※Episode3 平均点と呼び名
「テスト返却するぞ。綾瀬ー」
今は数学の授業中。先日行われた中間テストの解答が返却されている最中だ。
「楠原ー」
自分の名前が呼ばれ、芽榴はゆっくりと立ち上がる。そしてお隣のE組担任兼数学教師の三浦先生から自分の解答を受け取った。
「芽榴、何点だった?」
「まぁ、いつも通りー」
前の席に座る舞子に問われ、芽榴はそんなふうに返す。芽榴がテスト用紙を返された瞬間、クラスの雰囲気がソワソワし始めた。
クラスの全員にテストを返却し終えると、三浦先生は咳払いをする。基本的に、テスト返却後に行われるのは平均点の発表なのだが――。
「平均点だが……例のごとく楠原に点数を聞けー」
先生がそう言い、クラスメートが芽榴のほうを見る。どの教科担もだいたいF組の平均点はこんなふうに告知してくるのだ。芽榴のプライバシーなどないに等しい。
「うわー。62点です、はい」
みんなの視線を受け、芽榴は半笑いで答える。小テストでも定期テストでも面白いくらいに芽榴は学年の平均点をとってくるのだ。ある意味で才能に近い。狙ってやってるなら天才の域だ。
「見事に、応用問題ではねられてるわねぇ」
「だって分からないんだもん。部分点狙いで書いてるだけ偉いでしょー」
芽榴の解答を見てコメントする舞子に、芽榴は唇を尖らせて返事した。
というわけで、たとえ芽榴が言わずとも芽榴の点数はいずれ全員に分かることなのだ。
「はぁー……」
授業も終わり、放課後。
芽榴は溜息を吐きながら本を顎の下まで抱えて廊下を歩く。いつも通り、松田先生からの罰則である。
「楠原さん」
トボトボと頼りない様子で歩く芽榴の元に有利が現れた。最近はほとんど毎日有利が芽榴の罰則を手伝ってくれているのだ。
「藍堂くん、どーも」
「今日も罰則ですか? 手伝います」
有利がそう言って芽榴の持っている本に触れようとするが、芽榴が体を少しだけよじって彼の手を避けた。
「え……」
「今日はキミの友人に関する罰則じゃないんだー。だから手伝わないで。私が気を使っちゃうから」
芽榴はそう言って笑った。実際、今日も風雅と追いかけっこはしたが、そのことについては松田先生に咎められていないのだ。芽榴にそこまで言われると、有利も手伝い辛くなる。
「今日は何をしたんですか?」
「ははっ、松田先生って日本史の教科担でしょ? 中間でいい点数とれなかったら罰則って言われてたんだよねー」
芽榴の点数は68点。確かによくはないが、悪くもない。平均点であるため罰には値しないはずだ。しかし、一方的でも約束してしまっているので、芽榴は甘んじて罰則を受けることにしたのだ。
「少し横暴じゃありません?」
「ねー。藍堂くんからも今度言っておいてよ」
芽榴は苦笑しながら言った。有利はそれに頷き、2人の会話はそれで終了、のはずだったのだが、有利はなぜかもう一度芽榴から本を半分奪おうとする。
「……藍堂くん」
芽榴は困り顔で有利を見つめる。対する有利は顔色一つ変えない。
「困ってる人は放っておけないんです……祖父からの教えなので」
後付けのように言われた台詞に、芽榴は思わずクスッと笑った。
「ははっ、それはいい教えだねー」
「ですから、半分くらい持たせてください」
有利にここまで押し切られると、芽榴も逆に断りきれない。
「じゃあお願いします」
芽榴はそう言って有利に本を半分渡した。
「でも、楠原さんって……成績良さそうですけどね」
「そー? 見た目は知的なのかな」
芽榴はそう言って薄く笑う。
「じょーだん。さっきも言った通り、実際は全然だよ」
芽榴は真っ直ぐ前を見て告げた。
「そう、ですか」
有利もそこで口を閉じた。
元々、芽榴は話が得意な方ではない。有利もどうやらそのようで、2人のあいだにはよく沈黙が訪れる。でも少しだけ、この沈黙は居心地悪かった。
それから間もなく、課題テストと同様に学年棟には中間テストの順位が貼り出された。
「103位かー。……微妙」
「前回は100位ピッタリだったからそうでしょうね」
芽榴は自分の順位を口にする。相変わらず喜びも悲しみもない感想だ。そんな芽榴の呟きを聞き、舞子も芽榴の順位について一言述べた。
「舞子ちゃんは、もうちょっと右でしょ」
「うん。ちょっと探してくるわね」
「行ってらっしゃーい」
芽榴は手を振ってのんきな声を出す。自分よりも上の順位を見に行く舞子の背中を見送った。
廊下で一人になった芽榴は改めてもう一度自分の順位を見る。やはりその順位に芽榴は安堵の表情を浮かべるのだ。
「あら……楠原さん」
そんな芽榴の近くで、少し高い綺麗な声が聞こえた。最近よく耳にする声に、芽榴はすぐさま振り返った。
「柊さん。こんにちはー」
芽榴は笑顔で背後にいた来羅に挨拶をする。
今日も変わらずツインテールがよく似合う可愛らしい出で立ちだ。
「こんにちは。順位見に来たの?」
ナンパ現場を助けて以降、理由も用事もよくわからないが来羅まで芽榴のクラスに顔を出すようになった。おかげで、こんなふうに廊下で会えば話しかけられる程度には仲良くなれた。
