現れれば彼女を優先する。そのことが功利にも容易に想像がつく。そうなれば有利が稽古に集中できなかったといっても過言ではないのだ。芽榴が訪れたのが稽古の終わる前だったといっても今の功利にとっては同じことだ。
「兄様は藍堂家の跡取りです。毎日欠かさずに稽古を頑張っているのに、楠原さんの勝手で兄様を振り回さないでください」
「……ごめんなさい」
芽榴は功利に頭を下げ、そんな芽榴の姿を苦々しい様子で功利は見つめる。そして功利はすぐにその場から逃げるようにして去った。
生徒会の仕事をする部屋の前までやって来た芽榴は中に入らず、その場に立ち尽くしていた。予定の時間よりかなり早いので、まだ誰も来ていないようだった。
「……邪魔、かぁ……」
芽榴は先ほどの功利との会話を思い出してため息を吐いた。
言い訳をしたくなかった。でもそれ以前に言い返すことはできなかっただろう。
芽榴は彼らにとって邪魔な存在。たとえ彼らがそう思っていなくとも、平均でいることに徹した芽榴を他人はそういうふうに見てしまう。それは誰のせいでもなく芽榴自身のせいなのだ。
芽榴が障子戸の前で何度目かのため息をついていると、背後に人の気配を感じた。
「……楠原? 早いな」
「……あー、葛城くん。そっちこそ」
「俺は早くあの部屋を出たくてな。こっちにいたほうが寛げる」
翔太郎は風雅と彼のスマホの着信がうるさく落ち着けないと言って困ったように溜息を吐いた。
「蓮月くんも大変だねー」
「まったくだ。あんな女どもなど放っておけばいいものを……」
ファンの子たちのメールにいちいち返信をする風雅を愚かだと思いながらも翔太郎はそういう風雅の性格自体を否定はしない。こんなことを言っていても内心、風雅のことを心配しているのだ。
芽榴はクスリと笑った。
「なんだ?」
「蓮月くん、置いてきたから怒ってるんじゃない?」
「待て、とうるさかったがオレは知らん」
「あはは。葛城くんらしいねー」
「……。それより、入らないのか?」
いつまでも障子の前に立っている芽榴を見て訝しげに翔太郎が問いた。
芽榴は辺りを少し見回して苦笑しながら翔太郎の前に手を合わせた。
「葛城くん、ごめん。先に中に入って電気つけてもらえる?」
「は? そんなこと……。ああ……貴様、それで中に入れないのか……」
芽榴の言わんとしていることが分かった翔太郎は先に中に入って電気をつけた。中が明るくなったのを確認すると、芽榴は安堵したように中に入ってきた。
「ありがと。最初に来てくれたのが葛城くんでよかったー」
「最初に来たのが俺じゃなかったらどうするつもりだった?」
「……うーん。うまい言い訳して先に中に入ってもらう、かなー」
芽榴が閉暗所を苦手としていることを知っているのは翔太郎だけだ。そうするしかないだろう。
本当になんでもないことのように笑う芽榴に、翔太郎は気遣うような視線を向けた。
「貴様も大変だな。俺にできることがあれば言えばいい」
翔太郎の言葉を聞いた芽榴は目をパチクリさせ、次の瞬間には訝しげな視線を返した。
「……葛城くん、何か悪いものでも食べた?」
「なぜだ……」
「だって葛城くんが優しいこと言うんだもん。明日は嵐だねー、絶対」
そう言って芽榴は楽しげに笑う。翔太郎は芽榴の発言が少々気に食わなかったようで不服そうな顔をしていた。
「俺は貴様に冷たくしている覚えはない」
「うん、葛城くんは親切だよ。ただ、今回はその親切を隠さなかったから。いつもなら照れて『別に貴様のためというわけではない』とか『仕方ないから』とか言って誤魔化すじゃない?」
「照れてなどいない」
「はいはい、そーですか」
拗ねる翔太郎を芽榴はそう言って宥めた。
「でも、葛城くんにバレててよかったのかも」
「……どうしてそう思う?」
「だって葛城くんが私の事情を知ってたから『先に入って電気つけて』なんてふざけたお願いができるわけだし」
芽榴は机を挟んで翔太郎の対角に座り、机に頬杖をついた。
「本当はあんまりバレたくなかったけど……。一人知ってるってだけでだいぶ気が楽になるものなんだねー」
「そうか」
「でもさ、こう思えるのはバレた相手が葛城くんだったからなんだと思うよ」
「は?」
芽榴の意味深な発言に翔太郎は頓狂な声を出して首を傾げた。
「だって葛城くん、誰にも言ってないでしょ? 私が閉暗所が苦手だってこと」
「ああ……」
「まあ、この言い方だと口硬い人だったら誰でもよかった、っていうふうにもとれるけど。なんとなくね。葛城くんでよかったって思うんだー」
芽榴は翔太郎を見てヘラッと笑った。
翔太郎は瞠目し、すぐさま芽榴から目をそらした。
「……喉が渇いた。水をもらってくる」
「あ、私も飲みたい」
「俺がとってくる。貴様はここにいろ」
翔太郎と一緒に立ち上がろうとした芽榴を、翔太郎が制した。
翔太郎はそのまま一人仕事部屋から出て行く。
「何をしているんだ、俺は」
別に本当に喉が渇いたわけではなかった。
――葛城くんでよかった――
芽榴の言葉に他意はない。そう分かっているからこそ――。
――翔太郎クンは芽榴ちゃんからメールきたら嬉しい?――
「……余計に辛くなるだけだろう」
風雅の問いに一人虚しく答えた翔太郎は水をもらいに、調理場へ向かった。




