38 策略と策略
あと少しで触れ合う唇。互いの呼吸がわかるほどの距離に簑原慎という男がいる。
「ねえ」
男の吐息が鼻にかかる。芽榴は返事する代わりに彼の瞳を睨んだ。その芽榴の眼を見て慎はニヤリと笑った。
「目、瞑ってくれないとキスしにくいんだけど」
そう言われれば、瞬きすらしてやるものかと芽榴は目をカッと見開いた。というより、知り合って5分ちょっとの相手とキスをしなければならない事実こそおかしいのだが。
慎はククッと喉を鳴らし、顔を傾けた。
「ま、いーや。これも新鮮だし」
「――!」
芽榴は腕を振り払おうと力を入れるが、慎の片手の力にさえ及ばない。身動きがとれないまま慎の顔がさっきよりも近づいてくる。触れ合うまであと3ミリほどの距離で、二人のキスを邪魔したのは他でもない慎のスマホの着信音だった。
「うっわあ、タイミング悪っと。今回はさすがに出ないとね~。もっしー」
慎は芽榴の顎を解放し、電話を始めた。しかし、もう片方の手は芽榴が逃げないよう、彼女の両手を拘束したままだ。しかし、今逃げないと本当に危ない。そう思った芽榴は慎が電話中ということも構わず、両足をばたつかせた。
「えっとねー今は、って動くなっつの」
「いい加減にしてください! ちょ、や、痛っ!」
いきなり動いた芽榴に対し、慎はある程度予想済みだったのか驚いた素振りも見せなかった。ただいっそう芽榴の体を壁に押し付ける形となった。
芽榴の額に汗が滲む中、突如慎の顔から笑顔が消えた。
「え?」
不思議に思った芽榴が首をかしげると、慎はスマホをポケットに直してつまらなそうに芽榴の両手を解放し、そして芽榴の右腕を乱暴に掴んだ。いきなり図書室を出て行こうとする慎の行動はもはや完全に意味が分からない。芽榴は足に精いっぱいブレーキをかけた。
「いきなり、今度はどこに行くんですか?」
「応接室」
さっきとは打って変わって慎は冷たい視線を投げてきた。言葉も吐き捨てるような感じだ。
「は? いやです」
「あんたの意見とか聞いてねーから。聖夜の暇潰し人形なら最初からそう言えよ。つまんねー」
慎の言っていることは理解できないが、慎が勝手にイライラしているのは事実だ。
「どうでもいいですけど、私は図書室にいるって約束が……」
言いかけて芽榴はやめた。いや、口を閉ざされたというほうが正しいか。慎が芽榴の頬を掠める勢いで壁を殴ったのだ。
「いい加減俺に逆らうのやめたほうがいいんじゃねぇの? 遊び終了。まあ百歩譲って俺に逆らっていいとしても、聖夜に逆らうなら……殺すよ」
慎は笑顔でそう言う。しかし、その瞳は一切笑っていない。背筋に冷たいものが走るのを感じて、芽榴は黙って慎についていくことにした。
芽榴は慎に連れられ、応接室にやってきた。応接室の前に集っていた生徒たちは珍しいものを見るような目で二人のことを見ていた。
部屋の扉を開けると、ピリピリとした空気が刺さるほどに伝わってくる。
「聖夜、連れてきたぜー」
「……失礼します」
慎の背後から芽榴が顔を出すと、風雅が勢いよく立ち上がり二人のもとにものすごい勢いで詰め寄った。そしてすぐさま芽榴の腕を乱暴に掴む慎の手をはじいた。
「ってぇー。それ、客に対する礼儀なってなくね?」
「そっちこそ、女の子に対して礼儀がなってないでしょ」
芽榴からは風雅の背中しか見えない。しかし、風雅がこれほど男前に見えたのは初めてのことかもしれない。
「芽榴ちゃんに何したの?」
風雅は聖夜のスマホから聞こえた芽榴の叫び声が気になっていたのだ。芽榴があんな大きな声を出すことは数えるほどしかない。目の前にいるこの慎という男が何かしたということは明白だ。
「え? 別にー。ねえ、楠原ちゃん」
