71 光る汗と流れ星
「よし。今日はこれくらいでいいだろう」
颯の合図で、夕方までの分の仕事時間は終了した。
例のごとく颯と翔太郎に怒られながら仕事をしていた風雅は机に伏して「終わったー……」と力なく呟いた。
「風ちゃん、一番仕事してないのに」
「来羅、それ言わないで。オレなりに頑張ってるんだから……」
「楠原さんは相変わらず手際いいですね」
芽榴は風雅の隣で仕事をしているため、二人の仕上げた書類が必然的に並ぶのだが、芽榴の書類は風雅のそれの十倍ほどあるのだ。
「私の方には簡単な書類ばっかりきてたからねー」
「会計書類を簡単というのは貴様くらいだと思うが」
翔太郎が眼鏡を拭きながらため息交じりに言う。芽榴の言葉を聞いた颯は楽しげに笑った。
「それは悪かったね。次から芽榴の仕事はちゃんと内容の濃いものにしておくよ」
「ハハハハー。じょーだんですよー」
芽榴が目をそらして笑うと、颯はまた楽しそうに笑った。
すると、障子の向こうから可憐な声が聞こえた。
「失礼します」
ゆっくりと戸が開き、人数分のお茶を用意してきた功利が姿を見せた。
「みなさん、お仕事も終わる頃合いだと思い、お茶をお持ちしました」
「功利ちゃん、さすが! 気が効くー!」
「風雅さん、どうぞ」
風雅が功利からお茶を受け取りながら笑顔でお礼を言う。他の役員たちも同じようにお礼を言う。
「どうぞ」
「あ、ありがとー」
芽榴も功利からお茶をもらい、お礼を言う。
「みなさん、お食事とお風呂の準備ができておりますので次の仕事の時間までにお済ませください」
お茶を配り終え、連絡を伝えた功利はお辞儀をして部屋を出て行った。
今朝のこともあり、功利が現れた瞬間、どうしようか悩んだ芽榴だが、功利は芽榴にも笑顔を向けてくれたため、少し安心した。
「芽榴、どうかしたかい?」
「え、ううん。ひと段落ついたなーと思って」
「へぇ……」
「はははー」
探るような視線を向けてくる颯から目をそらし、芽榴は苦笑しながらお茶を飲んだ。
食事と風呂をすませた芽榴は少し夜風にあたろうと庭に出ていた。
「んー、気持ちいいー」
伸びをすると、思わずそんな言葉がもれた。
外の暗がりも部屋の暗がりも同じ暗闇なのに感じる思いは快楽と不快、正反対の感情なのだ。
シンとした空気の中、耳を済ますと庭の向こう側にある道場のほうから微かに物音がした。
こんな夜遅くまで稽古をしている人がいるのかと驚きつつ、どんな稽古をしているのか少し興味があった芽榴は少しだけ中を覗いてみようと道場に近づいた。
ブンッ、ブンッ
「はっ! りゃあ!」
中を覗いて芽榴は目を丸くした。
同時に足下の草がカサッと音をたて、中にいた人物が道場の扉の前にいた芽榴の存在に気づいた。
「稽古中だぞ、誰だァ! ……! く、楠原さん!?」
武道スイッチの入っていた有利だが、見えた人物が芽榴だと分かり、一気に冷静になっていつもの有利に戻った。
「あ、ごめんね。邪魔しちゃった」
「いえ、もう終わるところだったので……気にしないでください。それより……大きな声を出してしまい、すみません」
有利はそう言って芽榴に頭を下げた。
袴を着ている有利はどこか新鮮で、芽榴は有利の姿をジッと見つめていた。あまりにも芽榴が見つめるため、有利は少し頬を赤く染めた。
「……どうかしました?」
「袴姿、初めて見るから。でもやっぱり似合ってるねー」
「そうですか? 毎日着ているので自分ではよく分からないのですが……。おじいさんは役員のみなさんのほうが似合うだろうと言っていますよ」
みんなが袴を着ているところを想像し、確かにと芽榴は納得する。要するに、役員様は何を着ても皆似合うというところなのだろう。
「一人で稽古?」
「はい」
「竹刀って珍しいね。木刀で稽古しないの?」