「あはは、うん。柊さんは一番向こうでしょ?」
芽榴がそう言って、廊下の最端を指差す。現在混雑中のトップ5が書かれている広幅用紙には当然来羅の名前も書いているはずなのだ。
「そうなんだけど、あんな感じで居心地悪いから」
来羅はさっきまで自分がいた場所を振り返り、肩を竦めた。毎度のことながら周辺順位に関係ないであろう女生徒たちがたくさんいる。彼女たちがそれぞれ誰のファンであるかはこの際関係ないだろう。
「柊さん、女の子嫌いなの?」
「私は、嫌いじゃないわよ?」
来羅は何が楽しいのか、そう言ってクスリと笑った。
「人気者は大変だねー」
「否定はしないわ」
来羅は遠くで女子に囲まれている自分の友人たちを見ながら苦笑いを浮かべる。そしてその視線を芽榴へと戻した。
「比べて楠原さんは、落ち着いてるわよね。私たちといても騒がない……っていうか、逆にちょっと引いてる?」
ここ数日、芽榴と直接話をしてみて来羅はその点に気づいた。遠慮や戸惑いではなく、芽榴は明確に彼らとの線引きをしている。
図星をさされ、芽榴はハハハーと乾いた笑い声をもらした。
「でもね、楠原さんの対応は間違ってないよ」
「へ?」
来羅はどこか寂しそうに芽榴のことを見た。
「私たちは、一つ間違えば疎まれる側の人間だもの。颯の言葉を借りて言えば、憧憬と敬遠は紙一重……ってね」
最後はニコリと彼らしい可愛い笑みを見せる。しかし、その言葉に含まれる思いはその表情とはまったく逆のもの――そう、芽榴は感じ取った。
「それでも、楠原さんのことはもう少しよく知りたいの。だから、しばらくは仲良く……」
「違うよ」
来羅が言葉を繕う前に、芽榴は口を開いた。その表情はナンパ現場で見たのと同じ、来羅の心を引きつけた真剣なものだ。
だからなのか、自然と来羅の顔から笑みは消えていった。
「私は別に敬遠してるんじゃない。ただ、一緒にいると羨ましくなるから……だから一線引いてるだけ。言うなれば私の気持ちも憧憬だよ」
「……楠原さん、私のこと羨ましいなんて思うの?」
来羅は「嘘でしょ」と顔に書いて、ぎこちない笑みをもって聞き返す。来羅から見て、芽榴は誰かを羨望するような人間には見えないのだ。
けれど芽榴のそれは本心。だから芽榴は躊躇することなく頷いた。
「だって、柊さんは今、みんなの憧れの的じゃん。紙一重とか、そういう理屈はよく分からないけど……敬遠と憧憬っていう選択肢から、みんなに憧憬を選ばせたのは柊さん。みんなが選んだんじゃないよ。柊さんが選ばせたの」
だから羨ましくて、自分が嫌になる。そう言って芽榴は笑った。
「なーんて、ははっ。柊さんに偉そうなこと言っちゃって、恥ずかしいね、私」
力説して恥ずかしくなった芽榴は誤魔化すように頭をかく。そんな芽榴を見て、来羅も思わず笑ってしまった。一瞬2人のあいだに漂った緊張感はそれで一気に弾けた。
「ふふっ。やっぱり、もっと仲良くなりたいな。楠原さんと」
「そー? 柊さん変わってるねー」
「来羅」
「え?」
「名前で呼んで。そっちのほうがしっくりくるから」
綺麗な髪を揺らし、来羅が首を傾けながら告げる。
「私も楠原さんのこと、名前で呼んでいい?」
「いい、けど……」
風雅は名前を教えた瞬間から下の名前で呼び始めた。そのせいか、わざわざ聞かれると少し照れくさいのだ。
「じゃあ、芽榴ちゃんね。あ、でも……これ風ちゃんと同じ呼び方よね……」
「いや、蓮月くんの呼び方というか、それが一般的というか……」
来羅の不満げな呟きに芽榴は思わずツッコミをいれてしまう。風雅だけでなく母である真理子も芽榴のことはそう呼ぶのだ。名前に『ちゃん』をつけただけで全然特別ではない。
「じゃあ、るーちゃん!」
「る、るー……?」
「芽榴ちゃんの『る』をとって、ね? どうかな?」
反応しづらい。が、別に嫌ではないため「それでいーよ」と苦笑まじりに芽榴は答えた。
「あ、舞子ちゃんだ。じゃあ、またねー。えと……来羅、ちゃん」
少しぎこちなくなるものの、ちゃんと名前を呼んでみる。そして、芽榴はこちらに戻ってくる舞子の元に駆け寄った。
ヒョコヒョコ歩いていく芽榴を見て、来羅は嬉しそうに唇を緩ませた。
「……柊」
そんな来羅の後ろからゲッソリした顔の葛城翔太郎が登場した。翔太郎がやつれている理由が分かる来羅は困ったように笑った。
「脱出失敗したみたいね?」
「貴様……どうせ逃げるなら俺も連れていくべきだろう。あとで蓮月は締めあげる」
元々、トップ5の用紙の前には女子が集っていたのだが、風雅が現れた瞬間にその数は倍以上に増えたのだ。来羅は無事脱出できたのだが、翔太郎は逃げ遅れてしまったらしい。
「……最近、楽しそうだな。貴様は」
「うん、楽しいわよ。ついでに言うなら私だけじゃなくて、風ちゃんと有ちゃんも、ね」
「ふん……別にどうでもいいが」
鼻からずれた眼鏡を押し上げ、咳払いとともに翔太郎は返事する。
「ふふっ、捻くれないでよ。近いうちに翔ちゃんにも楽しみをお裾分けしてあげるわ」
「いらん」
ブツブツと文句を言いながら翔太郎は教室へと戻る。来羅は楽しそうに笑って、その背中を追いかけた。