03 炭酸とナンパ
芽榴は冷蔵庫の前でその日の夕食について悩んでいた。楠原家の台所は芽榴の独壇場。冷蔵庫事情は芽榴が常に管理しているのだ。
「うーん、スーパー行ってくるか」
食材はそれなりに残っているが、ストックも欲しい。買いに行くなら今日が時期か、と芽榴は居間に足を進めた。
「お父さーん。食費ー」
居間でテレビを見ながら寛いでいる父、重治に芽榴は声をかけた。
「おう、じゃあ父さんのビールもよろしく頼む!」
「未成年には買えないよ」
お金を渡しながらそんなことを言う父に芽榴はため息をつく。芽榴の呆れ顔を見て、重治は「はっはっはーっ」と楽しげな笑みを浮かべた。
「芽榴ちゃん、買い物に行くならそのあいだに残りもので私が何かを作」
「後処理が大変だからいいよ」
別の部屋で洗濯物を畳んでいた母、真理子が顔を出す。芽榴は真理子が料理をしていた昔のことを思い出して苦笑した。彼女に料理を任せるくらいなら、たとえ40度近い高熱を出しても芽榴が料理をした方がマシなレベルだ。
「芽榴ちゃん、ヒドイ」
「芽榴! 真理子が本気を出せば料理なんてちょちょいのちょいだ!」
「そーですか」
「重治さん……っ!」
「真理子……っ!」
意味不明なメロドラマを繰り広げ出した両親を放って、芽榴は玄関に行った。ちなみにこれは頻繁に繰り広げられる両親のラブシーンであり、わざわざツッコミをいれることではない。
「ただいまー……って、あれ? 芽榴姉。どっか行くのか?」
玄関から入ってきたのは一つ年下の弟、圭だ。芽榴とは違い、普通の公立高校に通っている圭は部活もしていて帰りは遅いのだ。
「うん。スーパーに」
「ふーん。ちょっと待って」
そう言ってからニ階にすばやく駆けあがった圭は荷物だけを置いて再び階段を下りてきた。
「何やってんの? 圭」
疲れているだろうから部屋で休めばいいのに、と芽榴は素直な意見を述べる。しかし、目の前にいる弟は「えっと……」と黒目を一周グルリと回して芽榴に笑いかけた。
「俺も飲み物買いたいし、行く」
「買ってくるよ?」
「ついでに荷物も持ってやるから、な?」
「圭、色気づいてるなー」
重治と真理子が居間から顔を出し、ニヤニヤしている。圭の顔は芽榴には見えなかったが、スタスタと両親に歩み寄り、スリッパで一叩きしてまた戻ってきた。
「行こう、芽榴姉」
「ほーい」
スーパーの帰り道、芽榴は隣を歩く圭を見上げた。昔は芽榴の方が大きかったのにいつのまにか圭の方が遥かに大きくなってしまった。部活で少し日焼けした肌は筋肉がつき、学ランもボタンを開けて羽織るだけの格好は弟ながら様になっていると思うのだ。
「何だよ?」
「圭ってモテそうだなーっと思って」
芽榴の突拍子もない発言に、圭は飲んでいた炭酸を思い切り吹きだした。
「ゴホッゴホッ! 芽榴姉? いきなり何言い出すんだよ」
「思ったことを思いのままに」
「はぁ。それを言うなら芽榴姉だろ」
「何が?」
「モテるだろ?」
「冗談」
姉弟で何を言いあっているのか、と途中から恥ずかしくなった芽榴は適当に流すことにした。
「モテるっていうのはね、圭。ほら、あんな感じでナンパされる子のことを……って、あれ?」
ちょうど横目に男子高校生に囲まれる女子を見つけた芽榴はそんなことを口にするが、その女子に見覚えがあり、思わず足を止める。
「芽榴姉?」
「うーん。まぁ女子っちゃ女子だけど……」
チャラそうな男子3人に腕を掴まれている少女は金色の髪をサイドで二つに結んでいる。麗龍の白を基調とした制服があんなに似合う人は校内でもそんなにいない。
「離してよ。用があるの!」
来羅は腕を掴んでいる男子を思いきり睨んだ。しかし、睨んだ顔も綺麗で、威嚇としてはあまり効果はない。というよりも逆効果だった。
「いいねぇ、その目」
「ちょっとだけならいいでしょ?」
男たちはますます来羅に詰め寄っていた。来羅の顔がだんだん強張っていく。
「圭、それちょーだい」
