51 お化粧とドレス
「わーお」
芽榴は茶色の枠ぶちの大きな全身鏡を前にそんな声をあげた。
聖夜に連れていかれた芽榴は学園のシャワールームへと連行されたのだ。
聖夜の行動に警戒していた芽榴だが、芽榴をシャワールームに連れ込むと、聖夜はあっさり特務室に戻っていった。
聖夜は単に芽榴を気遣っただけ――。
その事実に芽榴は少しだけ驚いていた。
シャワーを浴び、バスタオルを巻く。
そこで、芽榴は着替えはどうすればいいのかという疑問に至った。我ながら迂闊だったと芽榴は少し焦る。
そんなことをシャワールームの中で考えていると、4・5人のメイド服を着た20代くらいの女性たちが突然入ってきた。「え」と本当に信じられない声をだした芽榴だが、そのままメイドたちに囲まれ、されるがままになった。
そうしてやっとメイドたちが芽榴から離れ、その全身鏡を持ってきたのだ。
鏡に映る自分を芽榴はボーっと見つめていた。
真っ黒のドレス――胸元にボリュームのあるレースがあしらわれた、まるでおとぎ話のお姫様が着そうなドレスを芽榴は身にまとっていた。
そして顔には薄すぎず、濃すぎないキレイなお化粧が施され、長い黒髪のウィッグが肩にかかり、サラリと揺れた。
まるで自分ではないみたいだった。
いや、本来の自分がこれなのだろう。
喜ぶでも怒るでもなく、芽榴はただ茫然と自分の姿を見つめていた。
「聖夜様がお待ちです」
メイドの一人がそう言い、芽榴は目を閉じて息をはく。
芽榴はシャワールームを出て行き、特務室へ移動した。
特務室の前に広がる大きな茶色い扉を芽榴はコンコンと優しく叩いた。
「楠原です」
「入れや」
すぐにそんな返事がくる。
芽榴は一息ついて、その扉を開けた。
扉を開けると、真正面のソファーに聖夜がいた。
両手を広げ、堂々と座る姿はラ・ファウスト学園に芽榴が一人で乗り込んできたときと同じだ。
聖夜は芽榴の姿を見て瞠目していた。
「見違えるもんやなぁ。そっちのほうが断然ええ。俺の好みや」
「今度は何のお遊びですかー?」
芽榴は半目で笑う。対する聖夜は口元を緩め、目を伏せた。
「ピアノを弾いてくれへんか?」
聖夜の声は少し弱々しくて、儚い。
そんな姿を見て、断れるほど芽榴の神経も図太くできてはいなかった。
芽榴は特務室の奥にあるピアノのほうに歩み寄った。
昨日まで、いや今日の朝まではなかった。
「急ぎ取り寄せたんや」
聖夜は目を伏せたまま言った。
先ほどの春日の件でイラついているだけ――そんなふうには思えなかった。
あくまで聖夜にとって自分は暇潰しでしかない。
もし助け舟が現れたのだとしたら、聖夜は苛立つのではなく、むしろ面白がるだろう。
芽榴には何が聖夜をこんなにも憂鬱にさせているのか分からなかった。
「何を、弾けばいいんですかー?」
芽榴は静かに聞いた。なんとなく答えは分かっていた。
「……別れのワルツ」
聖夜の声が広々とした室内に響き渡る。
芽榴はただ頷いて、ピアノの鍵盤に手をかけた。
優雅に響き渡るきれいな音色――。
「なあ……」
ピアノを弾きながら芽榴は視線を聖夜へと移した。
「お前の憧れとった男って……誰や?」
聖夜の言葉に芽榴の指が止まった。
――その曲は?――
――別れのワルツ。憧れの人が好きな曲です――
芽榴の頭の中に遠い過去の記憶がよみがえる。
――憧れていた人が好きな曲だったんですよ――
次に浮かんだ最近の言葉が核心だった。芽榴はそれに気づき、苦笑した。
「それで私のこと気づいたんですねー」
まさか聖夜があの時のことを覚えているとは思わなかった。
「憧れの人は……私がどんなに手をのばしても決して届かない人、ですよ」
「東條……か」
聖夜の呟きに芽榴は答えない。
でも、それこそが何よりの答えだった。聖夜はそんな芽榴の姿を見て唇を噛んだ。
「そないな顔するんやったら……俺がお前を東條芽榴に戻したる」
「何……言ってるんですか?」
芽榴は呆れるような、困ったような顔をした。
「東條と同格の地位にある俺やったら、お前をその姿に戻してやることができる」
聖夜はゆっくりと芽榴のもとに近づいていく。
「その姿が本来のお前や」
聖夜は芽榴の背後に立ち、芽榴を後ろから抱きしめた。
「せやったら、俺たちがこうなるんも必然やろ」
耳元で聖夜の声が聞こえる。
まわされた聖夜の腕は力強い。
東條家の一人娘が生きていたなら、聖夜と結ばれてもおかしくはない。むしろ、それが必然の結果だっただろう。
しかし、聖夜がそれを望んでいるなど、芽榴には到底信じられなかった。
「手に入れたいのに手に入らん。あと少しで手に入れられる思うたらすぐに連れていかれてまう。腹立たしくて……せやのに、どうしようもなく苦しい。この気持ち、お前は知っとるか?」
聖夜はそう言って、芽榴の顔を無理やり横に向かせた。
「離してください」
「嫌や」
芽榴は聖夜の手首を掴んだ。
しかし、聖夜の腕は動かない。
芽榴の腕にも力が入らない。
聖夜の考えが分からない――。
「琴蔵さ……」
「こないなときくらい、名前で呼べや」
聖夜の顔が近づいてくる。
「誰にも渡さへん……芽榴」
芽榴は目を見張った。
初めて、聖夜が自分の名前を呼んだのだ。
芽榴の腕の力が緩む。聖夜は薄く笑った。
そのとき――。
ガンッ
芽榴と聖夜のあいだを木刀が通り抜けた。
少し逸れていたなら聖夜か芽榴のどちらかの顔に刺さっていたかもしれない。
確実な自信をもってその精密な距離に木刀を投げ込む人間など、思いつくのは一人だ。
芽榴は壁に刺さった木刀を見て嬉しそうに笑った。
「――っ」
聖夜はその芽榴の顔に目を見張る。
木刀の持ち主――有利は聖夜を睨みつけていた。
聖夜はその瞳を受け止め、有利の後ろから現れた人物を見て目を眇めた。
「神代くん」
芽榴は有利の背後にいる颯を見て笑う。
「手荒いご登場ですね。麗龍学園の藍堂有利さんと、神代颯会長」
「そちらこそ、随分と下品なことをしていらっしゃいますね」
颯は有利に目配せをして、有利は芽榴のもとに駆け寄り、その手を掴んだ。
「先に行っています」
有利はそのまま芽榴を連れて行った。
聖夜は有利に連れていかれる芽榴を見つめる。
芽榴は一度だけ聖夜に振り向いて、いつもの平然とした顔のまま部屋を出て行った。
芽榴に手をのばしかけた聖夜の前に颯が立ちふさがる。
「もう、芽榴には触らせないよ」
「……ぬかせ」
颯と聖夜は睨み合った。
 