有利はいつも木刀を持っているイメージだが、今日は竹刀を手にしているのだ。小首を傾げて芽榴が尋ねると、有利が竹刀を見つめながら言った。
「一人で稽古のときは初心に返って竹刀を使います。それに弟子入りしたばかりの竹刀を使う門下生には僕が稽古をつけるので、竹刀の感触も毎日体に覚えさせておかないと……」
「……すごいね、藍堂くんは」
「そんなことないですよ」
「ううん。私にはできないもん」
「そんなことはないと思いますけど……。でも、楠原さんに褒められると頑張っていてよかったと思えます」
「なにそれー」
芽榴はカラカラと笑った。
事実、有利は「百年に一度の逸材」と称されていると聞いている。それなのに、努力を怠らない姿勢は見習うべきものだと芽榴はすごく感心していた。
「ね、弟子入りしたばかり……ってことはその他の御弟子さんはおじいさんが?」
「はい。でもおじいさんもあの歳ですから、もっと僕が強くなっておじいさんの後が継げるようにしなければならないんです」
有利は竹刀を直し、布巾を手に取って道場の床を拭き始めた。
「藍堂くん、手伝うよ」
「いえ、僕が使ったんですから僕が……」
「私も足を踏み入れてるわけだし」
芽榴は有利の言葉を流して、布巾を手に取りバケツの水で洗った。そんな芽榴に有利は柔らかい表情で「ありがとうございます」とお礼を言った。
「ねえ、藍堂くん」
道場の掃除を終えた二人は道場の近くの水場にいた。芽榴の呼びかけに使った布巾を洗いながら有利は反応した。
「はい?」
「藍堂くんのおじいさんの後継ぎは藍堂くんなの?」
言葉にすると、当然のように聞こえてしまう。しかし、これ以上上手い言葉が見つからなかった。それでも有利は芽榴の言いたいことが分かって床を拭きながらゆっくりと口を開いた。
「僕の父は婿養子なんです。だからおじいさんの後継ぎは本来、僕の母なんですけど……」
芽榴は布巾を洗いながら有利の話を聞いていた。
「母は親譲りの武道の才がありました。ですが、母は武道よりも華道に興味を持っていて……祖父も母のしたいことに反対などしませんでした。ですから、母の夫になる方が後継ぎとなることが決まっていました。でも、母が選んだ相手は武道とは無縁の茶道の家系の方で、その人が僕の父です。そこでおじいさんは二人の結婚の条件として、二人の子どもに後継ぎになってもらうことにしたんです」
「それで、藍堂くんが後継ぎに……?」
「はい」
有利が頷くと、芽榴は少し何かを考え、笑みを零した。
「やっぱりすごいや」
「何がですか?」
「藍堂くん。自分のしなきゃいけないこと分かってて、そのために努力して……それってすごいことだよ?」
芽榴は星の見えない空を見上げながら言った。
「努力っていうのは絶対にブレない、自分で掲げた目標がないとできないことじゃん? 今の私にはその目標さえ見つからないから……」
悲しげに笑う芽榴を有利は見つめた。
「急がなくてもいいと思います」
「え?」
「目標なんて、焦って決めるようなことじゃないですから。というか、僕からすれば、今の楠原さんも十分努力してるように思えますよ」
「……そんなことないよー」
「そう言うと思いました」
有利はフッと微笑んだ。
「でもいつか楠原さんが努力してでも叶えたい目標ができるように」
有利は空を見上げた。
「お願いしておきます」
「何に?」
「流れ星に」
有利が言い、芽榴は顔をあげた。
「流れてないよ?」
「都会の空は見えないだけだと母が昔言っていました」
有利が目を瞑る。
誰かが自分のために何かを祈ってくれている。その事実が芽榴には嬉しかった。
「なら、私も」
芽榴も有利に倣い、目を閉じる。
有利の努力が実るように――。
目を開けてみれば真っ暗な空に微かに星が流れている。そんな気がした。