「え? おい、芽榴姉!」
圭の飲んでいた炭酸のペットボトルを奪った芽榴はそれをブンブン振りながらナンパ現場に近づいて行った。
「いい加減にしてよ!」
「俺らと楽しいことしようよー?」
「あのねぇ。私は――」
「失礼しまーす」
来羅が何かを言いかけるのと芽榴がペットボトルのふたを解放するのはほぼ同時だった。芽榴の持っていたペットボトルは勢いよく噴射し、その男子たちに降りかかった。
「うわー。思ったより噴射するんだ……」
「てっめー! 何しやがる!」
ビショビショになった男子たちがものすごい形相で芽榴を睨む。芽榴が「あはは」と苦笑すると、それも気に障ったらしく3人が芽榴に詰め寄ってきた。そうして中の1人が芽榴の胸倉に手をかけようとした時――。
「おまわりさん! こっち!」
圭の大きな声。その言葉に反応した男子3人はチッと舌打ちをするとスタスタと逃げて行った。それと同時に荷物を持ったままの圭が芽榴に駆け寄った。
「芽榴姉、バカじゃねーの? 危なすぎだろ!」
「まぁ、そう怒んないでよ。また炭酸買ってあげるから」
「そうじゃねーよ!」
説教を始める圭を芽榴は軽くあしらう。圭の後ろからお巡りさんが来ないところから考えるに、さっきのは圭のとっさの芝居なのだろう。慣れてるな、なんて芽榴が心の中で思ったのは秘密だ。
「あの……」
圭と言いあっている芽榴に来羅が声をかける。
「ありがとうございます。助けてくれて」
「えー? あ、いいよ。全然」
芽榴が振り返ってそう言うと、来羅は目を大きく見開いていた。
「あなた……楠原さん、よね?」
「へ? あ、はい」
学園有名人の一人が私服の自分を見て同じ学校の生徒だと気付いた、まして名前まで知っていることに芽榴は少し驚いた。しかし、驚いているのは来羅も同じようだった。
「……怖くなかったの?」
「えっと、まぁ」
芽榴が頬をかきながらそう答えると、来羅は苦笑した。
「強いね、女の子なのに」
そう言った来羅の声音は寂しかった。来羅の言葉はまるで女という性別に縛りがあるようで、芽榴は自然に言葉を発していた。
「男とか女って関係ないでしょ? それ」
「え?」
芽榴の言葉に、来羅は俯いていた顔をあげた。
「女でも強い人は強いし、弱い人は男でも弱いじゃない? 今は、性別にあわせて行動が制限される時代でもないんだし」
「え……」
芽榴はさらっとそんなことを言う。別におかしなことをいったつもりはないのだが、来羅がじっと見つめてくるので芽榴は少し困り始めていた。
「芽榴姉」
そんな2人の会話を遠目で見ていた圭が携帯を翳しながら芽榴を呼ぶ。気まずい雰囲気から解放されて安堵した芽榴がどうしたのかと尋ねると圭は両親からの夕食催促メールを芽榴に見せた。
「はあ。帰ろうか、圭」
芽榴は圭に携帯を返すと、来羅を振り返った。
「じゃあ、今度はナンパされないように気をつけてねー。柊さん」
芽榴はヒラヒラと手を振り、その場から姿を消した。後に残された来羅はしばらく呆然と立っていて、我に返ったのは同じ役員の翔太郎が戻って来た時だった。
「柊? どうした」
鼻からずれる眼鏡を押し上げながら翔太郎は来羅に尋ねる。
「翔ちゃん、遅いわよ。あともうちょっとで襲われるとこだったわ」
「襲われても所詮未遂で終わるだろうがな」
翔太郎の言葉は来羅が男であることを指してのものだろう。普段ならそんなセリフに怒りだす来羅だが今日は様子が違った。
「いいじゃない。女嫌いの翔ちゃんが連れ添える数少ない女の姿なんだから」
「柊……何かいいことでもあったのか?」
「どうして?」
「貴様が女装についてそんなふうに捉えるのは初めてだ」
翔太郎がそう言うと、来羅はそういえばそうだ、と思った。
「ふふ。なるほど……」
来羅がどうして笑っているのか分からない翔太郎は再び眼鏡を押し上げ、スタスタと学園へ歩みを進めた。
その次の日から、芽榴を訪問しにF組に現れる学園有名人が1人増えたそうだ――。