42 最善の策と別れ
放課後、芽榴はいつものように生徒会室にいた。昼休みを完全に聖夜に奪われたため、その分の仕事まで芽榴はこなしている。だから倍の仕事であるのは納得できるのだが。
「これ、何倍の量よ?」
芽榴の目の前に置かれている仕事の山を見て、来羅が芽榴の思っていることを的確に指摘してくれた。
芽榴は仕事が早い。だから倍の仕事であったとしてもそれほど時間がかからないはずなのだ。しかし、今の芽榴の前からは一向に仕事が減らない。増えているようにさえ感じる。いや、事実増えているのだ。
「何か文句でも?」
我らが皇帝陛下にそんな笑顔を向けられれば文句など言えまい。言える人間がいるとすれば命知らずの愚か者くらいだろう。
「学園側が毎度これほどの仕事を残しているという事実もおかしいがな」
翔太郎は芽榴を見ながら根本論を語り出した。
「それにしても、あのご子息様がこんなにも早くお帰りになるなんて予想外でした」
有利がボソッとそう呟くと、颯の手がピタリと止まった。その反応を芽榴は見逃さなかった。そしてそのまま芽榴は「それ同感ー」と笑った。
「なんか会議が後に控えていたみたいだよー」
「そこまでして会いにくるなんて余程の執着ね」
「嬉しくないけどねー」
芽榴はそんなことを言いながらひたすら手を動かした。
それから何時間か経ち、最終下校時刻となった。役員はそれぞれ学内に生徒が残っていないかを確認しに行く。
基本的にこの作業は芽榴を除く全員で行っているのだが、今回は翔太郎と来羅、そして有利の三人だけで行うことになった。五人の仕事を三人でするとなれば結構時間がかかるはずだ。
室内には颯と芽榴だけが残った。
夕食の支度があるから、と芽榴は普段この時間まで残ることはない。
しかし今日は帰れない理由がある。仕事が終わらないのだ。
「神代くん。そろそろ仕事尽きるんじゃなーい?」
「それはないから安心して」
颯は笑顔で芽榴に答える。芽榴は困り顔で時計を見た。
「このままじゃ一向に帰れないー」
「いっそ帰らなければいいよ」
颯の発言に芽榴は限りなく目を細めた。
「何言って……」
「今」
文句を言おうとした芽榴の声を凛とした颯の声が掻き消した。
「今ここで、芽榴を帰してしまったら……もう二度と、芽榴に会えない気がしてね」
芽榴の目が大きく見開いた。
颯は芽榴に背を向け、窓の外を見ている。薄暗くなった空を見て、颯は自嘲ぎみに笑った。
「なんてね。今のは聞かなかったことにしてくれるかい?」
振り向いた颯の瞳がいつになく寂しげに揺れていた。
彼にこんな顔をさせたのは芽榴だ。そして彼にこんな顔をさせることができるのは他でもない芽榴だけだ。
「神代、くん。私……」
「芽榴」
颯は芽榴と向き合った。
「僕に言いたいことがあるんだろう?」
颯の声は静かな部屋に儚く響いた。
颯はいつもすべてを察している。今、芽榴が何を思い、何をなそうとしているのか。それはたとえ颯であろうとも分かるはずがない。それなのに颯は分からないことも含め、芽榴のすべてを肯定しようとしている。
「神代くんには敵わないなー……」
芽榴は苦笑して言った。
「神代くん。私」
最後の最後まで渋った、これが最善の策――。
「ラ・ファウスト学園に行くよ」
芽榴は帰り道を歩く。颯以外のみんなに送ると言われたが芽榴はそれを断った。
静かな夜道――。少し気の早い蝉が鳴いていた。
しばらく歩くと、静かな空気の中で唯一賑わう公園に芽榴は目がいった。
「あららー……」
芽榴は賑わいの中心にいる男子を見て苦笑した。
公園の中には公立高校の制服を着た女生徒が数人いた。そしてその女子たちがベンチに座る一人の男子を囲んで騒いでいるのだ。
「あなた蓮月風雅くんでしょ!?」
「きゃあ一度会いたかったのー! 超嬉しい」
女子たちは感動をとても大きな声で伝えていた。伝えられた本人は心ここにあらずといった雰囲気のままそれを聞いていた。
「ねぇねぇ、連絡先教えてよ」
「今、彼女いるの?」
女の子たちは風雅にそう詰め寄る。風雅はぎこちない笑みを浮かべて「いないよ」と律儀にも答えていた。
風雅の返答に女生徒たちは大喜びしていた。
「じゃあ、うち風雅くんの彼女に立候補する」
「えー! ずるい!」
「早い者勝ちだしぃ」
そんな話が風雅そっちのけで進んでいく。
さすがの風雅もこのままではいけないと察したのか、口を開いた。
「あの」
「蓮月くん、お待たせー」
風雅が何か言おうとしたそのとき、風雅の後ろから芽榴が手をひらひらさせながら現れた。
「芽榴、ちゃん……?」
風雅が掠れた声で芽榴の名を呼ぶと、芽榴はニコリと笑った。
「何よ、あんた……」
「麗龍の制服ってことは風雅くんの知り合いとか?」
「超タイミング悪ー」
「頭いいんだったら空気読みなよ」
突っかかるように女生徒たちが芽榴に詰め寄る。芽榴はそれを平然と受け止めた。
「蓮月くん。生徒会の仕事中なの。今、私が別の用を済ませてたからここで待っててもらっただけ。だから、蓮月くんを返してもらっていい?」
芽榴は相手の目をちゃんと見てそう言った。女生徒は芽榴の力強い声に少し怯み、すぐ媚びるように風雅を見た。
