44 初登校とお出迎え
「な……ななな何してんだ、芽榴姉ーーーーー!」
早朝、楠原家から雄叫びがあがった。
「圭、近所迷惑だよー」
「なんで芽榴姉がラ・ファウスト学園の制服着てんだよ!?」
芽榴は昨日聖夜から受け取った新品の制服を試着してみたのだ。
袖口が二の腕のあたりで絞ってある白のブラウスに茶色の大きなリボン、赤いベストに茶色のフレアスカート。
ラ・ファウスト学園に通うお嬢様のために作られた特別な制服だ。
「なんだ、朝から騒々しい」
「ほんとよー。圭ってばどうしたのよ?」
重治と真理子も起きてきた。二人は芽榴の姿を見て、上から下までチェックした。
「うーん。私は麗龍の制服のほうが好みね。でも、ラ・ファウスト学園の制服も手がこんでるだけあって可愛いわねぇ」
「というか、やっぱり芽榴は圭の高校のセーラー服のほうが似合うんじゃないか?」
「公立高校の制服は着る人を選んじゃいけないからねー。誰にでも似合うようにできてるから当然」
どこか的外れな会話を繰り広げる三人に圭の思考が追いつかない。
哀れに思った重治は圭に芽榴がラ・ファウスト学園に行くことを告げた。
「なんでだよ!?」
「さー。成り行き?」
芽榴がどうでもいいことのように答える。圭は文句を言おうとして、その理由に思い至った。
「もしかして……このあいだラ・ファウストに行ったのが原因で、目つけられたとか?」
「そうといえばそうだし、違うといえば違うー」
突如として表情を曇らせる圭を見て、芽榴は苦笑した。
「もしあの件が理由だとしたら、それはそれで本望。あれは私が勝手にしたことだし、それに弟のために頑張らない姉はいないよー」
芽榴は圭の頭をポンポンと叩く。
「でもまあ、そう言っても圭はきっと気を使うだろうから、圭には一つ頼みを聞いてもらうことにするよ」
「頼み?」
「うん、大事な頼み」
芽榴はニコリと笑い、首を傾げる圭を放って台所に行った。
「芽榴はできた子だなー。我が息子の馬鹿さが際立つ」
「本当、そんなんだからいつまでたっても芽榴ちゃんに子供扱いされるのよ」
重治と真理子は圭を見ながらやれやれと溜息をつく。
「父さん、母さん……」
圭は眉をピクピクさせながら笑う。
圭がそれ以上この件について悩まずにすんだのは二人のおかげかもしれない。
「なんや? 俺と一緒に初登校。緊張しとるんか?」
現在、芽榴は超高級車の中で聖夜と向かい合って座っている。
ラ・ファウスト学園に行こうと家を出た芽榴の前に聖夜を乗せた車が止まった。そんな車が住宅の並びに止まれば、近所の人の視線も一気に集まる。
芽榴は近所の人の痛いくらいの視線を浴びながら、聖夜によって無理やり車の中に引きずり込まれるのであった。
疲れた顔をしている芽榴を見てそんなことを愉快そうに聖夜は言う。
「そんなふうに見えますか? いい眼科を紹介しますよー」
芽榴は窓の外を眺めながら返事した。
「というか、わざわざ迎えに来なくても逃げたりしませんよ」
「念には念をってな。こんくらいしとけば簡単には麗龍の人間も会えんやろ」
聖夜は腕を組んで満足そうにしていた。
芽榴は変わりゆく街の風景を見つめる。高校生が楽しそうに数人で登校している。
――来たわよ、芽榴――
芽榴は目を閉じた。
――あ! 芽榴ちゃん、おはよー!! 今日もかわ――
――楠原さん、おはようございます――
――蓮月、朝っぱらから騒ぐな! 楠原、貴様もちゃんと蓮月の躾をだな――
――翔ちゃんこそ朝っぱらから意味不明な説教始めないで。るーちゃん、おはよ――
――芽榴、おはよう。さあ、行こうか――
ふと、ある朝のことを思い出す。
芽榴は目を閉じたままポツリと呟いた。
「会う気なんてないですよ」
芽榴の小さな声が広々とした車内に響く。
