35 帰り道と暗躍《改訂版》
ラ・ファウスト学園・特務室。
琴蔵聖夜は窓の外を見つめながら、仕事の連絡でどこかの会社の社長と電話をしていた。
「はい。会議は今週末に……ええ、お願いします。いえ、僕の方こそ未熟者ですから……はい、それでは失礼します」
通話が切れたのを確認して聖夜はスマホをソファーに投げる。
「……あぁ、かったる」
聖夜はそんなふうに呟き、肩をポキポキッと鳴らした。琴蔵本家は大阪にあり、彼自身の出身も大阪。社交の場では標準語のほうが何かと便利だからと幼い頃から叩き込まれたが、どうも性に合わない。
「にしても、あかんわ。イライラ止まらへん。……この俺がすっぽかされるとかほんまふざけとる」
聖夜は一昨日のことをいまだ引きずっている。東條が自分との交渉をドタキャンして麗龍学園に行ったことが気にくわない。
まるで聖夜よりも麗龍学園のほうが格上のような感じがするのだ。
「……相手が東條やなかったら潰しとるわ。ムカつく」
そんなふうに一人で愚痴を漏らす聖夜はボーッと窓の外を見ている。しかし次の瞬間、その目がカッと見開いた。
「……麗龍の制服……」
姿形ははっきりと分からないが、あのモノクロ色の制服は麗龍、白地のスカートがその特徴だ。
麗龍の生徒がラ・ファウスト学園の敷地を歩いている。なぜ麗龍の生徒がいるのか。
聖夜がそんな思考を巡らしているあいだに、その女生徒は門の外に消えていく。
「……っ」
今一番見たくないものを目にした聖夜は、ギリッと唇を噛んでソファーに投げ捨てたスマホを拾い上げた。
急いで連絡をするが、何回コールしてもその人物は出ない。
「あのアホが!」
そう言って、聖夜は特務室を勢いよく出て行く。猛スピードで聖夜は図書室までたどり着き、バンッと大きな音を立ててその扉を開けた。
予想的中で聖夜の目的の人物がそこにいた。
「きゃあ!」
「うっわ〜、聖夜どした? 珍しっ」
聖夜の登場に、上半身裸の女生徒は急いで体を隠して奥に消える。一方全く衣服の乱れていない男、簑原慎は聖夜のほうを見て楽しげに手を振った。
「お前のスマホは玩具か。ワンコールで出ろ言うとるやろ!」
「ははっ、ごめん。いいとこだったからさ〜」
そんなふうに慎は楽しそうに言って、聖夜の怒りをかわす。
「…で、わざわざ聖夜がここまで来た理由は?」
こんなことを口論していてもキリがない。慎が真面目に尋ねると、聖夜は一気に冷静な顔つきに戻る。
「麗龍の女が学園に来とった。接触した生徒探せ。至急や」
「麗龍? うっわ、ナイスタイミング〜。誰だろーな、聖夜のお怒りに触れた可哀想なバカは」
「それを探せ言うとるんや」
聖夜が静かに言うと、慎は「了解」と笑って図書室を後にする。聖夜も図書室にこれ以上の用はないため、そのまま図書室を出て行った。
「えっ、買収されなくて済むの!?」
芽榴たちはラ・ファウスト学園からの帰り道、茶髪くんの家に寄った。昨日茶髪くんが承諾書を持っていくと伝えてからおばさんは家で寝込んでしまい、今日は喫茶店もお休みしていたらしい。
茶髪くんは驚くおばさんに、榊田に書いてもらった誓約書を見せてあげる。今後、喫茶店に関して一切関与しないという大切な証拠品だ。
「ありがとう、リュウ! お父さんも喜んでくれるわ!」
おばさんがそう言って、泣きながら茶髪くんに抱きつく。すると、茶髪くんは困ったように笑って芽榴のことを指差した。
「圭の姉貴が助けてくれてさ、もう本当すっごいかっこよくて、頭でっかちも圭の姉貴に負けて悔しそうにしててさ、母さんにも見せたかったぜ、マジで」
「本当だよっ。なんかドラマ見てる気分だった!」
チョンマゲくんは興奮ぎみにそう言って、芽榴に尊敬の眼差しを向けた。昨日までの芽榴への態度とはまるで違う。茶髪くんとチョンマゲくんにとって芽榴はもはや神様だ。
「お前ら調子いいなぁ」
「あははっ、私は別にー」
圭が苦笑し、芽榴もカラカラと笑う。けれど布団から起き上がったおばさんは本当に感謝していて、芽榴の両手をギュッと握った。
「本当に、ありがとう。……あのお店は私にとって本当に大切だったの…。ありがとう」
その感謝が心に染み込む。
芽榴はそれが嬉しくて、柔らかく笑った。
しばらく茶髪くんの家でくつろいだ後、芽榴と圭は家へと帰ることにした。帰り際、おばさんには「圭くんのお姉ちゃんがお店に来たら全部タダ!」と言われ、かなり気に入られてしまった。