「風雅くん、それほんとぉ?」
屈んで風雅にそう問いかける。風雅のファンクラブの子に似た甘い女子特有の声だ。どうやって出しているのか芽榴には見当もつかない。
風雅は芽榴をちらと見る。芽榴はただ女生徒を見つめるのみだ。
風雅はフッと笑って頷いた。
「うん。だから、ごめんね」
風雅がそう言うと、女の子たちは渋々公園から出て行ったのだった。
公園に芽榴と風雅は二人きりになった。
芽榴は「公衆電話行ってくるー」と言ってその場を離れた。しばらくして芽榴は風雅のもとに小走りで戻ってきた。
「芽榴ちゃん、携帯買えばいいのに」
「うーん。なんか普段持たないものを持つのって苦手ー」
芽榴はそう言って笑った。芽榴は高校生に珍しくも携帯を持っていないのだ。圭が買うときに一緒に買うことを勧められたが、芽榴は断ったのだ。
「家って……。あ、夕飯の支度大丈夫なの?」
「うん。遅くなるから出前取ってって言っておいたー」
真理子は電話もとで「私が料理する」と言い張ったが、芽榴はそれを断固拒否した。台所で爆破事件を起こされては困るし、真っ黒な料理など想像しただけで重治と圭に申し訳ない。
「遅くなる……って家、遠いの?」
「ううん。蓮月くんとお話しようと思ってー」
「え」
風雅は驚いていた。芽榴からそんなことを言われるとは思っていなかったのだ。
「最近、元気ないみたいだし。生徒会にも来ない。F組にも来ないから、私のこと避けてるのかなって思ったんだけど」
「それは違う!」
風雅が大きな声で否定する。芽榴はびっくりして肩を揺らしたが、すぐに笑った。
「うん、そーみたい」
芽榴の笑顔を見て風雅はすごく辛そうな顔をした。
「あいつに……何されたの?」
「あいつ? ……あー、簑原さん?」
芽榴がその名を口にすると、風雅はあからさまに表情を歪ませた。
「別に。何もされてないよ」
「本当のこと言って」
風雅が真剣に言う。芽榴はそれを見て苦笑した。
「キスされそうになって、暴れたら壁にぶつかったってとこかなー」
「キス!?」
「未遂ねー」
芽榴がちゃんと付け加えるが、風雅は「あ゛ーーっ!」と頭を抱えていた。
「ほんっとにごめん!」
風雅が本当に申し訳なさそうに芽榴に謝った。芽榴は不思議そうな顔をして笑った。
「蓮月くんは何も悪くないでしょー?」
「オレが一緒に図書室にいればよかった」
そう言って風雅はまたシュンとなった。
芽榴は困ったように溜息をつき、ベンチに背を預けて空を見た。
「確かに蓮月くんのせいかもねー」
芽榴がそう言うと、風雅はもう一度「ごめん」と言った。
「そうじゃなくてさ……。きっと蓮月くんがいなかったら、そんなこと起こりえなかったと思うの」
「え?」
芽榴の言葉に風雅は首を傾げた。
「蓮月くんがいなかったら、私が生徒会役員になることはなかったよ。蓮月くんがいたから私は役員みんなと仲良くなっていって、頑張ったりして、今回みたいに守ってもらって……」
芽榴は風雅を見て笑った。
「私に居場所を作ってくれた蓮月くんに感謝はしても文句なんてないんだよ」
風雅は口を開いた。でもそこから声なんて出なかった。
頬を涙がつたう。風雅は即座に顔を覆って芽榴に背を向けた。
「あー! もうなんでオレってば芽榴ちゃんの前だとこんなカッコ悪いのかな!」
風雅は涙声でそう叫んだ。
芽榴はそんな風雅を見て笑った。
「だから早くいつもの蓮月くんに戻ってね」
芽榴はそう言って腰をあげた。
「そろそろ帰ります」
「あ、送」
「らなくていいからー」
芽榴は風雅の言葉を遮ってそう伝えた。芽榴らしい応答に風雅は笑った。まだぎこちないけれど、それでも作った笑顔ではないことは確かだった。
「蓮月くん、これ……一応あげるね」
芽榴は風雅にいつもの飴を差し出した。風雅は受け取った飴を不思議そうに見ていた。
「オレ、また笑い方変だった?」
「ううん。泣いた目が赤いのが気になったくらいー」
芽榴がふざけてそう言うと、風雅が「見なかったことにして」と恥ずかしそうに言った。
芽榴は今度こそ家へと足を向ける。
「じゃあ、またねー」
芽榴はそう言って夜の闇に消えていった。
次の日の朝、ラ・ファウスト学園は騒然としていた。
麗龍学園の制服を着た女生徒が堂々と学園内に乗り込んできたのだ。
その生徒は琴蔵つきの執事に連れられ、学園の生徒も滅多に入ることのできない特務室へと向かった。
扉を開けると、正面に目的の人物がいる。
ソファーに優雅な面持ちで座るその男は昨日までとは纏う雰囲気がまったく違う。
「やっぱり来たか。待っとったで」
そう告げる男は琴蔵聖夜だ。部屋の隅には簑原慎の姿もあった。
「……それが本性ですか」
「せや。驚いたか?」
「いーえ、別に」
芽榴はそっけない態度で言葉を返す。「聖夜のことなど全く興味ない」と態度で示す芽榴に、やはり聖夜は楽しげに笑った。
前置きはこれまで。
その笑みを残したまま、聖夜は芽榴を見つめた。
「で、返事を聞かせてもらおうか。楠原……ちゃうな」
芽榴と聖夜の視線が絡み合う。互いに一切視線を逸らさぬまま、聖夜はその名を口にした。
「東條芽榴」