慎がヘラヘラ笑いながらそう言うと、風雅の拳に力が入るのが芽榴にも分かった。芽榴が風雅の手を握るのと颯が口を開くのは一緒だった。
「風雅。相手は客人だからね。粗相を起こしてもらっては困るよ。有利も、いいね?」
颯の言葉にみんなが有利を見る。
「はい、すみません」
片手に木刀を準備していた有利だけれど、まだスイッチは入っていないようだ。完全に盲点だったが、颯は気づいていたようだ。
「申し訳ありません。お互いさまということにしていただけますか?」
颯はあくまでその場を収める。風雅も颯の言うことに逆らうことはしない。それでも、芽榴を背にかばったまま慎を睨みつけていた。
「ええ。僕の連れが勝手な行動をしたようでこちらこそ謝罪を。ですが……」
聖夜は芽榴をチラリと見て颯の目を見た。
「神代会長は僕が探していた生徒が誰か存じあげていたと察します。とすれば、先ほどの僕に対する言動は少し考えものですね」
「それは違います! るーちゃんは役員で、調べ物に行かせてただけで……匿ってたわけじゃ」
「柊!」
翔太郎の静止の言葉で来羅は聖夜が笑っていることに気付いた。
「なるほど」
聖夜はそう呟いて満足げに笑った。
「麗龍学園の生徒会役員ということはかなり優秀。僕が頭を下げ、ラ・ファウスト学園に勧誘するのに不足はない。そういうことになりますけど、よろしいですか? 神代会長」
颯自身が先ほど口にした言い訳を使われれば颯がすぐに反論するのは難しい。
「というわけで、そちらの女生徒とお話させてもらいます」
聖夜の意向で、慎と榊田、そして芽榴を残し、残りの役員は応接室を出て行くことになった。
役員たちの異様な空気により、生徒の群れはすぐに散り、応接室の前には役員たちが佇んでいた。
「蓮月くん、大丈夫ですか?」
「オレはね」
しゃがみこんで顔を伏せている風雅はこもった声で言った。
「大丈夫じゃないのは芽榴ちゃんだよ」
風雅は唇をかみしめた。取り乱して手をあげそうになった自分を止めたのは他でもない芽榴だ。触れた手は微かに震えていた。その震えは恐怖からきたものかもしれない。あるいはかなり乱暴に掴まれていたから痙攣していただけなのかもしれない。どちらにしろ、風雅はただそんなことを考えることしかできない。それもまた悔しいのだ。
「颯、ごめん。私が……」
「柊。それを言ったら皆同じだ」
頭を下げる来羅をかばったのは翔太郎だった。
颯も来羅を責めることはしない。最終的に自分の言葉が決定打だったのだ。誰が悪いと聞かれれば誰も悪くないのだ。聖夜は最初から引く気などなかった。
「あとは芽榴次第」
颯は目を伏せ、そう呟いた。
応接室では芽榴と聖夜が向かい合って座っていた。慎は扉に背を預け、読めない笑みを浮かべている。榊田は聖夜の背後に立ったまま、何も話さない。昨日の自信家な彼など見る影もない。少なくとも琴蔵聖夜と簑原慎という男が彼を緊張させているということは確かだ。
「はじめまして。琴蔵聖夜です」
聖夜は完璧な笑顔を芽榴に向けた。昔、風雅が見せていた笑顔と似ている。少なくとも慎という男が見せている笑顔とは意味合いが違う。
芽榴は聖夜の言葉に安堵し、やっと聖夜の目を見た。
「楠原芽榴です」
そう言うと、一瞬だが聖夜の眉がピクリと反応した。まさかの反応に芽榴も少し身構えてしまう。
「……どうかしましたー?」
「どこかで聞いたことのある名前だったので、つい。珍しい名前ですね」
「そうでもないですよー。子どもの持ってる人形はこういう名前ですから」
「そうですね」
聖夜は薄く笑った。聖夜のする所作の一つ一つがかなり洗練されている。それは芽榴にもすぐ分かるほど美しいものだ。
「ところで、本題に入りますが……昨日はここにいる榊田がご迷惑をおかけしたようで。お恥ずかしい限りです。僕からも謝罪を」