「にしても、芽榴姉。本当すごかった」
圭は芽榴の隣を歩きながら、芽榴に伝える。芽榴は「そうー?」と言って笑い、圭のほうを見た。
「芽榴姉」
「んー?」
「ありがとな」
圭は芽榴に笑いかける。
今回の件、芽榴は圭以上に関わる必要がなかった。けれど圭の友達が困っていた。それはつまり圭も不安になるということで、芽榴が茶髪くん親子を助けることにそれ以上の理由はなかった。
「圭のためなら当然」
芽榴は目を閉じて薄く笑う。
そんな芽榴の笑顔を見て、圭は少し困った顔をした。芽榴が圭に視線を向けると、圭は芽榴の顔を自分から離すようにグイッと押す。
「芽榴姉のばーか」
「なんでよー?」
「別に。さっき言われた仕返し」
芽榴には圭の笑い声が聞こえた。しかし、芽榴からは見えない圭の姿はとても切なげだった。
ラ・ファウスト学園、特務室。
「お、お許しください! 簑原様!」
床に跪くのは榊田だ。そして踏み潰すようにして彼の頭に足を乗せるのは簑原慎だ。
「ごめんけどさー、俺に謝っても意味ねぇんじゃん? だって俺は別に怒ってねぇし。怒ってんのはこっち。謝る相手間違ってんよ、榊田ちゃん」
ケラケラ笑う慎は足に力を入れ、榊田の顔は床に潰れてしまう。
あの後、聖夜の命令を受けた慎はまさにその言葉通り「至急」麗龍の女生徒と接触した生徒を見つけた。
聖夜が特務室に連れてくるように言い、榊田は慎に連れられて聖夜のところにやってきた。たとえ逃げたくとも逃げられない。聖夜の意見に逆らえる人間など、少なくともこの学園には存在しなかった。
「申し訳ありません! こ、琴蔵様!」
「だってよ? 聖夜。榊田ちゃんが頭擦り付けて謝ってんだから許してやろーぜ?」
慎はソファーにふてぶてしく座る聖夜を見て言う。
言われた聖夜は慎の足元を蔑むような目で見ていた。
「許す? 笑わせんなや。麗龍の女生徒と通じとるだけなら文句もあらへんよ。でもお前の話は何や? 金も権力もあるくせに、ド庶民と交渉で負けたとかアホとしか思えんわ。しかも負けた相手が麗龍の生徒? 舐めとんのか、お前は」
聖夜の声音はひどく冷たい。静かな怒りが榊田だけでなく慎の体にも突き刺さるように伝わった。
「ほんと榊田ちゃんもタイムリーすぎじゃね? 不憫だけどさぁ、聖夜は今、麗龍学園の名前聞くだけで不機嫌になるんだぜ?」
「慎。黙れや」
聖夜はソファーから立ち上がり、ゆっくりと二人のもとに歩み寄る。
榊田の前で立ち止まった聖夜は慎の胸をトンと押してしゃがみ込んだ。
「……ひっ!」
聖夜は榊田の前髪を掴んで顔を無理やり上げさせた。
「まあ、ええわ。よくて退学、悪くて……家ごと潰したってもええで?」
聖夜はそんなふうに言って榊田の不安を煽る。聖夜の言葉には言葉通りの行動を起こす権力が伴っていた。聞いた榊田は顔を真っ青にしていく。
「どうか……どうかそれだけは! 琴蔵様、お願いします!」
聖夜は榊田の願いを聞いて薄く微笑んだ。
それは誰もが受諾の意のようにとるであろう笑みだった。
「誰がお前の頼みなんか聞く思うてん。……でもせやなぁ。その女見つけ出すんには、お前の力が必要や。俺の駒になるっちゅうんやったら……今回の件許したってもええで?」
それに縋らない手はない。榊田にはそれを断ることができない。断ったところで地獄。けれど彼は知らない。聖夜の駒となることも同等の地獄であることを――。
榊田と契約を交わした聖夜は冷徹な眼差しをもって、榊田の頭を投げ捨てた。
取り乱した榊田はもはやセレブなどという言葉は似合わない。掻きむしった髪もグチャグチャになった制服もどれもがみすぼらしい。
聖夜の目には榊田のすべてが汚らわしく見えた。
床に伏せる榊田など気にも留めず、先ほどまで寝転がっていたソファーに戻る。
そんな聖夜の様子を楽しげに慎は見つめていた。
「で、どうすんの〜? 聖夜。このままじゃ、ラ・ファウストの名に傷つくぜ?」
慎は楽しげに言う。本当はラ・ファウスト学園の名がどうなろうと知ったことではないのだ。
麗龍学園によって聖夜の予定が潰されたのはつい一昨日のこと。暇潰しのお遊びを始める動機はそれだけで十分だった。
慎の言葉の真意を察し、聖夜は視線を窓の外に投げる。
最近はつまらない話ばかりが辺りを囲んでいた。そこにちょうどよく舞い込んだのは、聖夜の苛々の元凶――。
「麗龍学園……調子のる前に黙らせたるわ」
そう呟く聖夜の声はひどく冷たかった。