それが、芽榴が聖夜に初めて見せた寂しげな顔だった。
しばらくしてラ・ファウスト学園に着いた。
運転手が車のドアを開け、聖夜はそれに対して礼も言わず、当然のように車を下りる。芽榴もそれに続き、運転手に軽く会釈をして下車した。
「わーお」
地面に足をつけた芽榴は思わずそんな声を出してしまった。
芽榴の視界に、宮殿のような学園を背景にして玄関までの道を生徒の綺麗な列がお辞儀をして待つ、という異様な光景が映ったのだ。
そして芽榴の立つ地面にはレッドカーペットが敷かれている。
さすがの芽榴もこの光景には唖然としてしまった。
しかし、聖夜はそれさえも当然のことのように、つまらなそうな顔で通り過ぎていく。自分の登校にあわせて令息令嬢たちがお辞儀して待っていたというのに知らん顔だった。
芽榴は聖夜の後ろをゆっくりと歩く。
聖夜が通り過ぎ、顔をあげた生徒たちの視線はすべて芽榴に注がれていた。
「琴蔵様の知り合いか?」
「パーティーでも見たことがないお顔ですわ。どちらのご令嬢かしら」
そんな生徒たちの呟きが微かに聞こえる。
確かに天下の琴蔵聖夜の後ろにいるのが一般庶民などとは誰も思わないだろう。
「令嬢か。懐かしい響きなんとちゃうか?」
聖夜は顔だけ芽榴のほうを振り返り、目を眇めた。
「令嬢なんて言われるの初めてなんで気恥かしいですねー」
芽榴は小声で返事し、聖夜を半目で睨んだ。
芽榴はそのまま聖夜によって各教室に案内されるのだった。
大学の講義室のような教室。その一番後ろの真ん中の列の席に芽榴と聖夜がいた。
さっそく芽榴は聖夜の隣で授業に参加することになったのだ。
今、受けているのはドイツ語の授業。
この学園に通う令息令嬢は基本的に英才教育を受けているか、あるいは留学経験がある。ゆえに最低三ヶ国語が話せるのが基本だ。
しかし、庶民の学校では英語しか習わない。それは麗龍学園と言えど、変わらないのだ。
芽榴は聖夜の隣でボーッと遠くの黒板を眺めていた。
黒板の前に立つのはドイツ人の先生であるから、発音はネイティブそのもの。授業はすべてドイツ語だ。
つまらなそうな芽榴を見て、聖夜は何かを企むようにクスリと笑い『先生』と手を挙げた。
その単語だけしか聞いてないが、聖夜の発音が綺麗だ、と不服ながら芽榴は思った。
しかし、感動も束の間、聖夜は芽榴を指差してこう先生に告げるのだ。
『彼女に自己紹介してもらいたいのですが、よろしいですか?』
わざとドイツ語で聖夜は会話する。ドイツ語を知らない人が聞けば、ただの暗号だ。
聖夜の意見に反抗する先生がいるはずもなく、先生は笑顔で了承した。
「さあ、楠原さん。どうぞ?」
聖夜は楽しげに日本語で芽榴にそう言った。
芽榴は何を言えばいいかなど尋ねたりはしない。聖夜のことを目を細めながら睨み、立ち上がった。
生徒の視線は芽榴に集中している。
何せいきなり現れた小娘が聖夜の隣にいるのだ。納得いくはずもないだろう。
誰もが琴蔵に媚を売りたいが、彼に近づくことさえできないでいる。簑原慎が唯一の特例だったのだ。
芽榴はフーッと息を吐き、口を開いた。
『楠原芽榴です。急な話ではありますが、琴蔵様のお誘いにより麗龍学園からラ・ファウスト学園に来ました。どうぞよろしくお願いします』
芽榴はそう言ってニコリと笑った。
生徒も唖然の流暢な喋りだった。聖夜顔負けの綺麗な発音に先生も『素晴らしい!』と興奮していた。
「満足ですかー?」
芽榴が平然とした顔で腰を下ろすと、聖夜は隣でクククッと声を抑えて笑う。
「さすがやな」
「それはどーも」
芽榴はそう答えて再び遠くの黒板を見つめるのだった。
その日、ラ・ファウスト学園は琴蔵聖夜のそばにいた謎の令嬢の話で持ちきりだった。