聖夜が頭を下げると、榊田も深々と頭を下げた。相当の屈辱だろう。握りしめた拳が白い。
「別に私は関係ないですよ。こちらこそ少し出過ぎたことをしてしまいましたから」
芽榴は榊田のほうを見て一度軽く頭を下げた。そしてすぐに視線を聖夜へと戻す。
「いえ、そんなことはありませんよ。楠原さんは非常に優秀な方だと察します。そこで、唐突ではありますが、我が校の特務生徒として編入学を考えていただきたいのです」
「……特務生徒、とはどういう……?」
「ああ、学園のトップに立つことを許された生徒のことをそう呼んでいるんです。ちなみに今の特務生徒は……僕と、そこにいる簑原慎だけ」
そう言って聖夜が慎に視線をやる。芽榴も聖夜と同じく慎に視線を向け、目を細めた。芽榴の視線を受けても慎はどこ吹く風で受け流す。
「もちろん、学費や編入学に関する費用はこちらが全額支給します」
聖夜は視線を戻し、芽榴のことをしっかり見つめて言った。
「ここには優秀な役員が他に五人もいます。あなたがいなくなっても問題はないでしょう。しかし、我々はあなたを必要としています。どちらがあなたのためによいか、お分かりになりますね?」
芽榴は少し黙った。流れる沈黙は重く、ただ時計の針が動く音だけが木霊する。
そうしてやっと芽榴が口を開いた。
「お断りします」
芽榴の言葉に聖夜と慎はカッと目を見開いた。
「私は別に優秀でも何でもありません。少し調べれば分かります。私が役員になったことに対する不満の声も多くあります。そして……琴蔵さんが言うように、ここには優秀な役員が他に5人います。切り捨てられても構わない人材をそちらの学園に引き入れるのは浅はかな考えです」
「ですが……」
聖夜が反論の言葉を述べる前に芽榴は声を重ねた。
「そんなことをしていただかなくても、私はラ・ファウスト学園が自分以下なんて触れ回ったりする気はありません」
芽榴は笑顔でそう言った。
聖夜がここに来た理由など分かっている。榊田のことで謝罪に来たのなら行く場所はここではなく茶髪くん親子のところ。
いくら芽榴が優秀だから勧誘も兼ねた、と言ったところで話が強引すぎる。本題が芽榴への口封じということは少し考えれば分かること。
といっても、今この瞬間にそれだけのことを考えられる人間はごく少数。天下の琴蔵財閥のご子息様に特別待遇でラ・ファウスト学園へ勧誘されて、それでも舞い上がらずに冷静な考えを巡らせられる人物はそういない。それができるのはおそらく麗龍学園の生徒会役員くらいだ。
芽榴の答えを聞いた聖夜は俯いて肩を震わせていた。
「聖夜?」
慎が怪訝そうに聖夜に問いかけると、聖夜はクスクスと笑いながら顔をあげた。
「それは話が早いです。ぜひその方向でお願いします。ですが」
聖夜は立ち上がり、芽榴の手をとった。
「やはりあなたにはこちらの学園に来ていただきたい」
「は?」
「先ほどの返事は聞かなかったことにします。よく考えてみてください」
聖夜は紳士的な笑みを浮かべて、扉のほうに向かう。
「慎、榊田」
聖夜の言葉に、慎と榊田も彼の後ろに続く。
扉が開くと、役員がすぐに中に入ってきた。来羅が芽榴のそばにすぐに駆け寄った。
風雅は慎の姿を見るや彼を睨みつけるが、慎はそれを鼻で笑って誤魔化す。
「蓮月くん、抑えてください。気持ちは分かりますけど」
風雅のそばにいる有利が彼の腕を握っている。有利が冷静な状態でここまで怖い顔をすることは滅多にないだろう。
そして扉から一番遠くに立っていた颯のもとに聖夜がやってくる。聖夜は颯を見て薄く微笑んだ。
「彼女はいずれこちら側になりますよ」
「……っ」
聖夜の言葉に颯の隣にいた翔太郎が反応するが、それを颯が目で制した。
去っていくラ・ファウスト学園の男たちを背に、颯はただ立ち尽くすのみだった。




